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第五章 天明八年 春 (二)

 

 康二郎はまさかの提案にあんぐりと口が開いてしまった。あわてて取り繕う。

「か、忝ない。私が大店の若旦那にふさわしいとは思わないが、そう言ってくれるのは嬉しい」

「ふさわしいですとも。いや、もったいないくらいなのですが。わたくしども夫婦に子が娘しかおらず婿を探しておりましたなら、かくいうわたくしが立場を省みず、康二郎様にぜひとも我が家に婿入りをと口説くところでございます。残念ながら、うちには三人も息子がおりますからな。ははは」


 加賀屋を出てしばらく歩いた所で伊兵衛が康二郎に囁いてきた。

「市郎兵衛殿は康二郎様がお好きですからな。ですが、大店への婿入りはもっと後々に考えるべき選択肢ではないかと、わたくしは思います。それまでにもしも康二郎様が野田家を出てしまっていれば、元御旗本という箔は薄れるかもしれませんが、そのような康二郎様でも喜んで迎えてくれる大店こそ、武士の身分を捨てて婿入りしがいのある大店でしょうしね」

「大店は、俺のような馬鹿正直のおっちょこちょいがそうそう営めるものではない。それくらい、俺が一番承知している」

 康二郎は伊兵衛に振り向きもせず、珍しく冷めた口調で言った。

 伊兵衛は驚いたらしい。

「余計なことを申しました。お気に触りましたら、お許しを」

「お前の言ったことに怒ってはいないよ。至極尤もだ。自分に苛立っているだけだ」



 大和屋から久保町の道場へ向かいながら、康二郎は市郎兵衛の大店への婿入り案を思い返していた。

 ――やはり大店への婿入りはどうにも他人事にしか思えない。大和屋で言われた旗本の渡り用人の方がまだ己の将来としてしっくりくる。金銭感覚があまりない旗本の用人はかなり大変だと思うが……大金に縁のない人生を送ってきたから、たぶんこれからもそうなんだろう……

 物思いに沈んでいた康二郎を伊兵衛がつついてきた。

「あれは竜三郎様ではございませぬか?」


 伊兵衛の視線を追うと、地本問屋の前で竜三郎が合本(がっぽん)が入っていそうな檜皮(ひわだ)色の袋*を手に手代と話していた。

 竜三郎とはずいぶん長く会っていなかった。前に会った時に伊兵衛のことでちょっとした言い合いをしたから、伊兵衛は二人がしばらく会っていないことを気にしていたらしい。しばらく会っていないのは、その事だけが原因でもなかったが、全く無関係でもない。

 ――まさかこのような所で見かけるとは……


 康二郎は手代と熱心に話し込んでいる竜三郎に後ろから近づいた。

 すると、目敏い手代が康二郎に気づいて声をかけてきた。

「あ、いらっしゃいませ」

 手代の対応に後ろを振り向いた竜三郎は「うわっ」と声をあげて、跳び上がった。腰を抜かさんばかりの驚きようとはこのことだ。

「そこまで驚くことはないだろう」

 康二郎は竜三郎の茶番劇で見るような大袈裟な驚きぶりに笑うまいとしたが、声が震えた。


「いや、ちょうどお前に会いに行こうか、手紙にしようか、迷っていたところだったものでな………まさかこんなところで出くわすとは……」

 竜三郎も自分の驚き方にうけたのか、笑いをこらえていた。

「実は昨日、養子先が決まったのだ。南の御番所(南町奉行所)の与力、塩原(しおばら)家へ婿入りだ」

 今度は康二郎が驚きの声をあげた。

「町方の与力?!」

「うむ。旗本の二百俵から御家人の二百石だ。うまくやったろう?次兄より先に決めたしな。これで長兄に子が生まれて大きくなるまで家から出れなくなり、下手すれば厄介で一生を終えるのは次兄だ。はっはっはっ」

 康二郎には竜三郎が旗本の身分を捨てるのが意外だった。三男とはいえ正妻の子であり、旗本としての自覚も強く、塾仲間の三人の中で一番保守的な気がしていた。


「町方の与力の二百石は旗本の二百石や二百俵と大違いだぞ。話には聞いていたが、屋敷に行ってあまりの暮らしぶりの違いに俺は呆けた顔になっていたと思うよ。奉公人が六人もいたのだぜ」

