第五章 天明八年 春 (六)
――何者だろう?
まず考えたのは、公儀の隠密である。昨秋以降の厳しくなったらしい旗本、御家人監視の網に引っ掛かった可能性もあったが、野田家にかかった疑いを考えると、帳簿の返却後もその筋からしつこく探りを入れられていて不思議はない。
康二郎は予定通り神明様の境内へ入っていった。
この時代では、大きな寺社の近くまで来てお参りしないなどあり得ない。
康二郎が神様にお願いしたいことは山ほどある。芝神明に祀られているのは八百万の神々の最高位にあらせられる天照大神様なのだから、色々なお願いを快く引き受けてくれるかもしれない。
本殿で須美、甲之助の健康に和之助の絵が認められること、伊兵衛とその家族の健康と幸せを念入りに、さすがに奥様とおみつは省いたが、そこから結局は野田家や自分にこれまで関わりのあった、ほぼ全員の健康と幸せをお願いしていたら、時間がかかってしまい、後ろから咳払いが聞こえた。
慌ててお願いを締めくくり、数歩、本殿から離れたところではたと気がついた。
――あ。俺のこれからのこと、お願いするのを忘れてた……
まぁ、あまり欲張ってはいけない、自分のことは自分でどうにかするさと気を取り直し、康二郎は自分にまとわりついている気配に頭を切り替えた。
間違いなく後をつけている男がいる。
人の多い神明様の境内だが、隅には人気のないところがあるのではないかと、康二郎は物見遊山を装いながら、奥へと歩いていった。
果たして、木々が聳える人気の無い一角があった。増上寺との境が林になっている。
康二郎は林の中に入ると素早く身を隠した。
しばらくすると、よれよれの薄汚れた小袖と袴で二本を差した総髪の浪人体が現れた。
無精髭を生やしていて、康二郎より少し大きいくらいの体格をしていた。痩せ気味だからか、無精髭の上の目が異様に目立つ。その目が康二郎を探して、キョロキョロしている。
どう見ても、公儀の隠密とは思えない。康二郎は少し安堵した。
かつて伊兵衛と二人がかりで倒した痩せぎすの浪人ほど不気味でも強そうでもなかったが、尋常ならざる雰囲気があった。
康二郎は身を隠している木の前まで男が来るのを辛抱強く待った。そうして、後ろから声をかけた。
「俺に何の用だ?お前は何者だ?」
男は振り向きざま、刀を抜いた。
鋭い突きが康二郎を襲った。間一髪、斜め後ろに飛び退いて交わす。
――いきなりかよ!
浪人は間を置かず、二手三手と刀を振るってきた。
二手目は最初と同様に交わしたが、三手目を康二郎は抜刀から弾いた。弾いた動きの流れで相手の懐へ入る。
だが相手もさるもので、康二郎の動きを読んでいた。素早く身体を横へ流すと、斜め下から斬り上げてきた。
康二郎は上から斬り下げて、それを受けた。
金属の当たる甲高い音が辺りに響いた。
上からの方が有利なはずなのに、康二郎は相手を押しきれず、二人は刀を押し合いながら近距離で暫時睨みあった。
浪人の膂力は相当なものだった。
離れて体勢を立て直したかったが、相手の力を十分に跳ね返すのは難しいと康二郎は思った。
その時、康二郎の頭に「これは何でもありの売られた喧嘩だ」と閃いた。
この時代の剣術の立ち合いは後の時代よりはるかに実践的で何でもありだったから、おかしな言い種なのだが、康二郎には正に「閃き」だった。
康二郎は一段と腕に力を込めて相手の刀にのし掛かった。
相手も負けまいと一段と力を入れてきた。その刹那、康二郎は左足で相手の右足を払うように蹴った。
浪人はアッと声をあげて体勢を崩したが、倒れるまではいかなかった。だが、康二郎が退くのに十分な間を与えた。
――相当鍛えている……
康二郎は浪人から二間ほど間を開けて青眼に構えた。
浪人も素早く体勢を整え八相に構えた。
「卑怯な手を使いおって。さすがは棟割長屋育ちだ。しかしあのちびがこんなにでかくなるとは、思わなかった」
浪人が薄笑いを浮かべながら言った。
「ま、まさか……」
ようやく康二郎は浪人の目に思い当たった。
――この目は前にも刀の後ろに見たことがある……
「松平卓之助殿か?」
浪人が片方だけ口の端を上げた笑いを見せた。
「俺のことを覚えていたか。ずいぶん変わったろう?」
――全くだ。『棟割長屋育ち』と言わなければ、わからずに終わったかもしれない。
康二郎の記憶にある松平卓之助はやや丸顔なのに、目の前の男の顔は逆三角形だ。
