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第四章 天明七年 晩夏~初秋 (十)

 

 色々な場合を考えて試算を繰り返し、康二郎が出した結論は、一層の質素倹約のうえに、やはり自分がこの屋敷を出るしかない、であった。自分と自分に絡むもの、伊兵衛の請状の見直しをするしかなかった。その選択肢は前から考えてはいた。


 嫡男に男子が生まれれば、いずれは野田家から出ないと「厄介」になる次男だが、この時康二郎が考えていたのは、養子先を必死に探すことではなく、武士身分を捨てることを含めた、町家に住むことだった。


 伊兵衛の給金は、そもそも康二郎の用心棒として雇ったことと通いにしていることから、相場より少し高い。

 今では康二郎も力をつけ、例の三人組もこの三年間動きがないので、用心棒として勤める必要がなくなっているし、そもそも次男の自分に専属の奉公人がいることは贅沢でしかないと、康二郎には思えた。


 自分がこの屋敷へ来たときからは義姉が増え、これから和之助に子供が生まれることを考えると、女の奉公人は減らせない。

 減らせるとすれば、供として雇った男の奉公人しかいないのだ。登城しなければ、供は必要なときに日傭で雇えばよく、普段は一人で十分である。訪問客も少なくなるだろうから、朝から夜まで門番を置く必要もない。

 しかし、長く勤めてきた奉公人を辞めさせるのは気が引ける。

 男の奉公人で一番新しく雇ったのは若党の、康二郎が野田屋敷に来てから三人目の庄次郎だが、その次は伊兵衛だ。そして二人の給金には大きな差がある。


 二年前から野田屋敷で若党を勤める庄次郎は、知行地の名主の四男で、名主の方から奉公させてほしいと頼んできた。そんな経緯から、住み込みである庄次郎の給金は小遣い程度で済んでいる。どのみち、あと一、二年で暇を取るだろう。若党とはそういう奉公人だ。

 以前にも知行地から夫役(ぶやく)の一つとして若い奉公人を出させていたことがあるらしいが、今後は今の庄次郎のような形でしか奉公人を雇えないかもしれない。そのことからも、今いる庄次郎を野田家の都合で辞めさせるわけにいかない。


 自分に取っては命の恩人であることを置いておいても、よりによって、一番優秀でなにかと頼りになる伊兵衛の給金を下げるか「(いとま)をやる」しかないことが、康二郎にはとてつもなく辛かった。


 考えてみると、伊兵衛は貧乏くじばかり引いてきたのだなと康二郎は思った。

 最初に囲われたのが、もっと高禄の武家や高僧だったなら、元服の暇で高額の金子を貰えるか、身分を買ってもらえ、今頃は左団扇……までいかなくとも、使用人を使う暮らしができていたことだろう。あの器量ならば、持っていくべき所へ話を持っていけば、引く手数多だったはずだ。

 野田家に雇われたのも、自分の用心棒ではなく、嫡男の和之助の供としてだったなら、殿様の御役御免で見直しの一番手になることもなかった。


 そのうえ、伊兵衛は詳細を決して語ろうとしないが、武蔵屋での丁稚奉公時だけでなく、渡り中間としての勤めでも嫌な目に何度も遭ってきたらしい。生きるのに絶望したことも一度や二度ではないとまで言っていた。

 その言葉が、康二郎の心に重くのしかかってきた。

 ――ここを辞めるとなると……次の奉公先は大丈夫だろうか?また嫌な目に遭ったりしないだろうか?

 自分はこの屋敷を近々出るのだと言うことが、伊兵衛への免罪符でもあった。


 試算をしている間に、康二郎は何度も又兵衛のことを思い浮かべた。

 又兵衛ならどうするだろうかと、考えてもみた。

 又兵衛ならば、康二郎が他家への養子以外で野田家を出ることにもちろん反対するだろうし、今の状態から大きく変えることなくうまく遣り繰りできるかもしれない。

 その可能性を思うと、自分の力不足が悔しかった。

 そんな康二郎だから、鶴蔵に「自分は未熟者だから忌憚なく意見を言ってくれ」と頼んでいる。

 鶴蔵は「康二郎様は未熟者ではございませんよ」と前置きし、「私のこれまでの経験や知己が役立つのでしたら、喜んで」と返してくれた。


 又兵衛は今でも康二郎には「又兵衛様」であり、尊敬する人物なのだ。

 母のお松が殿様ではなく又兵衛が好きだったとおみつが言った時、衝撃を受けたが、納得もした康二郎である。


 あの夜、長屋の店で一人になって水茶屋での出来事を思い返し、また涙がこぼれた康二郎の頭に突如浮かんだのは、又兵衛が亡くなった日に目にした母に似た姫人形だった。

 人形を思い出した途端、あのお内儀には申し訳ないと思いつつも、直感で又兵衛もお松が好きだったに違いないと思った。そして、おみつが言ったとおり、すでに妻帯していたことに加え、殿様もお松を好いているのがわかっていたから、そんな気持ちを表に出すことは一切なかっただろうと。

 ――おっかさんも、又兵衛様が自分の気持ちに答えることはないとわかっていたから、殿様を受け入れたのだろう……どうして、こうも世の中うまくいかないのか。

 改めて世の不条理を思った。


 おみつだけでなく、康二郎の目にも又兵衛より殿様の方が男前に見えるが、在りし日を思い返せば思い返すほど、又兵衛には人としての魅力が殿様よりあったと、康二郎には思える。