 小尾家の奉公人は中間一人、下男一人に下女一人である。正式な供揃えをしないといけない時には近所の似たり寄ったりの旗本と奉公人をうまく遣り繰りをしたり、人宿から日雇いで補っている。


 御家人は旗本ほど供揃えや武具を保持しなくて良い上に、町方の与力であれば、事が起こった際に内々に済ませたい大名や高禄の旗本、大店からなにかと付け届けが入る。表向きは同じ二百石や二百俵でも実際の収入は大違いなのだ。不浄役人という旗本や町方ではない御家人の町方役人へ向けた罵りには、妬みが大いに入っていると康二郎が思うこの頃である。


「お前が納得したのだから、良い決断なのだろう。しかしお前が公事(くじ)を裁くのか?悪いが、想像つかないよ!」

「町方には色々な職務がある。俺の狙いは例繰方(れいくりがた)さ。町方の与力は一生与力だが、俺は出世欲があまりないから、周りからあれこれ言われなくてむしろありがたい」


 なるほど、過去の裁きの記録から必要に応じて判例を見つけてくる例繰方は、何かと追及するのが好きらしい竜三郎に合っていそうである。金の貸し借りといった公事には向いてないと思うが、吟味方(刑事事件系)は間違いなく向いているだろう。例繰方の他にも竜三郎ならではの力を発揮できる掛が町方にはありそうだ。康二郎はそう思った。


「一体どこからどう話がきたのだ?」

「塩原殿、もうすぐ俺の義父になる御仁だが……と、俺がちょっとしたことから知り合いになってな。いや全くどこに縁が潜んでいるかわからんぞ」

「『ちょっとしたこと』とは?」

「今は言えぬ」

 竜三郎がニヤニヤした笑いを浮かべた。

 なんとなく康二郎は竜三郎が今抱えている袋の中身に関係している気がした。

 ――まさか中身は枕絵や枕草紙じゃないよな……いや、そんなに好き者ではないから、この前話していた流行りの青本(戯作本)か?


 この前会った時の前半には、下級武士が書いた通称「青本」、後に黄表紙と呼ばれる戯作本について、その面白さを熱く語った竜三郎である。絵にも文章にも色々仕掛けがあり、読み手の教養や知識が試されるのだという。深読みすればいくらでも深読みできるそうだ。

 ――竜三郎は何でも追及するのが好きな奴だからな。

 吉原予習に竜三郎が揃えてきた資料を見たときも、全て兄達が収集した物だという竜三郎の言を信じきれなかった康二郎である。

 ――三人の中ではごまかすのが一番上手いし。

 今となっては、康二郎が竜三郎から受けた性教育も、兄達がきっかけを作ったにしても、竜三郎自身が更に情報を集めたのではないかと思っていた。


 そちらからの連想ではなかったのだが、康二郎はこれまでのところ全く話に出てきていない相手のことが気になってきた。

「肝心の嫁となる娘御との相性はどうなのだ?」

「器量は良く言ってまぁまぁだが、俺もまぁまぁだから、釣り合いはとれている」

 康二郎は吹き出した。

「見た目もある程度は大事かもしれないが、せっかちだとかのんびりしているとか、気性はどうなのだ?一緒に暮らすにはそちらの方が大事ではないか?」

「うむ、その辺はまだわからん。あの屋敷で暮らし始めて驚くことになるやもしれぬ……」

 最後には少々不安な所も見せはしたが、ほぼ終始嬉しそうな竜三郎に、康二郎も嬉しくなった。

 旗本出身というのが、ひょっとしたら御家人である周りから妬みを買うかもしれないが、竜三郎はそうしたことは案外平気かもしれないし、それほど反感や妬みを買わないかもしれない。


 別れ際に竜三郎が真剣な顔で言い始めた。

「そうそう、今度会ったら言おうと思っていたことがある。伊兵衛のこと、つまらないことを言ってすまなかった。あの時の俺には焦りがあって、伊兵衛のような、見た目も中身も男前な供を持つお前が羨ましかったのだ。お前と別れたあとで気づいた」

