第五章 天明八年 春 (八)
康二郎は話が予想外過ぎて呆気にとられ、何も言えずに殿様の顔を見つめ続けた。
「今はお役目により千石だが、元々は九百石のお家だ。三百石から九百石では差がありすぎると思うだろうが、そこはお前を一旦私の実家である布施家の養子とすれば六百石になる。六百石から九百石ならばさほど珍しくはない。兄上もご快諾くださった」
康二郎は殿様の話を受け止めきれなかった。殿様が返事を待つ様子に、なんとか口を動かした。
「そんな、まさか……嘘でしょう?あの御目付様がそんな……ましてや、私の母は武家の出ではない女中です」
康二郎の神保左内の印象はよくない。神保左内の方でも康二郎の印象は良くなかったはずだ。信じられない。
「わしも最初は信じられなかった。何かの策略ではないかと疑ったくらいだ。だから実際に神保殿とお会いして話をした。神保殿はここへお調べでやって来た後、どうにもお前のことが気になったそうだ。もうどこかから養子の話が来ているかもしれない、駄目で元々とわしに申し込んでこられたそうだ。お前の母が武家の出ではないことも、もちろんご承知だ。神保殿も妾腹だから、その辺りは気にならないそうだ。人柄が第一らしい。神保殿は目付の中でも一目おかれている、厳しいが清廉潔白な曲がったことのお嫌いなお方だ。そんな御仁がお前の人柄に惚れ込んだというのだ」
いつも感情を出さない殿様にしては、嬉しそうな様子が感じられた。
「神保殿は一度屋敷に来るとよいと申されていた。こんな良い話は無いぞ」
断るなどあり得ないと言わんばかりの殿様の口調に、康二郎は素直になれなかった。自分から屋敷を出ていこうとしていたのに、養子の話を渡りに船とは思えず、出ていけと言われているようで寂しさが募ってきた。勝手なものだと自分でも思った。
九百石といえば、三枝家より更に大きい。康二郎にはその内側など想像がつかない。九百石を背負うことには不安しか感じられなかった。
ちっとも嬉しそうではなく黙りこくっている康二郎に、殿様は苛立ったらしい。
「このご時世では、養子に行きたくてもいけず、一生を屋敷の隅で気兼ねしながら暮らす者も多いのだ。小普請組に入った後では話があっただけでも運が良かったと思わねばならぬところが、九百石ものお家から声がかかったのだぞ」
殿様の言葉には重みがあった。六男である自身が養子先を見つけるのに苦労したのだろう。六百石から三百石へ婿入りしたことからも察せられる。
「九百石に面食らったかもしれないが、何千石ではないのだ。とにかく一度神保殿のお屋敷へ行ってみなさい。そう言ってくれるのもあまり無いことだぞ」
康二郎は素直に「はい」と答えられなかった。
この屋敷へ又兵衛に連れて来られた日からこれまでのことが頭の中を駆け巡った。
――俺は何なのだ?
そもそも目の前にいる殿様が父親ということで養子の話が来た。康二郎が父上と呼んだことの無い、その前に父親だと心から思ったことがない人物なのに、だ。
そんな人物が自分の人生を決めようとしている。必ずしも望まない人生を。
康二郎は悔しくなった。
「私は本当に殿様の子なのですか?」
俯いたまま、そう言ってしまってから、
――違う、そんなことを言いたいのではない。
康二郎は後悔した。しかし覆水盆に還らずである。
「康二郎……」
今度は殿様が黙りこんだ。
康二郎が沈黙に耐えかねて顔をあげると、殿様がじっと康二郎を見つめていた。その目に康二郎は初めて深い慈しみと悲しみを感じた。
殿様は康二郎から目を反らし、文机に向かいながら言った。
「驚くのは無理もない。長屋に戻って落ち着いて考えてみることだ」
辺りが暗くなってきても灯をつけず、康二郎はぼんやりと長屋の店に座っていた。
やはり自分は旗本ではないのだと感じていた。旗本ならば、いや、武士ならば、三百石から九百石への躍進に喜んで即答していたことだろう。
――少しも嬉しくない。伊兵衛がこの話を聞いたら、なんと言うだろう?
