第四章 天明七年 晩夏~初秋 (十二)
康二郎は上り框へ飛び上がり、そのままの勢いで奥へ向かって走りだした。
「お義母様、いけません!」
更に須美の切迫した声が聞こえた。
――次から次へと、全く!
康二郎は障子が開いていた奥様の部屋に駆け込んだ。後から考えてみたら、奥様の部屋へ入るのは、この時が初めてだった。
部屋の中ほどで、奥様が懐剣を喉へ突き立てようとするのを須美が必死に止めていた。
部屋の隅ではおりつが怯えて小さくなっていて、反対の隅にはおたまが頭を押さえて倒れていた。
康二郎は瞬時に状況を把握した。
迷わず須美に加勢し、奥様の手首を掴んで捻りあげた。
顔をしかめて奥様は懐剣を落とし、須美は素早く懐剣を拾って後ろへ隠した。
奥様が懐剣を隠した須美を睨みつけた時、康二郎は奥様の頬を平手打ちしていた。怒髪天になりそうなくらい怒りながらも、十分に手加減はした。……つもりだった。
「貴女はなんて自分勝手なんだ!こんなときに奥様が自害しては野田家にやましいことがあったことになるでしょう!そんなこともお分かりにならないのですか!」
康二郎は怒りにわなわな震えながら、奥様を睨みつけた。
――何もかも台無しにするつもりなのか、この人は!
奥様はしばらく叩かれた頬に手を当て、呆然と康二郎を見あげていたが、突然、金切り声をあげ、げんこつを振り上げて康二郎に向かってきた。
どうやら金切り声で「よくもわたくしに手をあげたわね!」と言ったようだ。
康二郎はあっさり奥様の両手首を掴むと、その目を正面から睨みつけた。
「貴女はこの野田家が大事ではないのですか?和之助様の幸せを何より願っているのではないのですか?ならば、自害は許されません。どうしても自害なさりたいなら、ことがすべて落ち着いてからにしてください。おそらく一年はかかるでしょうね」
康二郎は必死に怒りを押さえ、努めて冷静に奥様に言い放った。もう遠慮してはいなかった。
康二郎の力は、今では殿様の織之助や兄の和之助より上である。
奥様は間近で見た康二郎の迫力に圧倒されたらしい。怒り狂った表情が怯えに変わり、その体からは徐々に力が抜けていった。
「康二郎殿の申される通りです。ここは皆が何事もなかったように過ごさねばならないときです。お義母様、ご辛抱ください」
須美の声は震えていた。
「若奥様、その懐剣はしばらく若奥様がお持ちくださいますか?」
須美は青白い顔をしていたが、康二郎の言葉に力強く頷いた。
康二郎はゆっくりと奥様の手首を離した。
奥様は怯えた表情のままくずおれていった。
須美がいてくれて良かったと康二郎は心底思った。
――でなければ、今頃、大変なことに……
康二郎は次に頭を手で押さえたまま上体を起こしたおたまのそばへ行った。
「おたまさん、大丈夫か?」
まずは怪我の外観を確認した。柱に頭をぶつけたらしく、少しだが出血していた。
後ろから伊兵衛の声がした。
「康二郎様、おたまさんに気分が悪くないかどうかご確認を。しばらくはあまり動かさない方が良いかと思います。甲山先生を呼んで参りましょうか?」
「頼む」と康二郎は伊兵衛に返して、おたまに具合を確認した。
大丈夫だとおたまは笑顔で応えた。
「良かった、大事なくて……」
康二郎はホッとして思わずおたまを抱き締めた。おたまは照れたようだ。
この時代の慣習では人を抱きしめることは、あまりやらない。武士となると、人前ではまずやらない。康二郎はその点珍しい。
――おっかさんのせいだ。
康二郎は武士としては珍しい「癖」があることをそう思っていた。母のお松によく抱き抱えられたり、抱きしめられたりしていた幼い頃の記憶が今も鮮明に残っているのだ。
おたまは康二郎のその「癖」を知っていたから、驚きはしなかったが、周りの目にどぎまぎしたことだろう。