 ――おっかさんは「(つら)食い」じゃなかったってことだな。

 そう思った時、初めて康二郎は微笑んで母と又兵衛のことを思い浮かべることができた。




 気分の重さが招くのか、悪いことは続くもので、康二郎は久しぶりに会った竜三郎と気まずくなった。


 家計の見直しをした二日後、康二郎は銚子から戻ってきた竜三郎と居酒屋で飲食した。お互いの近況や橋蔵のことを話し、出だしは互いの状況に同情したり、茶化した合いの手を入れたりと、盛り上がった。

 竜三郎は銚子へは知り合いに誘われたとだけ言い、どんな知り合いに誘われたのか康二郎が訊ねてもはぐらかして答えなかったが、その代わりか、たまたまか、康二郎が八嶋屋で聞き損ねた、橋蔵が請け出そうとしているもう一人の遊女のことを教えてくれた。


 その遊女とは、夫の借金で幼い二人の子供から引き離された小さな商家の内儀だった。

「橋蔵は、女が気に入ったというより、幼い二人の子供が可哀想だと思い、身請けの金額も高くなかったから、請け出すことにしたらしい。本気で惚れてるのは、お前の幼馴染みだよ。ともかくも、一月か二月のうちに二人を請け出すことはできるらしい」


 理由を聞いてみれば、橋蔵らしい話だった。

 このときも康二郎の胸にチクリと刺すものがあったが、これでおきみは幸せになれるのだ、それが何よりではないかと、自分に言い聞かせた直後だった。


「お前の中間、伊兵衛はたまに女っぽい時があるな。あれだけ美男なのだから、昔、蔭間だったとか?」

 ふいに面白そうに竜三郎が言ったのだ。橋蔵が請け出す遊女からの連想だったようだが、康二郎は面白がっている様にむっとなり、

「それがどうしたと言うのだ?」

 と冷たく言いはなった。

 竜三郎は康二郎の静かな怒りに驚いていた。

「いや、どうしたと言われると、まぁ、どうということはないのだが……」

 歯切れの悪い言葉を残して、話題を変えようとしたのを康二郎は許さなかった。

「昔蔭間だったら、どうなのだ?何が言いたい?はっきり言ってみろよ。実のところ、俺は伊兵衛を女っぽいと思ったことがないから、そこから興味深いよ」

 竜三郎はますます口ごもり、急用を思い出したと、白々しい嘘をついてそそくさと康二郎と別れた。


 伊兵衛は入口近くの縁台に腰掛け、小女になにかと声をかけられ世話を焼かれながら、一人で飲んでいたのだが、帰りがけに竜三郎は伊兵衛を変な目で見たらしく、少し間を置いて康二郎が茶屋を出ようと声をかけたら、心配そうに言ってきた。

「竜三郎様と何があったのです?まさかわたくしのことが原因ではありませんよね?」

 嘘がつけない康二郎はつい黙ってしまった。

「竜三郎様が何をおっしゃったか知りませんが、わたくしは何を言われようと気になりません。お願いですから、わたくしのことでお友達と喧嘩などなさいませぬように……」

 康二郎は伊兵衛の言葉にますます竜三郎の言動を許せないと思ったのだった。




 さらに康二郎の悩みや苦しみに追い討ちをかけるように、殿様が御役御免になって七日後、野田家に大事件が起こった。康二郎の右手の晒が完全に取れた翌日だった。


 その日、和之助は前々からの約束で、殿様は知り合いからの使いが来て、二人はそれぞれ、庄次郎と甚五郎を供にして、朝の四つ過ぎ(10時頃)に出掛けた。


 もうすぐ昼の九つの鐘が鳴る頃だった。

 門番をしていた伊佐治が真っ青な顔で康二郎と鶴蔵のいる用人部屋へ駆けてきた。

 その時、康二郎と鶴蔵は作業が一段落して濡れ縁に座り、伊兵衛は濡れ縁に腰かけ、茶を喫しながら三人で世間話をしているところだった。


 伊佐治は足を止める前に口を開いていた。

「お、お、御目付の神保左内(じんぼさない)様がお見えです。大勢のお供を連れて、大八車まで引っ張って……と、殿様は不在だと申し上げたのですが、今、屋敷にいる者で問題はないと……いかがいたしましょう?」


 康二郎は唖然として、すぐには指図できなかった。思わず伊兵衛を見た。

 伊兵衛も康二郎を見ていた。そして、ゆっくり立ち上がりながら、頷いた。

 ――大丈夫です。大丈夫。

 そう言っているようだった。

「すぐに門を開けなければなりませぬ。康二郎様は式台でお出迎えを。わたくしは濡れ縁近くに控えておりますから、いつでもお声がけください」

 そう言い残し、伊兵衛は伊佐治と一緒に門へと走っていった。どこまでも卒がなく、いつでも康二郎を助けようとしてくれる。


 ――よりによって殿様も兄上もいない、こんな時に前触れ無しに来るとは……一体何しに来たのだ?

 康二郎はそんなことを思いながら、式台へ向かおうとして羽織を着ていないことに気づいた。

 鶴蔵に先に式台へ行ってもらおうと、振り向いたら、鶴蔵も伊佐治のように青ざめていたうえに、ぶるぶると震えていた。


 康二郎の方は、一瞬、頭が真っ白になったが、伊兵衛の頷きと落ち着いた対応に助けられ、すぐに得意の開き直りができていた。自分でも驚くくらい落ち着いていた。

「俺が応対するから、鶴蔵は何も言わなくて良いよ」

 そう言って鶴蔵を安心させて奥への使いにし、康二郎は部屋の隅に置いていた羽織を手に取った。







 

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