無性に伊兵衛に会いたくなった。
戸を叩く音がした。
「康二郎、いるのだろう?俺だ。和之助だ。酒を持ってきたぞ。今夜は二人で飲もう」
康二郎が戸を開けると、大徳利を抱えた和之助が、後ろに盃や肴をのせた盆を手にした俊三を引き連れて立っていた。
「神保殿からお前を養子にという話が最初にあったのは、かれこれ二月近く前だ。お前に告げるのに時がかかったのは、父上が慎重に相手の真意を何度も確かめたからだ」
長屋の六畳で胡座をかき、康二郎の盃を満たしながら、和之助が教えた。早くも三杯目だ。
「大事なお前を変な思惑を持った所へ養子にはやれないと、大和屋にも頼んで色々調べさせたのだ」
和之助が「大事なお前を」と言ったことに康二郎は違和感を覚えたが、黙って話を聞いた。
「父上はあの通り、日頃感情を表に出さないお人だ。昔気質の武士ということなのか、単なる不器用な人なのか。だがそんな父上が感情を露にしたことが、俺の知る限りではこれまでに三度ある」
和之助は酒を一口含んでから続けた。
「最初がお前の母、お松の死を知った時だったのだと、俺は後から知った。濡れ縁ですれ違った父上の顔色は真っ青で心ここにあらずの風で、そのまま部屋に籠って翌朝まで出てこられなかった。泣いていたのだと思う」
膝に置いた盃を持つ手をぼんやり見ながら話を聞いていた康二郎が顔を上げて和之助を見ると、ずっと康二郎を見ていたらしい和之助がニヤリと笑った。
「本当だぞ。あんな父上を見たのは後にも先にもあの時だけだから、子供心にも強く印象に残ったのだ。
二度目はお前が木から落ちて怪我をしたと聞いた時だ。俺は甲山先生を呼ぶことを父上に懇願するつもりでご帰宅を待ち構えていたのだが、お前が木から落ちて熱を出し、寝込んでいると聞いたときのあの顔!真っ青になり、すぐに先生を呼べと言いおいて、お前の様子を詳しく訊ねてきたよ。俺の腕を掴んで畳み掛けるように。俺はその時、父上はお前を心から大切に思っていると感じた」
和之助は盃を飲み干すと、すぐにまた自分で注いだ。
「三度目はお前が大勢の浪人に襲撃されたのを伊兵衛が退けたと知った時だ。青ざめた顔色から心底ホッとして力が抜けたような、心の内が溢れ出た瞬間だった」
和之助は肴の漬物に手をつけながら、軽い調子で言った。
「冷静に考えてみろよ。唯一本気で惚れた女の忘れ形見がかわいくないわけがない。しかもその息子には女の面影があるのだぞ。父上はお前が可愛くて仕方ないのだ」
そう言われても、康二郎はすぐに納得できなかった。
「だったら何故……」
――自分の前では感情を現さず、淡々とした態度を崩さなかったのだ?
「父上がこの屋敷であの悋気の強い母上の魔の手からお前を守り、無事に育てるにはどうしたら良いかと考えた時に、最良の策だと思いついたのが、お前に冷たい態度を取ることだったのだろう。
不器用な父上は一度感情を表に出したら、二度とそれまでのように隠せないと思ったのかな。器用な人なら母上の前では冷たい態度を見せながら、裏でお前に優しく声をかけることぐらいできたと思うからな。
父上の策は正しかったと思うよ。俺は父上の態度に尚更お前を庇わなければと思った。うまく父上にのせられたのかもな」
和之助が意味深な笑みを浮かべた。
「もしも父上がお前を心のままに可愛がっていたら、俺はお前に嫉妬したかもしれない。そうしたら、母上と一緒になってお前を虐めようとしたかも……」
「兄上……」
「人の気持ちなんてそんなものさ」
和之助は康二郎と違ってかなりの酒豪だ。軽く盃を飲み干すとまた注いだ。
「もしも俺がお前を母上から庇うことが父上の策の一つだったなら、俺は策にのって良かったと思う」
和之助は笑みを消した。
「今の俺があるのは、康二郎、お前のおかげだからな」
「何を申されるんですか。今、俺がこうしてあることこそ、兄上の……」
和之助は康二郎に最後まで言わせず、首を横に振った。
「当たり前だが、お前はお前がここに来る前の俺を知らない。