おたまをしっかり抱きしめたまま、呆然としている奥様に向かって、康二郎は言った。
「ご心配なさらずとも、私はもうすぐこのお屋敷を出ます。そちらも今しばらくのご辛抱です」
須美もおりつもおたまも、驚いて康二郎を見ていた。奥様の反応はなかった。
須美は気丈に振る舞った反動か、どうにも気分が悪いようだった。
「若奥様も大丈夫ですか?」
康二郎が須美に声をかけたとき、おたまが康二郎を見上げて囁いた。
「康二郎殿、甲山先生がお見えになったら、若奥様も診てもらったほうが良いと存じます。たぶんご懐妊されているのです」
康二郎は嬉しい驚きで胸元にあるおたまの顔を見下ろした。おたまは笑顔で言った。
「康二郎殿、とうとう叔父上になられますね。さ、こんなお祖母さんでも恥ずかしい気持ちはあるので、そろそろ腕をほどいてくださいな」
甲山がおたまの診察を終えて須美を診察し始めた時に、和之助と殿様が帰ってきた。
疲労感に苛まれていた康二郎は、手短にこの日の昼にあったことを二人に報告した。
奥様の頬を平手打ちしたことは、いくら自害を止めようとしてのこととはいえ、やり過ぎだ、やってはならぬことだと叱られるのではないかと思ったが、二人はただ黙って康二郎の話を聞いた。
讒言による目付の「ある疑い」発言については、二人とも驚きもしなければ、腹を立てもしなかったが、目付の意図には揃って首をかしげた。
この日あった和之助の用事は本当の私用だったが、殿様が急遽知り合いに呼び出されたのは、どうやら目付の策略だったらしい。殿様のいない間に屋敷から帳簿類を持ち出したわけである。
「わざわざ御目付が御自らお出ましになるとは、考えられるのは、当家の雰囲気の確認くらいだが……それとても、御徒目付で十分な……神保殿はそういう、何かとご自身でやらねば気の済まない御方なのですか、父上?」
和之助が前半は康二郎に向いて、後半は殿様を向いて言った。
殿様はいつもの淡々とした顔つきと口調で和之助の問いに答えた。
「御目付でも一、二の切れ者で厳しい御仁だとは言われている。しかし、何でも自分でやらないと気が済まない人ではなさそうだったのだが……」
そこで殿様の目が康二郎に向いた。そこに微かな疲労を康二郎は感じたが、自分自身の疲れのせいかもしれないと思った。
「康二郎、よく応対してくれた。奥のこともな。今日はもう長屋に戻って休め」
はいと答えて長屋の自室に戻った康二郎を伊兵衛が出迎えた。
今日はもう帰るよう言いおいて殿様と和之助への報告に行ったから、康二郎は驚いた。
「どうして帰らなかったのだ?」
「康二郎様のことで気になることがありましたもので。右手の状態はいががですか?」
言われて右掌を見た康二郎である。
傷痕はまだ生々しいが、どれもきちんと塞がっている。伊兵衛がまめに軟膏を塗って晒を変えたから、膿むこともなかった。
「ま、こんなものだろう」
そう気軽に言った間に伊兵衛は康二郎の右手を掴むと、掌を揉むようにさすり始めた。指圧といったほうがいいかもしれない。
「固くなっておりますから、少しほぐしておきましょう。いきなり平手打ちを食らわせるには固いのがちょうど良かったかもしれませんけれども」
康二郎は奥様の頬を叩いたことを後悔はしていなかったが、改めて言われると恥ずかしかった。
「見ていたのか?」
「いえ、音を聞きました。わたくしがこんなことを申してはいけないのですが、気分がすっきりいたしましたよ」
伊兵衛は康二郎の顔を見て、例の茶目っ気のある笑みを浮かべた。また俯いて掌をさすり始めた。
康二郎は近々伊兵衛に言わなければいけないことを考えると、その献身ぶりがあまりに心苦しかった。
「どうしてこんなに俺に尽くしてくれるのだ?供だけしていれば良いではないか」
