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第五章 天明八年 春 (一)


第五章は、第四章の終わりから約半年後。年が明けて康二郎は数えの二十、満十八になっています。




 

「伊兵衛の次の奉公先のこと、くれぐれも頼んだぞ。決して悪いこと、辛いことが起こらないようにしてくれ」

 麹町にある大和屋で康二郎は、主の八左衛門(はちざえもん)に三度目の念押しをした。

 八左衛門はくどいと呆れているだろうが、少しも顔に出さず康二郎に首肯して言った。

「よく承知いたしております。野田様ほどご奉公しやすく、またご奉公しがいのあるお屋敷はなかなかございませんが、同じくらい伊兵衛にとって奉公しやすいであろうお武家様を紹介しますとも」

 長年数多く寄子を抱え、武家屋敷へ奉公人として斡旋してきた大和屋の三代目、八左衛門である。一見、穏やかで人当たりが良いが、いざとなれば昨今の旗本や御家人が怯むような凄みと抜け目の無さを見せることを康二郎は知っている。だからこそ、念を押さずにいられない。


 康二郎は上がり框から降りようとして、また八左衛門へ振り向いた。

 八左衛門は四度目の念押しかと「どうかわたくしどもをご信用くださいませ」と、康二郎が口を開く前に言ってきた。

「いや、私が訊こうとしたのは……」

 康二郎はそこまで言ってから、再び前を向くと、土間に置かれた縁台に座って順番を待っている五人の求職者を見た。


 ここ何年も続いている不作が農村から江戸に流入する人を増やしていた。江戸に身元引受人がいない者は、住むところを見つけるのも難しい。人宿を頼ることは、そんな人たちの江戸で暮らす第一歩になっている。

 この店の二階には常時十人前後が寄宿し、今では奥の離れも寄子に解放しているという。この五人のうち何人かはそこに加わるだろう。


 伊兵衛はというと、入口脇に置かれた縁台の一番端に腰かけて康二郎を見ていた。

「もしも、私がここへ仕事を探しに来たとしたら、紹介してもらえる仕事はあるだろうか?」

 八左衛門は元から大きな目を更に大きくした。

「康二郎様なら、剣術は相当な腕前でいらっしゃるし、算盤もおできになるし、ご紹介できるお仕事はもちろんございますよ。昨今では御用人をお探しの御旗本が増える一方でございます。康二郎様のご経歴をお話しすれば、いずれの御方もぜひ雇いたいとおっしゃることでしょう。ですが、まさかそのようなことには……」

  康二郎は八左衛門の答えには「そうか」とだけ返し、次に野田の屋敷に大和屋の者が来る日取りの確認をして大和屋を後にした。

 次の目的地は加賀屋だ。



 あの無力さと詫びの気持ちで涙した秋の始めにも、事態が好転するかもしれないという一縷の望みを持っていた康二郎だった。

 だが年が明けても殿様の再仕官の話は影も形もない。

 疑いがかかっていると目付に脅されたが、これまでのところは何の沙汰もなく、帳簿もすべて丸二月後に屋敷に返却された。

「ある疑い」が晴れたという知らせはないものの、その二つの目付方の対応から、御役御免の小普請組入りだけで済みそうなことに、康二郎以外の野田屋敷の人間は安堵したようだった。

 なにせ天明七年の閏神無月には主殿守が二万石への減俸に江戸屋敷、大阪の蔵屋敷まで収公された上に出仕止めになり、師走には元勘定組頭の土山宗次郎(つちやまそうじろう)が死罪になったのだ。


 土山は確かに派手な金遣いをしていた人物だが、死罪になるとは大方の予想外だった。いくら逃げたにしても、である。捕まった後には洗いざらい白状させるため、拷問を受けたとも噂された。

 土山の他にも勘定や普請に関わる役人、数十名が一気に昨年のうちに罷免されていた。

 大名、旗本、御家人を対象とした今後三年に渡る倹約令が出され、他にも旗本、御家人に文武を奨励する御触書がいくつも出た。

 越中守が幕臣の綱紀粛正に取りかかっているのは間違いなく、目付が内偵中だという案件がいくつか囁かれていた。公儀の隠密が数多く府内に放たれているという。


 こんな状況ではやましいことは何もないものの、何がどう野田家に波及してくるか、康二郎としては気が気ではない。

 そうして康二郎の不満なことに、内偵の噂にあの「三千石の穀潰し」たる進藤修理亮の名前はなかった。

 ――御目付の方々は何をやっているのか!


 そんな康二郎を含めた野田家の暗くなりがちな雰囲気に唯一明るさをもたらしているのが、日に日にお腹が大きくなる須美だった。

 野田屋敷の皆が弥生の頃に生まれる新しい命を楽しみにしていた。そこにはその誕生が、低迷している野田家の運勢をも変えてくれるのではないかという期待も入っているようだった。


 ただし、康二郎には和之助と須美の第一子誕生を楽しみにしながらも、入れ替わるように野田屋敷を去る伊兵衛のことを考え、弥生が来てほしいような来てほしくないような複雑な気持ちでいた。

