第五章 天明八年 春 (四)
呆気なく伊兵衛が野田家を去る日がやって来た。朝から快晴の一日だった。
その日、康二郎は何処にも出かけることなく、昼の九つ過ぎからは台所の板の間で康二郎と野田家の奉公人達による伊兵衛のささやかな送別会が開かれた。和之助、須美も途中から加わった。
送別会が始まる前に、康二郎は長屋門の自分の店で伊兵衛と向かい合った。
「これは野田家からの餞別だ。品物も考えたが、何かあったときのためにはこの方が良いと思ってな」
康二郎は小判を入れた包みを伊兵衛の前に置いた。
伊兵衛はしばらく包みを見つめてから、手に取った。中を確認すると、笑みを浮かべて言った。
「この十両は康二郎様が出されたのでしょう?五両だけいただきます。本当なら全額辞退すべきかもしれませんが、おっしゃる通り、これからのことを考えたら、格好つけるようなことはできません」
康二郎はあっさり見破られて一瞬は言葉に詰まったが、伊兵衛に受けとる気があるのに安堵したら、前夜に考えておいた言葉がするする出てきた。
「伊兵衛は俺の命の恩人だし、この四年間に俺の為にやってくれたことは金に換算できない。十両は安いよ。さえさんに、あやとふみのためにも全額受け取ってくれ」
伊兵衛が見破ったとおり、選別は康二郎が三枝家からもらった二十五両のうちの十両だ、十両ずつを伊兵衛への餞別と自分が野田家を出ていく時の資金にし、残りは場合によっては野田家の足しにしようとしていた。
康二郎の気持ちとしては、二十五両、全部を伊兵衛に渡したいくらいだったが、そんな大金を伊兵衛は決して受け取らないと思い、妥当な範囲の上限に思えた十両にしたのである。
康二郎が気にかけていたのは、次の奉公先で嫌なことがあった時に、伊兵衛が我慢せず辞めることができるようにしておきたい、ということだ。
それには先立つもの、金が必要である。当面、親子四人が暮らしていける金があれば、それができるはずだ。
大和屋にも無理して勤め続けなくて良いよう、うまく対処してくれと頼んである。伊兵衛に何かあったら、だけでなく、何らかの噂が耳に入ってきても、すぐに康二郎に知らせるよう依頼していた。
「口止めされたので、これまで少しいただいたとしか、申し上げておりませんでしたが、あの浪人の襲撃を退けた後、わたくしは殿様から直々に十分お手当てをいただいたのです。ですから、康二郎様は何もお気になさることはございません。お手当てをいただかなくても、わたくしの勤め方に変わりはありませんでしたが、いただいたのはいただいたのです」
「殿様が直々に?一体いくら……」
「今はこれだけしか出せないがと前置きしながら、五両と一分をくださいました」
「五両も?」
康二郎の頭に「使途不明金」と「入手経路不明金」の文字が浮かんだ。
殿様が直に代金を払うことはまずないので、実は、康二郎が家政に携わるようになってからこれまで自由に使えるような、いわゆる小遣いというものを殿様に渡したことがない。又兵衛が残した帳簿にもそれらしい記載を見たことがない。
――たぶん殿様が直接受け取った付け届けだろうな。鶴蔵や俺には教えてくれなかった……
考えてみたら、殿様が言わない限り、直接受け取った付け届けは康二郎達の知るところにならない。
――お返しの必要が出てくるから、高額の付け届けを黙っていることはないだろうが、少額には黙っていたのがあったのだろうな……
「記載漏れ」に「帳簿改竄」の文字まで頭に浮かんだ。
目付に対峙したとき、殿様が伊兵衛に五両一分をあげたことを知らずにいて良かったと、冷や汗が出てくるのを感じながら、康二郎はしみじみ思った。
「夫婦の稼ぎを合わせて年四、五両ほどで暮らしているのですから、五両一分はわたくしどもには大金です。とてもありがたく思いました。ですが、お金をいただいた以上に、その時の殿様のご様子やお言葉にわたくしは心を打たれました」
康二郎は疑った顔をしたのだろう。伊兵衛は続けた。
「お疑いのようですが、殿様は康二郎様が無傷なことに目を潤ませていらっしゃいましたよ。五両一分も『よくやってくれた、忝ない、忝ない。本当はもっと出したいところだ』と声をつまらせながら、御手ずからわたくしにお渡しになられたのです」
康二郎にはそんな風に感情を露にする殿様など信じられなかった。
浪人襲撃のことは、殿様の帰宅が遅かったため、康二郎から聞いたことを和之助が殿様へ報告したから、康二郎は殿様の反応を知らずにいた。
しかしその後に会った時は、いつものように淡々としていたし、康二郎が受けた襲撃よりも、同じ日に起きた城中の刃傷沙汰の方を気にしているように見えたから、思わず口が動いていた。
「嘘だ。そんなことあるわけない……」
