第五章 天明八年 春 (七)
「久しぶりだな、定九郎さん。俺を覚えているか?」
定九郎は四年前とほとんど変わっていなかったから、康二郎は視界の隅にちらりと見えただけですぐにわかった。背中に布団らしい大きな荷物を背負っているのも同じだ。
そして定九郎の隣には、折編笠を被り、落ち着いた茶系の着物を着た女と見える人物がいた。
康二郎は一瞬、定九郎は陰間から女郎の付き人に鞍替えしたのかと思ったが、近づいて見えた化粧顔の線の太さと身体つきからして、やはり少年だった。
定九郎の連れは、クリクリした目に尊敬と怖れを浮かべて康二郎を見あげていた。前に見た小三郎は美しいと思わせたが、この子は愛らしい感じがある。
定九郎は訝しげに近づいてくる康二郎を見ていた。目の前まで近づいたところでようやく目を丸くして、口を開いた。
「これは驚きましたな!伊兵衛がお供していた、寺小姓に紹介したら引く手数多だったろう、あの小柄で可愛らしかったお侍様がこんな大柄な美丈夫になられたとは!四年前のあなた様には素顔での可愛らしさに対抗心を燃やした小三郎も、今のあなた様には一目惚れするでしょうなぁ……三年は無理だったかな……が、二年はいけたなぁ。かえすがえすも、もったいない」
――あの時、俺をそんな風に見ていたのか……この男は人買いもやっているのだろうか?何がもったいないだ!
今頃になって口を利くなと強く言っていた伊兵衛の気持ちがよくわかった康二郎である。小三郎の対抗心云々はするりと康二郎の頭を抜けて、気軽に声をかけたことを若干後悔した。しかし懐かしさだけでなく、訊いてみたいことがあったのだ。
正直に答えてくれるかどうかわからないが、康二郎には他に訊ける相手がいなかった。駄目元で聞くしかない。
野田の殿様の奥右筆の御役御免に、伊兵衛が前月で野田家から暇を取ったことや、小三郎が今は某寺院で寺侍をしていると、互いに近況報告をしあったあとで、康二郎はさりげなく訊きたかったことを切り出した。
「そういえば、お主が伊兵衛と出会ったのは、伊兵衛が三千石の進藤殿に奉公していた時か?」
「……どうしてそのようなことをお訊きになるので?」
「伊兵衛とお主の間柄がなんとも微妙な気がして、気になっていた」
康二郎が本当に知りたいのは進藤修理亮の所業だったが、嘘が苦手なこともあり、ここは搦手でいった。
――否定しないということは、やはりそうか……
「へへ。いつも味方とは限りませんからな」
「敵になった時があるということだな。いつの話だ?」
「伊兵衛は康二郎様に何も言っておらんのですかな?そしたら、あっしも迂闊には話せませんや」
そう言いながら、定九郎は突然厭らしげな笑みを浮かべた。思い出してつい顔がニヤけた、という感じだった。
「なんだ、その笑いは?」
康二郎は訊かずにいられなかった。
「いや、何でもありやせんよ」
下卑たニヤニヤ笑いは続いている。
「伊兵衛さんて、お前さまが閨ごとを褒めていたお人ではないのかえ?自棄になってる隙をついた時も良かったって……」
康二郎と定九郎のやり取りを見守っていた少年が上方言葉で暴露した。
慌てて少年の口を塞いだ定九郎だ。
「康二郎様、こいつの言うことは気にならさぬようぐぇっ」
怒りのまま、ためらうことなく康二郎は定九郎を殴っていた。
定九郎は一間以上吹っ飛んだ。背中に背負っていた布団が転倒の衝撃を和らげたはずだが、呻き声を洩らした後にしばらく動かなかった。
――こいつ、よくもぬけぬけと!自棄になってる隙をついただと?伊兵衛が生きるのに絶望した時の、少なくとも一度はお前が更に追い込んだわけだ!心についた深い傷をおまえはさらにえぐったのだ!