「そうですね。中間はお供だけしていればよいのかもしれません……康二郎様に夢を見ているからかもしれません」
「夢?」
「わたくしには手の届かない夢を康二郎様に託しているのかもしれません」
「どんな夢だ?」
「口に出してしまうと叶わなくなる気がします」
伊兵衛は今度は柔らかな、どこか寂しげに見えもする笑みを浮かべた。
「俺も伊兵衛に、伊兵衛とその家族に夢を見ているかもしれない……」
「ふふ、康二郎様は御旗本ですから、狭い長屋で家族寄り添って暮らすというのは却って難しいでしょうね」
「俺は旗本なのだろうか?武士だろうか?いまだになりきれてはいないよ。これからなりきれるとも思えない……のだが、そんな俺の話は置いておいて……」
康二郎は「家族」を口にしたことで、意を決した。
「お前の家族のことだが、通いを止めて、この屋敷の住み込みにしないか?」
「どこに住むのですか?長屋に空きはないではありませんか」
「そこはやりようがある。俺はあやとふみが心配でならないんだ。あんなにかわいいんだぞ。人攫いが目をつけるんじゃないかと……ここならそう簡単には手を出せない」
伊兵衛は康二郎の右手をそっと離した。
「康二郎様はお屋敷を出るおつもりですね?養子先を見つけて出るのではなく、自ら、御身一つで」
伊兵衛は康二郎を悲しげに見ていた。
「住み込みにする代わりに、今の給金を少し下げることになるけれど、店賃を払う必要がなくなるわけだから、悪い話ではないと思う。どうだろう?」
康二郎は伊兵衛から視線をそらして続けた。
「わたくしがこのお屋敷で四年も勤めているのは、康二郎様の中間としてお雇いくださったからです。殿様も和之助様も優しい良いお方ですが、わたくしには康二郎様のようにお仕えすることはできません」
「それは構わないさ。俺と違って二人は生まれながらの旗本だ。伊兵衛が気を回す必要はない」
「お屋敷を出て、どうなさるおつもりですか?生計は何でたてるおつもりですか?」
しまった、ひっかかったか……と、康二郎は思った。
――伊兵衛にごまかしはきかないなぁ……仕方ない。
康二郎は開き直った。
「そこまではまだ考えていない。これから考える。今すぐというわけではないから。俺を養子にしたいなんていう旗本がいるわけないのだから、自分から出ないと。今以上に厄介者扱いされるのは嫌だ」
康二郎はニヤリと笑ったつもりだった。
伊兵衛はまた柔らかな笑みを浮かべた。
「わたくしに暇を出すのが康二郎様は気が引けて仕方ないのでしょうが、そろそろ潮時とわたくしは思っておりました。康二郎様は立派なお武家様にお成りです。剣術も中居道場の片手に入るところまで強くなられました。わたくしの当お屋敷での役目はそろそろ終わりだと思っておりました」
伊兵衛は康二郎を安心させるように笑顔で頷いた。
とっくに悟っていたとしか思えない伊兵衛の言葉に、康二郎は一段と胸苦しくなった。
「ですから、康二郎様が気になさることは何もございません」
そう付け加えた伊兵衛の顔を康二郎は見ることができなかった。
――なぜ、ささやかな幸せが続かないのだろう?よく四年続いたと思わないといけないのか?
「す、すまない。許してくれ。こんなに俺のために尽くしてくれたのに、お前がいなかったら今の俺はないのに、それに報いるどころか、こんなことになるなんて……」
康二郎は泣くまいと思っていたが、またしても自分の無力さに、涙を堪えきれなかった。膝の上で握りしめた拳に涙が落ちた。
「まだわたくしは半年ここに勤めますぞ、康二郎様」
俯いてぽろぽろ涙をこぼす康二郎の背中にそっと手が触れた。
伊兵衛がこの屋敷へ初めてやって来た日のことが康二郎の頭に甦っていた。
―― 第四章 終わり ――
第五章(一)は、9日(土)の掲載/公開予定です。