伊兵衛はそんな康二郎を怒りも諭しもせず、黙って思いやりのある目で見ていた。
楽しい時間はあっという間にすぎる。
伊兵衛は明日から別の旗本の供をする。今度も通いだから、行く先が変わるだけだが、気持ちを切り替える必要があるだろうと、この日は夕の七つ(午後4時頃)迄に屋敷を辞すのだと康二郎が伊兵衛に指示し、屋敷の他の者達にも触れ回っておいた。
時がきて、皆で潜り戸まで伊兵衛を見送りに出ることになった。
康二郎は泣くまいと思っていたが、女達だけでなく、伊三治や俊三までが泣いているのを見たら、胸に熱いものが込み上げてきた。
和之助と須美はもちろん、殿様も式台に顔を見せた。
伊兵衛は皆に挨拶を済ませてから、最後に康二郎に向いた。
「これで一区切りですね。四年間、康二郎様のお供をして、楽しい日々を過ごせました。色々気遣っていただき、ありがとうございました。ですが、これが最後ではございませんよね。どうぞこれからも時々は新町の長屋へお越しください。あやが喜びます」
伊兵衛の言葉にしっかり言葉を返そうと思っていたのに、
「俺こそ、お、お前がいなければ今の俺は無い……礼を……」
その後は涙が込み上げて喋れなくなった。言葉にしきれない感謝の気持ちもあるが、どうにも伊兵衛のことが心配でならない。
「ほ、本当に……本当に……ありがとう……」
必死に涙を堪えて言葉を繋ごうとしたが、気持ちが溢れかえってまともな言葉にならない。
とうとう決壊した。
康二郎はどんどんこぼれる涙に喉が詰まった。俯いて涙をぬぐおうとしたら、伊兵衛が康二郎の顔を覗きこんできた。例の茶目っ気を感じさせる笑顔だった。
その笑顔に、康二郎はますます涙がこぼれた。言おうと思っていたことが、何一つ言えない。
――ありがとう!ありがとう!ありがとう!お前のような供はいない。いや、供ではない。俺にはお前も家族の一人なのだ。もう一人の兄なのだ。死ぬなよ!あやとふみのためにも死ぬんじゃないぞ!
心の中ではそう叫んでいたのに、嗚咽で言葉が声にならない。
どうしてそんなに伊兵衛の身が心配なのか。
例の三千石の穀潰しのこともあるが、それに絡むのかもしれないが、康二郎にはそもそも伊兵衛から生きようとする意欲があまり感じられない。しかも野田家を去る日が近づくにつれ、その印象が強くなっていた。
康二郎は最愛の母と敬愛する又兵衛を襲った運命が、伊兵衛をも襲うのではないかと恐れているのだ。
あの進藤修理亮の所業を聞き出した時の伊兵衛の姿も、その不安を大きくしている。翌日にはいつもの伊兵衛になっていたが、
――もしまた同じようなことが起こったら……誰かに古傷を抉られるようなことがあったら……
伊兵衛は野田家に勤め始めてまだ間もない頃に、今が一番幸せだと言っていた。
母、お松がよく言っていた「良いことも続かないけど、悪いことも続かない」でいくと、伊兵衛にはこれから悪いことが起こりそうではないか。進藤修理亮に付けられた傷がまたえぐられるようなことが起きるのではないか。
――神様、おっかさん、伊兵衛とその家族をお守りください!
心の中でそう叫んだとき、感情の高ぶりのまま、康二郎は思わず伊兵衛に抱きついた。……が、勢いがありすぎて、体当たりに近かった。相撲で言う「ぶちかまし」だ。
そのため、伊兵衛は康二郎を受け止めながら、「わっ」と声を出してよろめいた。
康二郎は慌てて伊兵衛の胴に回した腕に力を入れて支えようとした。
さすがといおうか、伊兵衛は自身の力で踏ん張って倒れることなく、体勢を立て直した。
「す、すまん!大丈夫か?」
抱きついたまま、顔を上げて涙声で謝った康二郎に、伊兵衛は声を出して笑った。
「最後まで康二郎様らしくて、安堵いたしました」
周りからも忍び笑いが聞こえた。
心には笑うどころではない思いと感情が、涙と同じように溢れているのに、どうして笑いをとってしまうのか。康二郎は自分が情けなかった。
そんな康二郎の耳元に伊兵衛が囁いてきた。
「わたくしのことなら、大丈夫ですよ。あなた様はこれまでわたくしが出会った中で一番素晴らしい殿様です。
ご自身では気づいておられないようですが、あなた様は、揺るがないまっすぐ伸びた太い幹と地中には大きく広がる根を持つ、大木のようなお方です。皆がふとその木陰で休みたくなるような。ご自身の力を信じて、これからもまっすぐに生きてください。
わたくしの力が必要なときはいつでもお声がけください。どのような道を選ぼうとも、あなた様はあなた様です。わたくしには最高の殿様ですよ」
伊兵衛の言葉はいつも康二郎を後押ししてくれる。背中に置かれた手の温もりからも、康二郎は励まされていると感じた。しかも、伊兵衛は野田家を去ってからも、頼めば康二郎を助けてくれるというのか。
涙が止まらなかった。




