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第四章 天明七年 晩夏~初秋 (十一)

 

 門から式台へ向かってくる御目付一行は、康二郎が伊佐治の言葉から予想した以上に大所帯だった。

 馬に跨がった(かみしも)の武士を先頭に、徒歩(かち)の侍が六人、揃いの看板を着た中間と小者が二十人近くもいたのだ。そして、小者の四人は大八車を操っている。


 目付方は探索対象をひそかに調べ、当人の前や屋敷に堂々と現れるのは最終段階が多いという噂だったから、鶴蔵が震えるのも無理はなかった。

 康二郎も心の臓は激しく打っていた。

 しかし、今は自分しかいない。

 野田の奥様が三枝家のような奥様だったなら、殿様の代理として目付に対峙できたろうが、あの奥様にそんなことをさせたら、かえって野田家の首を締めることになる。

 康二郎は一つ深く息を吐いた。剣術の試合に挑む気持ちと同じだった。



 康二郎はただ一人式台に正座し、目付の一行を出迎えた。

 式台の前で目付は馬を降りた。その身のこなしは軽かった。


 康二郎は手をついて挨拶をした。

「本日はわざわざ当野田家にお越しくださり、恐悦にございます。あいにく主人も若も外出しておりますので、不肖ながら、わたくしがお相手をいたします」

 目付はすぐに式台に上がらず、康二郎に問いかけてきた。

「貴公の名は?」

「野田康二郎と申します。土屋鶴蔵と共に当家の家政を受け持っております」

「ずいぶん若いな。野田ということは、野田織之助殿の御子息か、甥御か?」


 康二郎は即座に次男だと返すことができなかった。気が引けて、答えるのに間が空いた。

「康二郎様、()()()()の客間にお迎えの用意が整いました」

 おたまの声がした。

 目付にも聞こえたことだろう。


 目付の神保左内はじっと康二郎の目を見つめてきた。細い目なのに、刃が飛んできそうな鋭さを康二郎は感じた。

 目付は康二郎に目を据えたまま、ゆっくりと式台に上がった。

 間近に見た神保左内は、四十歳過ぎくらいの肩幅の広い侍だった。背丈は康二郎と同じくらいだ。武芸は相当できると思えた。


 ――落ち着け!やましいことは何もないのだ。怖れることは何もない。あの目に負けてなるものか。

 康二郎は口を開く前に自分に言い聞かせた。

「では、どうぞこちらへ」

 そう言って立ち上がり、目付一行を客間へと先導した。



 普段は殿様しか使わない客間に神保左内と徒目付の二人を通し、一行が着座した後に康二郎は下座に座った。

「改めて、当屋敷にお越しくださり、恐悦至極にございます。本日はいかなる御用でございましょうか?」

 再度、深く頭を下げて康二郎は言った。


(おもて)をあげよ。当家の各種帳簿を拝借したい。当家にある疑いがかかっている。その疑いを晴らすためにも、帳簿類は包み隠さず提出してもらいたい」

 目付の言葉に康二郎はやはり讒言があったのだと、怒りで膝に置いた手に力が入りそうになるのを必死に止めた。

 ――『ある疑い』とは、いったい何の疑いだ?はっきり言ってくれ!


 康二郎は怒りを押さえ込んで冷静に即答した。

「承知いたしました。すぐにお持ちいたします。いつからいつまで御入用でございましょう?」


 御目付自らの訪問までは予期していなかったろうが、「やましいことは何もないのだから、お調べがあっても動揺することはない、調べたいことがあるなら調べさせれば良い」と、殿様が言っていたから、康二郎の返答自体に迷いはなかった。だが、思わずにいられなかった。

 ――帳簿を借りるなど、御徒目付に任せればよいような……


「この二十年分を拝借いたす。かなりの量になろうな」

 神保は余計なことは言わず、出した茶にも手をつけようとしない。

 目付の両脇を固めるように後ろに座っている徒目付の二人は微動だにしない。

「はい。五十帳は越えようかと。三年以前の帳簿は蔵にしまっておりますので、少しお時間をいただきます」

 康二郎は濡れ縁に控える鶴蔵に向いて、蔵から出すよう指示した。

 すると、「わしも蔵へ行こう」と神保左内が言った。帳簿を入れ換えたり細工されないよう見張るつもりらしい。


 母屋を出て庭に建つ蔵へ向う間に、康二郎は神保に意外なことを訊かれた。

「貴殿は野田織之助殿の次男であろう。それなのに、そのように安価な木綿を着ているとは。前に会ったことのある嫡男の和之助殿は絹であったに」

 そういう目付の裃は地味な麻だったから、あなた様こそ地味な麻の裃をお召しで……と、康二郎は言い返したいところだったが、目付が麻の裃なのは役目のためだということを思い出し、言葉を飲み込んだ。自分のことを素直に答えれば良いのだと、思い直した。