「あなたも相変わらず卑怯だな。前はいきなり羽交い締めしてきて、今度は誰何にいきなりの抜き身だ。それにしても一体なぜそのような姿に……」
康二郎の問いに松平卓之助は憎々しげに答えた。
「お前のことで廃嫡された」
康二郎は呆れた。
「俺のせいにするな!あなたの素行のせいだろうが!」
「俺の刀をあんなに簡単に避けやがって……俺は佐々さんに次ぐ剣客に成れると言われていたのに!お前ごときが俺を倒せるわけがない!なのに、皆、馬鹿にしやがって!」
康二郎の答えを無視してぶつぶつ言い続ける卓之助に、康二郎は寒気を覚えた。同時に卓之助が憐れに思えた。
「卓之助殿、その姿をお母上に見せたら、廃嫡は覆らないにしても、お屋敷には入れてもらえるのではないか?一度お屋敷に戻られては如何か」
少なくとも三年前にはご存命だった松平卓之助の母君である。その後、亡くなったという話は康二郎の耳に聞こえていない。
卓之助の目に怪しげな光が灯って見えた。
――これが狂気か……
康二郎はどちらかが傷つくまでは終わらないだろうと、覚悟を決めた。
康二郎と卓之助は刀を構えたまま、なかなか動かなかった。どちらも相手が仕掛けるのを待つ作戦に出たらしい。
康二郎がなにやら周りがざわざわしてきたなと思ったら、いつの間にか野次馬が集まっていた。
視界に入った町人髷の三人は、手だけは祈るように合わせていたが、これから起こることへの期待に目が輝いている。
――誰も止めようとは思わないのだろうな……
その三人の横にちらと見えた人影が気になり、つい康二郎の顔も意識も半分以上そちらに向いた。
その瞬間を卓之助が見逃すはずがない。
卓之助は短い気合いを発して康二郎に斬りつけてきた。
康二郎は油断したわけではなかった。卓之助の上から振り下ろされる刃先を、斜め下から鎬を当てて受け流すと、次の瞬間には卓之助の喉元に刀を突きつけていた。
一瞬で決まった。
卓之助は顎の下に突きつけられた刃先に茫然としていた。
「剣術の修行を相当つまれたようだが、中居先生から教わった一番の基本をお忘れになったか?」
康二郎は刀を突きつけたまま、冷ややかに言った。
卓之助は懲りずに再度刀を下から斬り上げようとした。
康二郎は喉元に向けていた刀を瞬時に半円を描くような滑らかな動きで卓之助の右肩に落としていた。
「うわっ!」と、卓之助からも野次馬からも悲鳴が上がった。
卓之助が刀を落として踞った。
「峰打ちだ。神明様の境内を血で汚すようなことはしない」
康二郎は野次馬にも聞こえるよう大きな声で言った。
「いつの間に……」
「見えたか?」
「いんや。全くわからんかった。てっきり斬られたとばかり……」
野次馬からどよめきが起こっていた。
「骨は砕けたかもしれないがな」
康二郎は刀を手にしたまま、二間近く間を空けて卓之助の様子を見守った。
卓之助は右肩を押さえて唸っていたと思ったら、
「殺せ!さっさと殺らないか!人を斬るのが怖いのか?」
懲りずに挑発してきた。
「そんなに死にたいのなら、武士らしくご自分の始末はご自身でつけたらどうですか?俺はあなたごときを殺して捕まりたくはない。だが介錯ならつかまつろう」
康二郎は伊兵衛の受け売りで、こういう手合いは本当は死ぬ気が無いと思っていた。
予想どおり、卓之助は腹を切るでもなく、敗けを認めるでもなく、ぐずぐずしている。戦意は喪失して見えた。
康二郎は無駄に時間を潰すのに嫌気がさし、納刀しながら、野次馬の町人の群れに向かって言った。
「あの御仁は、麻布の二千石の御旗本、松平十郎右衛門殿のご子息、卓之助殿だ。どなたかお屋敷へ知らせて欲しい」
初老の男が驚いて隣の若い男を見た。若い男は初老の男から何やら耳打ちされると、こくりと頷き、踵を返して駆けていった。
嫌な奴だが、松平卓之助の今の狂気に、もしも和之助が石で後頭部を殴ったことが関係していたらと思うと、康二郎は放っておけなかった。松平家は卓之助を見捨てないだろう。そう思いたかった。もしも引き取りに来なかったら……
「私は野田康二郎。赤坂の三百石、野田織之助の屋敷に住まう者だ。松平卓之助殿がいきなり斬りかかってきての騒ぎだったのだが、私に用があるなら、赤坂の野田屋敷へ来てくれ。私は逃げも隠れもしない」
康二郎はどうやらこの辺りの町役人らしい初老の男と目を合わせながら言った。
男は「承知いたしました」と小声で答えると、卓之助の方へそろりそろりと近づいていった。
それから康二郎はやっと気になっていた野次馬の一人に近づいた。




