第五章 天明八年 春 (三)
袴をきちんと穿き直したのを二度確認して脇差を差した康二郎に、栄之進が納戸の入り口から声をかけてきた。
教え方に問題がある、弟弟子に舐められているぞ……など、苦言があるのかと思いきや、話は伊兵衛のことだった。
「これは私の一存ではなく、先生も申されていることなのだが、野田家から暇を取った後にも、時々はこの道場へ顔を出してもらいたいのだ。私からはもう伝えた。気兼ねすることのないよう、康二郎からも話してもらえないだろうか」
「あ、ありがとうございます!伊兵衛には何より嬉しい言葉だったと思います。もちろん私からも念を押します」
康二郎は栄之進と師匠、九郎右衛門の伊兵衛への信頼に胸が熱くなった。
無論、伊兵衛自身がこの道場で培った信頼である。
今では栄之進と伊兵衛の間には、お互いに相手の強さを認める尊敬と友情のようなものがあると康二郎は感じていた。
栄之進と伊兵衛の立ち合いが実現したのは、二年ほど前だった。
実のところ、立ち合いを嫌がっていたのは伊兵衛だけで、栄之進も九郎右衛門も、門弟達も、二人の立ち合いに積極的だった。説得に一年近くかかったのだから、伊兵衛は相当頑固である。
栄之進と伊兵衛の三本勝負は、康二郎の予想通り、康二郎以外の伊兵衛の実践での強さを知らない門弟達にはおそらく予想以上に、凄まじい立ち合いだった。
勝負自体は栄之進の二本勝ちだったが、二本目で栄之進が負けた時には観ていた者たちは誰も声を出せず、身動きすることもできなかった。
康二郎は始めて栄之進が一本取られるのを見たと思ったのだが、九郎右衛門が「栄之進が負けるなど何時以来だ?もう覚えておらんぞ」と感心しきりだったから、九郎右衛門以外は道場の誰も見たことがなかった栄之進の負ける姿だったのだ。
伊兵衛は「珍しく気を抜かれましたね」と栄之進を気遣ったが、
「今の一本は完全にやられた。交わせなかった」
と、栄之進はさばさばと負けを認めていた。
栄之進がとった三本目も、栄之進としては負けるかもしれないと思ったらしい。
「最後に迷いを見せただろう?どうしてだ?」
立ち合いが終わった後で、栄之進が伊兵衛に訊ねるのを康二郎は耳にした。
「佐々様があまりにお強いので、思わず剣術の立ち合いらしからぬことを仕掛けそうになったのです。お恥ずかしい限りです」
伊兵衛ははにかみながら答えた。
「剣術らしからぬことを仕掛けて構わないぞ。実戦では何でも有りなのだから。今度立ち会う時には気にせず、思い付くままやってくれ」
伊兵衛はかぶりを振った。
「ありがたいお言葉ですが、若い門弟の方々にお見せするものではないと思います」
栄之進との立ち合いを機に、伊兵衛は時々中居道場で木刀を振るうようになった。大抵は康二郎の練習相手としてだったが、たまに請われれば他の門弟の相手もしていた。康二郎に的確な助言をしたように、伊兵衛は自分に気さくに稽古を頼みにくる数少ない相手には、いくぶん気兼ねしながらも、側で聞いていて、なるほどと頷ける助言をしていた。
栄之進との立ち合いも二月に一度くらいの頻度でやっていた。大抵は栄之進の二本勝ちだが、一度、伊兵衛が二本取ったこともあった。
傍目には凄すぎて、声を出すことはもちろんのこと、身動きもできなくなる二人の立ち合いは、栄之進にも伊兵衛にも良い刺激になっているようで、九郎右衛門曰く、「二人とも更に腕を上げてきているな」という展開を見せていた。
二人は年齢が近い上に偶然にも娘二人の父親になっていて、子育ての話なのか、剣術の話なのか、二人で和気藹々と話している姿を時々見せていたから、伊兵衛が姿を見せなくなれば、栄之進は剣術の張り合いだけでなく、話し相手もいなくなり、寂しくなるだろう。
他の門弟も、栄之進ほどでなくとも、やはり伊兵衛の強さが良い刺激になっていたから、淋しく残念に思うだろう。
左馬助だけは、妙な敵対心に近いような対抗心を伊兵衛に対して持っているようだから、道場に来なくなるのを喜ぶかもしれない。
そんな風に康二郎は感じていた。
康二郎には伊兵衛が野田家を去る前に、どうしても聞いておきたいことがあった。自分の供をしている間は無理に聞かなくて良いと思っていたが、新しい奉公先に移るとなると、二度と同じような目に遭わないようにするためにも、あの三千石の穀潰しの屋敷で一体何があったのか確かめておきたかった。日に日に康二郎の中で大きくなる不安を取り除くためでもある。
道場から野田屋敷への帰り道、康二郎は栄之進に頼まれたことからうまくそちらへ話を持っていけないかと話を始めた。
栄之進の言葉には機嫌良く「皆様、良いお方ばかりですから、そのうちまた顔を出せたらと思います」と答えた伊兵衛だったが、康二郎が三千石の穀潰しに話を向けようとすると、敏感に察して、話を違う方向へ向けようとした。これまでにも何度かあったことである。
今回ばかりは康二郎は譲らなかった。
「伊兵衛、嫌なことを思い出させるのは俺も気が引けるのだが、大和屋で聞いた話から、どうにも放っておけなくなったのだ」