ようやく定九郎が顔を押さえながら半身を起こしたと思ったら、ペッと口から歯を吐いた。それから唖然とした顔つきで康二郎を見た。
「何が『これで借りがチャラになる』だ!お前のやったことは、何をどうしたってチャラになるものか!」
康二郎の怒りは一発殴ったくらいでは収まらなかったが、定九郎は所詮小物、脇役である。
伊兵衛が「自棄になった」のは進藤修理亮が一番の原因なのだから、怒りはそちらに溜め込んでおくのがよい。
康二郎は少年に向いた。
「教えてくれてありがとう。しかしお前さんの付き人の歯を折ってしまったのは不味かったな」
少年は笑っていた。やはり男の子だと康二郎は思った。
「ホンマのこと言うただけですし、あの人は歯を折られたくらい、どうということありません。お侍様はええお人やから、伊兵衛さんが羨ましい……」
「お前さんも生きていれば、そのうち良い出会いがあるさ」
少年の最後の言葉には若干気になる所もないではなかったが、康二郎は深く考えるのは止めて、そう励ました。
そろそろ道場へ向かわねばならない。
その場を去ろうと、殴り飛ばした定九郎の側を康二郎が通った時、定九郎が不気味に笑い出した。
「伊兵衛が康二郎様を守るためなら命を落としても悔いはないとまで言うわけだ。アイツからそんな言葉を聞かされるとは思ってもみなかったが、なるほど熱いお方だ」
康二郎は立ち止まって、定九郎を見下ろした。
「伊兵衛がそんなことを言っていたのか?」
「四年前にね。まだお仕えして間もなかったのに、一体アイツはあなた様に何を見たんでしょうかね?」
「俺は四年前にも伊兵衛に命を賭けてまで俺を守ってもらいたいとは思っていなかった。俺のせいで命を落とすことはしてほしくない。伊兵衛に限らず、誰にも……」
康二郎は思わず空を見上げた。
――おっかさん……
その時、康二郎は思い出した。伊兵衛が康二郎の耳をふさいで定九郎に何か依頼していたことを。
「その、伊兵衛が命を落としても悔いはないと言ったのは、俺の耳をふさいでお主に何か頼んでいた時か?」
康二郎の問いに、定九郎は記憶をたどろうとする様子を見せた。
「……いえ、あん時じゃありやせん。あん時は…·…」
「あの時は?」
康二郎は定九郎に答えを催促するつもりで言った。
「あん時に伊兵衛とあなた様をつけてた奴が何者か調べて欲しい、腕利きと評判の浪人に仕事を請け負ったような動きがあれば、知らせてくれ……でやしたな、確か」
「腕利きの浪人の動きを……」
「結局、事前に突き止められなかったんでやすがね。何せ無宿者が増える一方だったから……今もでやすがね」
伊兵衛は、定九郎を使って松平卓之助達の動きを事前に掴もうとしていたのだ。結果的にはうまく事前に掴むことができなかった……
「佐太郎さんのことで次に会った時でやすよ。さっきのセリフを伊兵衛が言ったのは。あっしがあんなガキのために、年に数両の給金で命懸けるこたぁねぇだろ、浪人どもが襲ってきたら、放って逃げちまえって言ったら、ギロリと睨まれた」
「俺も不思議だったよ。伊兵衛がどうしてあんなに尽くしてくれたのか。浪人の襲撃を退けた後も、伊兵衛は俺を色々助けてくれた……俺に夢を託しているからかもしれないと言っていたが……」
「ほう、あいつがそんなことをね」
康二郎は伊兵衛に会いたくなった。だが、会ってどうしようと言うのか。
どんな夢を康二郎に託しているか尋ねても、この前と同じ答えが返ってくるに違いないのだ。どんな夢を託しているにしろ、伊兵衛は決して康二郎に押しつけはしない。
そんな伊兵衛自身のこれまでの苦労を思うと、康二郎はやるせなく、口惜しさまで感じる。
いくぶん重たい気分で再び歩き出した康二郎だったが、「あっ」と声を出してまた立ち止まった。
「いかん!預り証に蕎麦切り!」
慌てて引き返した康二郎に定九郎が一瞬ビクッと身構えたが、康二郎の方はそちらへは見向きもせず林の中に入り、木の根元を見て回った。
「あった!良かった……」
とある木の根本から平べったい袋を手に取ると、埃を払い、大事そうに脇に抱えた。
足早に去る康二郎を見送りながら、定九郎とその連れの少年だけでなく、その場に残っていた暇人、数名の頭の中に「蕎麦切り」が大いなる謎として残されたに違いない。
道場で代稽古と自身の稽古を済ませ、康二郎が野田の屋敷へ戻ったのは、夕の七つ半頃(午後5時頃)だった。
道場では近々、久しぶりに同流派の他道場と立ち合いを行うと聞かされ、この日の卓之助との真剣勝負は良い経験になったと、気持ちがさらに引き締まって良い稽古ができた満足感を抱いての帰宅だった。
門番をしていた俊三に、松平卓之助のことを念頭に、自分に何か言伝てはないか尋ねようとしたら、その前に言われた。
「殿様が大事なお話があると、康二郎様をお待ちです」
満足感は吹っ飛び、松平家から何か文句を言われたのだろうかと、康二郎は長屋に荷物を置いただけで足をすすぎもせず、庭から殿様の部屋へ向かった。
康二郎が潅木の向こうに見たのは、殿様の部屋の障子が開け放たれていて、部屋の主が着流しでその前の濡れ縁に胡座をかいて座り、書物を読んでいる光景だった。
康二郎が声をかける前に殿様が康二郎に気づいた。
康二郎は一礼して言った。
「ただいま戻りました。俊三から殿様が私に大事なお話があると聞き、急ぎ参りました」
「うむ。ここへ上がれ。部屋の中で話す」
「足をすすいでおりませんから、ここで……」
「気にするな」
殿様は短く言うと、濡れ縁から立ち上がり、部屋の中にある文机の横に正座した。
康二郎は懐から手拭いを出し、その手拭いでなるべく足についた土や埃を落としてから濡れ縁に上がった。
殿様の部屋に入るのは初めてだと思った。いつもはこの部屋の隣にある客間で報告し、指示を仰いでいる。
殿様は康二郎に座る位置を示した。文机から一間もない所だ。
緊張しながら康二郎が殿様の前に座ると、すぐに殿様が口を開いた。
「お前に養子の話がある。御目付の神保左内殿がぜひお前を嫡男として迎えたいと申されている」