 伊兵衛と主従として過ごせる残り少ない日々を、康二郎なりに大切に、少しでも悔いが少なくなるよう心がけながら過ごしていた。



 伊兵衛とは約束どおり、師走の始めに美津野屋で康二郎としては豪勢な料理を一緒に腹一杯食べた。

 鴨のしぐれ煮を品書きに見つけた時には、康二郎は思わず「これは伊兵衛の好物なのだろう?三皿頼もう。俺も食ってみたい」と、はしゃぎ気味になった。

「はい、好物です」と答えた伊兵衛は前に置かれた皿から品良く鴨肉を食べ、康二郎の方が頬張り、がっついた。

 康二郎も鴨のしぐれ煮は気に入った。

 酒も康二郎としてはかなり飲んだ。

 あまり飲み慣れていないし、そもそも酒に強い体質でないらしい康二郎は、腹がいっぱいになったところで眠りに落ちてしまったのだが、康二郎が畳に大の字で寝ている間、伊兵衛は一人でゆっくり飲み続けていたらしい。


 目が覚めると、康二郎には掻巻が掛けられていた。

 ――ここはどこだ?

 となってしまった康二郎に、伊兵衛は猪口を手に窓辺に腰掛けていて、「ご気分はいかがですか?」と聞いてきた。

 康二郎が酔いつぶれるまでにも康二郎の倍以上飲んでいたから、その全く酔った様子の無いのに、康二郎は畏れ入った。

  同時にその時の伊兵衛の姿が妙に影が薄い気がして、康二郎の胸にある不安が過った。


 己の心の迷い、寂しさからだと、その不安を打ち消そうとした康二郎だが、伊兵衛が野田屋敷から暇を取る日が近づくにつれ、その不安はどんどん大きくなってきている。

 その不安とは、伊兵衛とその家族の身に良からぬことが起こりそうな不安である。



 師走に入ると康二郎は、伊兵衛を従え、主要な野田家御用達商人に今後についての話をして回った。美津野屋での贅沢も、その話をしたついでだった。

 旗本には商人に話があるなら屋敷へ呼びつければ良いという考えが一般的だが、康二郎は向こうから売り込んできたのならともかく、こちらから声をかけた相手に良からぬ話をするときは、こちらから出向かねばなるまいと思っていた。康二郎の気持ちがそうさせる。

 そもそも町屋が好きだから、出掛けること自体は全く苦にならない。

 美津野屋では暗い話のあとに伊兵衛と二人で飲んで食べて、それなりに金を落とすつもりだったからまだ話を切り出しやすかったが、加賀屋ではどう切り出したものか悩んだ。

 そもそも康二郎の方から値引きを交渉し、いざ取引を始めたら、覚書を交わした内容以上に色々配慮してくれた加賀屋だから、康二郎には一番話を告げづらい相手なのだ。

 その難しさと迷いから、加賀屋への通達は最後になり、年を大幅に越して如月に入ってしまった。

 今日こそは言わねばならない。康二郎は意を決して加賀屋の敷居を越えた。



「これは康二郎様、わざわざお越しくださり、恐縮に存じます」

 その日も加賀屋の主、市郎兵衛は康二郎と伊兵衛を奥の間へ通し、香りの良い、高そうな茶と菓子まで出してもてなしたから、康二郎はますます言い出しづらいと思った。

 ところが、

「いや、その……今日は良い話ではないから、あまり気は使わないでくれ」

 康二郎は嘘をつくのが下手だから、切り出し方を悩んでいたはずなのに、市郎兵衛の対応にするりと用事をばらしてしまった。

 それを聞いた伊兵衛が後ろでクスリと笑った。

 康二郎が驚いたことに、市郎兵衛もクスリと笑った。


「本日のご用向きはだいたい見当をつけております。野田のお殿様のことは手前も聞き及んでおります。何故に野田のお殿様がと残念で、残念で。直接には存じ上げませんが、康二郎様のお父上であり、お育ちになったお屋敷なのですから、殿様のお人柄が悪いわけがございません。政というのは、色々なものが絡んでくるもののようですが、お人柄を大事にされるお方はいなかったのでしょうかね。ここだけの話でございますが」


 康二郎は一気に気が軽くなった。

 引き続き加賀屋に注文は入れるが、これまでの量と額からは大きく減ることを告げたあとには、康二郎が加賀屋へ初めてやって来た頃からこれまでの思い出話になった。

 康二郎の読み通り、野田家御用達が加賀屋の商い拡大に大いに役立っていた。市郎兵衛が康二郎がたまに訪れるといつも手厚くもてなす所以である。

 そろそろ帰ろうと思った時、市郎兵衛が突然話を変えた。


「このようなことをお聞きするのは失礼かもしれませんが、康二郎様にはご養子のお話は進んでおられるのでございましょうか」

 康二郎は思わぬ問いに素直に首を横に振った。

「私に養子の話など、あるわけがない。まもなく兄上に子が生まれるし、今後のことを考えないといけないとは思っているのだが……」

「そうでございますか。いや、康二郎様ならそのうちいずれかのお旗本のお家からお話がございますでしょうが、もしも、もしもでございますよ。あくまでも万が一のことでございますが、お侍のご身分を捨てても良いというお気持ちになられた時には、是非ともわたくしにお教えくださいませ。良い婿がいないかと、何軒かの大店の主人から頼まれておりましてね。康二郎様なら、お旗本には珍しく商いのことをよくわかっておいでですし、お人柄といい、全くもって大店の若旦那として望みうる最高の御仁でございます。その節には是非とも仲を取り持たせていだたきたく存じます」







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