「わたくしは木綿が好きなのです。丈夫で、肌触りも良いですし、よく汗をかきますから、さっと洗える木綿が、わたくしには絹より良いのです」

 なぜそんなことを訊くのだと康二郎は不思議だった。


「長く長屋門の二階で寝起きしていたと聞いたが(まこと)か?」

 この質しに康二郎は呆気にとられた。

「真ですが、何故そのようなことをお調べになったのですか?奥御右筆のお勤めとはなんの関わりもありませぬ」

「それは当方で判断することだ。腹が立ちはしなかったのか?自分だけ屋根裏に寝起きさせられ」

「そこまで細かなことをご存知なら、わたくしが数えの九歳まで棟割長屋で育ったのもご存知でいらっしゃいますね。長屋には馴染みがありましたし、あの部屋は眺めが良いので好きでした。あの部屋を出てこの屋敷に移るときは、寂しくて泣きそうになったくらいです」


「父君を『殿様』と呼んでいると聞いたが、それも真なのか?」

 康二郎は答える前に立ち止まり、神保の顔を見た。

「何をおっしゃりたいのでしょう?個々の家々にはその家ならではの事情があります。外からどう見えようと、わたくし自身はこれまでの暮らしを、ここでの自分を、不幸だと思ったことは一度もありませぬ。母を九歳で亡くしたことがわたくしの唯一の不幸であり、このお屋敷に引き取られてからのわたくしは、兄を始めとして、良い人々に恵まれてまいりました。どうして不満がありましょう」


 もちろん些細な愚痴をこぼしたり感じたことはある。だが野田の屋敷に慣れてからは、屋敷を出たいと思うような不満を感じたことは本当に一度もないのだ。

 康二郎は真面目に慎ましやかに暮らしている野田家への公儀の仕打ちに腹が立っていた。こんな細々としたことを聞いてくる目付にも腹が立ってきた。


「当家のことをそこまでお調べならば、怪しげな三千石の殿様のこともさぞ色々お調べになっておられることでしょうね」

 康二郎にしては珍しく嫌味が口をついて出た。この三年半程の間に二度姿を見ただけだが、伊兵衛の言動から進藤のことがどうにも気になり、実は大和屋で少し調べていた。


 大和屋に尋ねたら、進藤修理亮の屋敷は青山にあった。敷地の広さは二千坪ほどあり、野田屋敷の約三倍の広さだ。当主はここ何代も役につかず、寄合でいるという。

 現当主の修理亮は十五年前に家督をついだ。

 嫡男の頃に迎えた、親が決めた正妻とは仲が悪く、家督をついだと同時に自分好みの妾三人を同じ屋敷に囲い始めたという。

 子は妾との間に五人生まれ、今のところ、二人が存命だ。

 そうして、修理亮が家督をついでから、大和屋が斡旋した若い奉公人が毎年病死し始めたという……


 相手に切り込む時の気合いを込めた康二郎の視線を、神保左内は無表情で受け止めた。

「ほう、どの怪しげな殿様かな?残念ながら『怪しげな三千石の殿様』は一人や二人ではない」

 神保の声音は落ち着いているというよりも、冷ややかだった。

「言い過ぎました。今、申し上げたことは、当家ではわたくしのみ知ることです。お気に触りましたら、何とぞ、わたくしのみへのお咎めに。一人や二人ではない怪しげな殿様を、一人でも二人でも、その所業を追及し、相応なお仕置きがなされることを切に願っております」

 康二郎は目付にまた深く頭を下げた。


 神保左内は供の中間と小者に、蔵から二十年分どころか全ての帳簿を出させ、用意していた大八車に山のように乗せて帰っていった。

 康二郎には、最後まで何故わざわざ目付の神保左内が屋敷にやって来る必要があったのかわからなかった。


 康二郎と鶴蔵で目付一行を門前へ出て見送り、やれやれと思いながら屋敷内に戻って勝手口に足を踏み入れた時だった。女の悲鳴が聞こえた。おりつの声だと思われた。

「奥様!何をなさるのです!あっ!」

 次に聞こえたのはおたまの声だ。









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