お前が来る前の俺は部屋に籠ってばかりいた。毎日、母上が父上や奉公人の愚痴、悪口を言うのを直に聞かされたり、聞きたくなくても聞こえてくるのにうんざりして、ひたすら部屋に籠って絵を描いていたのだ。描いた絵も俺の気持ちを表しているから、何を描いてもどこか暗くて険しかったよ。何よりそんな自分が嫌だった。
父上から異母弟がいると聞かされた時は本当に嬉しかった。弟が自分を変えると期待していたわけではなく、仲間ができるのが嬉しかっただけなのだが、いざ会ってみたら、可愛らしくて面白くて、俺は一目で気に入った。兄らしくない言い種だが、なにせ当時の俺が思ったことだから、許してくれ。
お前と過ごしているうちに、俺は嫌な自分から抜け出せていた。もしもあの幼い頃のまま成長していたら、ひょっとしたら卓之助達の仲間になっていたかもしれない……今から振り返ると、こんなに幸運なことはなかったよ」
これが伊兵衛が言っていたことかと康二郎は思い返していた。
今度は康二郎が首を横に振った。
「今の俺があるのは、間違いなく兄上のおかげです。我々は互いに補い、助け合ってきたということですね」
康二郎が大好きな兄、和之助だ。改めてこの兄がいて良かったと、心から思う。
「俺も父上もお前がこの屋敷を出ていくのは心から寂しい。又兵衛が言っていたように、お前はお天道様のような奴だから、お前がいなくなると、この屋敷も暗くなるだろう。だが決してお前を冷飯食いにしたくはない。用人で終わらせたくもない。三百石の小普請組ではあまり大きなことは言えないのだがな。
実のところ、俺は家督を継いだらさっさと隠居してお前に継がせることを考えていたが、三百石では何人も隠居を抱えるわけにいかない。
だからこそ、父上と俺が願うのは、お前を気に入ったという神保殿のお屋敷がお前にとって居心地の良い屋敷であることだ。
もっとも、気に入らなければいつでも戻ってきて良いんだぞ。だから気軽に一度お屋敷へ行ってみろ。もしも神保殿のお屋敷でやっていけると思ったなら、お前には色々良いことがあるのだからな。まず、伊兵衛をまた中間として雇える」
康二郎はそこへ話を持っていくのかと、少々ずっこけた。
「伊兵衛は優秀だが、難しいところがある。お前とは馬が合って、良い主従……というより、若と乳母のような間柄になっていたが、めったにないことではないか。伊兵衛も他の屋敷ではあのようには勤めないだろう。あそこまで互いに信頼できていたという、その信頼がまた二人を結びつける気がする。今回の養子の話もその流れかもしれない……」
そこまで言ったところで、和之助は康二郎の盃を見た。
「全然飲んでいないではないか。俺相手では飲めないのか?」
と、文句を言ってきた。
「兄上の話を真剣に聞いていたからですよ」
康二郎はあわてて盃を煽った。カーッと喉から胃の腑が熱くなり、その熱さが身体全体へと広がっていく。一、二杯目よりもっと熱く感じた。
手酌で飲むのが武士の慣習だが、和之助は康二郎に飲ませようと、すぐに盃に酒を注いできた。酒を注ぎながら、言った。
「なんというか、運命的なつながりがある気がする。おまえと伊兵衛には……あ、あっちの意味ではないぞ」
和之助は最後だけは笑っていた。
「そっちの方でないことは、俺が一番わかってますよ」
康二郎も笑って言い返しながら徳利を兄から奪い、その盃に酒を注いだ。先ほどまでと違って身体から熱さがなかなか引かない。頭が少しぼうっとしてきたが、手元はまだしっかりしていて酒をこぼすことはなかった。
注ぎ終えた康二郎は、兄に疑問をぶつけることにした。前々からあった疑問だが、昼間に定九郎から聞いた話で、さらに大きくなった疑問だ。
「伊兵衛があれほどまで俺に尽くしてくれたのは、なぜでしょう?運命的な何かを感じたから、というのは納得できません。どうしてこんなに尽くしてくれるのかと伊兵衛に尋ねたら、俺に夢を託しているのかもしれないと言っていましたが、どんな夢かは教えてくれませんでした。どんな夢を託せば、あそこまで赤の他人に尽くせるのか……」