「過ぎたことです。大和屋が何を言ったか知りませんが、わたくしから申し上げることは何もありません」
そう言った伊兵衛の顔色があまりに悪く、康二郎は余計に不安になった。
「ひょっとして、右堂先生とはあの穀潰しのところに奉公していた時に知り合ったのではないか?前に身体を壊したときに診てもらったとだけ言っていたが……」
「……」
「大和屋は、お前があの屋敷に奉公中、死にかけるほどの大病を患ったと言っていた。何の病気だったかは知らないが、一月近く寝込み、元通りになるのに三月もかかったと」
「……」
「大和屋は今ではあの屋敷への斡旋をやめているそうだ。以前は男女の奉公人を十人近く入れていたのに、だ。その理由というのが、ほぼ毎年、斡旋した奉公人の一人か二人が病死したからだという。しかも、病死したのは器量がよかったり、人柄がとても良かったりと、大和屋としてはどこへでも自信を持って斡旋できる、大事な寄子ばかりだったそうだ。お前も大和屋にとってはそんな大事な寄子の一人だ。そのうえ何があったのか、同じくあの屋敷に奉公した者に訊いても、誰も彼もが知らないと答えたと言う。嘘をついていることだけはわかったと大和屋は言っていた。伊兵衛も奴に口止めされているのか?」
伊兵衛は片手で顔を覆った。栄之進との立ち合いでも、そうそう呼吸を乱さないのに、呼吸が荒くなっている。
「だ、大丈夫か?思い出しただけで、息が乱れるほど、気分が悪くなるのか?」
康二郎は思わず伊兵衛の背中を擦った。伊兵衛が康二郎が興奮したり辛かった時に落ち着かせようとやってくれたことを咄嗟にやっていた。
伊兵衛は立ち止まると、腰を屈めた。
「吐き気がするのか?」
康二郎はここまで伊兵衛が苦しむとは思っていなかったから、自分の読みの甘さを悔いた。と、同時に、ここまで苦しむとは、どうしても何があったのか知らなければならないと思った。
「お前を苦しめたくはないが、これは……これは、尋常ではないぞ」
顔をあげると居酒屋の灯火が目に入った。康二郎は伊兵衛を支えてその居酒屋に入った。
幸い客は少なく、二人は上げ床の一番奥に斜向かいで座った。いつかの蕎麦屋の逆で、康二郎が伊兵衛を入り口や土間から隠すような位置取りだ。
それから酒の力を借りながら、半刻近くかけてポツポツと小声で伊兵衛が語った内容は、ぶるぶる震えるほどに康二郎を激怒させた。何度も涙をこらえた。
話すことで嫌な記憶がまざまざと甦ったらしい伊兵衛の方は、話し終えた時には虚ろな目をしていた。
「伊兵衛は何も悪くない。苦しむことはない。苦しむことも、悔やむことも、何もないぞ」
辺りを憚り、小声でそう言いながら、康二郎は抱き抱えるように、後ろから伊兵衛の両肩に腕を回した。その抱き方は、母のお松が幼い康二郎を抱いた形の一つだと気づいたのは、後から振り返ってのことだ。
伊兵衛は康二郎の腕をほどこうとして、やめた。目は虚ろなままだ。
康二郎は繰り返していた。
「伊兵衛は何も悪くない。悪くない、悪くない!」
繰り返すうちに伊兵衛の肩を抱いている腕に力が入っていった。もちろん痛くない程度に。
進藤修理亮が伊兵衛に与えた傷の大きさと深さは、康二郎の予想をはるかに越えていた。
しかも、その傷は、進藤家を去った後にも心ない人たちによって何度もえぐられ、癒えるどころか、大きくなっていたのだ。
四年前に康二郎が伊兵衛の背中で感じた、進藤修理亮に対する嫌悪の激情は当然だと思った。
そのうえ、進藤との関わりが終わったとは言えなかった。半年ほど前に町で見かけた時にも、四年前と同じように進藤は伊兵衛に絡んできたというのだ。
どんなに武芸に優れていても、世の中には防げないことや退けられないことがある。
康二郎は伊兵衛の悔しさと耐えてきた日々を思うと、自分の事のように悔しかった。憤りを感じた。
野田家に勤めている今が一番幸せだと言った伊兵衛の言葉が、今さらに重く康二郎の心に響いた。
同時に康二郎に強い気持ちが湧き起こってきた。
――許せない!どれだけかかろうとも、絶対にあいつを追い詰めてやる!これ以上、伊兵衛に関わらせてなるものか!
しかし、それが簡単でないことは康二郎にもよくわかっていた。相手は三千石の殿様なのだ。
怒り心頭になりながらも、己一人では到底無理だとわかっていた。これまで伊兵衛が口を閉ざしていたのも、そのためだ。
そして、康二郎が迂闊に動けば、野田家が潰される。
――御目付はなぜあんな奴を野放しにしているのだ!酷い目にあった人々は、伊兵衛以外、皆殺されたから?そのことを知っている者も口を閉ざしているから?いや、それだけじゃないな。喋りそうな人物を奴は殺してきた……
ほぼ毎年出ていた奉公人の死亡者には、口封じで殺された人物もいたに違いないと康二郎は思った。
一体、どうすれば、奴に正当な裁きを受けさせることができるのか。康二郎は、必ずその道を見つけると、心に誓った。