 最後にはニッと笑っていた。

 竜三郎はやはり良い奴だと、康二郎は思った。



  その日の八つ半頃(午後3時頃)、道場で元服前の弟弟子の組太刀の相手をしながら、康二郎は自分の師範代としての適性を考えていた。正確には、考えざるを得なかった。

 屋敷を出て何を生計にするか考えた時、栄之進のように剣術を教えることも選択肢のひとつだと思ってはいたのだが、いざやってみると、教えることは難しい。

 二番手の依田ではなく三番手の松浦清五郎(まつうらせいごろう)が栄之進に次ぐ師範代になっていたのも、年齢だけでなく指導役の適性からだと思われた。

 栄之進にしろ、伊兵衛にしろ、自身が強いだけでなく、教えるのも上手い稀有な人物なのだと康二郎は今頃になって悟ったのだ。


 反省しきりの気分で組太刀の稽古を終えた康二郎だったが、自分自身の稽古を済ませて汗だくになった道着を着替えようと荷物置き兼着替え所になっている納戸へ行ったら、くちさがない弟弟子達の意外な感想が聞こえた。


「松浦師範代より野田先輩の稽古の方が良いな。はっきり言ってくれるから、分かりやすいし、なんか思いきって行ける」

 弟弟子が「思いきって行ける」のは、自分に貫禄がないからだと思い、そこは単純に喜べなかった康二郎だが、前半部分にはつい嬉しくなった。しかし、その後が謎だった。

「野田先輩って、かわいいところあるよね」


 ――なんだと?!なんで前髪付の弟弟子に「かわいい」と言われるのだ?

 動揺しながら着替えたら、袴の片方に足を二本とも入れていた。

 ――いかん。またやった……

 慌てて右足を入れ直して、周囲をそっと窺った。誰も見ていないことを願ったのだが、こういう時にはまず誰かが目撃しているものである。

 ぷっと吹き出す音に続いて忍び笑いがあちこちから聞こえた。



  秋口に行われた道場内の勝ち抜き戦で、右掌の怪我明けにもかかわらず、康二郎は見事に箕田を負かして一気に四番手に上がり、年明け早々に行われた勝ち抜き戦では松浦まで負かした。

 二番手と呼ばれて不思議なかったが、そこは他の条件も加味され、番付は三番手である。


 秋口の勝ち抜き戦は、正に怪我の功名だったと康二郎は思っていた。状態が良くないからこそ、無理せず欲張らずの心持ちで臨んだことが無駄な体力を消耗せず、試合での集中力を高めたらしい。自分でも信じられない結果だった。

 信じられない分、康二郎の喜びようは落ち着いていて、喜び具合は伊兵衛の方が遥かに大きかった。伊兵衛の喜ぶ姿を見れたのが、康二郎は一番嬉しかった。


 おかげで年明けの試合に向けては、重圧がのしかかった。今度ぼろ負けしては前回の結果がまぐれだったことになってしまうと、康二郎にしては珍しく、試合の数日前から緊張で食べ物が喉を通らなくなったほどだった。

 このときも伊兵衛が康二郎を助けた。余計なことは考えないようにと、試合の前日に康二郎を新町にある自身が住む長屋へ誘った。

 狭い長屋の店を這い回るふみを框から落ちないようにくい止めたり、すっかり康二郎に懐いているあやを遊ばせているうちに、身体の中に感じていた固い塊が溶けていった。


 それが効を奏したか、翌日の康二郎はまた研ぎ澄まされていた。淡々と勝ち続けるうちに三本勝負より一本勝負の方が自分に向いていると思った。

 思い返せば、四年前の元兄弟子による襲撃でも、大量浪人による襲撃でも、康二郎は恐怖で身体が動かなくなることは全く無く、むしろ普段以上の度胸や根性を見せることができた。良く言えば、実践向きらしい。


 康二郎が指導を本格的に任されるようにったのは、松浦を倒した年明けの勝ち抜き戦の後だ。門弟達へは中居九郎右衛門直々のお達しだった。









* 江戸時代、シリーズものをまとめた合本は檜田色の袋に入れて販売していることが多かったとのこと。




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