第四章 天明七年 晩夏~初秋 (九)
伊兵衛の言葉に康二郎は号泣しそうだった。ここが自分の部屋だったら、間違いなく号泣していた。
だがここは水茶屋だ。
康二郎は気持ちを変えるためにも、伊兵衛に涙声で訊ねた。
「伊兵衛には、生きた長さで幸不幸は計れないと、どうしてそんなにキッパリ言えるのだ?」
「渡りの中間をしておりますと、色々な人生を垣間見ることができます。これまで見てきた中で一番幸せな人生を送ったと思えるのが、最初にお仕えした榊原兵庫様なのです」
伊兵衛はそこでまた間を置いた。康二郎が手をつけなかった湯飲みに手を伸ばすと、店主に新しい茶を康二郎に持ってくるよう言って、その茶を一口飲んだ。
康二郎は伊兵衛の仕草を見守った。
「前にも申し上げたように、兵庫様は肝の臓を悪くして、四十でお亡くなりになりました。長生きされる方には七十どころか八十を越える方もおられるのですから、若くして亡くなったことになるでしょうが、ご自身の思うように生き、その結果の若死にに何も後悔していらっしゃいませんでした。
番士の勤めが嫌でも辞められない御方もおられるでしょうに、四つ違いの弟君がおられたから、さっさと家督を譲って隠居の身となり、決して多くはない三百俵から年に三十俵の禄を弟君から貰い受ける約定を取り付け、芝の裏店で幼い時から仕えていた中間と新しく雇った下女の老婆と暮らし始めたのが満三十のとき。
それからの十年は、端からどう見えようと、兵庫様には嫌なものを退けて好きなことに費やす、望み通りの日々だったようです。お亡くなりになる直前には体のあちこちが痛かったようですが、医者の言うことを聞かずに好きなお酒を飲み続けて招いたことだからか、痛いや辛いとは一言も仰らず、わたくしがほぼつきっきりで看病しているのをむしろ喜んですらいるような……」
伊兵衛は苦笑いを漏らした。
そこへちょうど店主が茶を持ってきて、康二郎の左へ置いた。
「あのように満足した潔い最期をわたくしは他に知りません」
店主が去ってから伊兵衛が続きを口にした。
隠居後の十年間が榊原兵庫に望み通りの暮らしだと思えた大きな理由に、間違いなく伊兵衛との出会いがあると康二郎は思った。これまでに聞いた話に受けた印象からは、伊兵衛と出会っていなければ、そこまで自分の四十年の人生を悔いなしと思えたか疑問だ。
「伊兵衛の方はそこまで榊原殿のことを好きではなかったんだよな……」
康二郎は考えたことの続きを口にしてしまったから、伊兵衛は少し怪訝そうな顔をした。
「はい。最初の頃は大嫌いでしたし、最後の方でも好きかと言われて首を縦に振ることはできません。康二郎様の方がはるかに好きです」
康二郎は飲みかけていた茶を思い切り吹いた。
昨日、今日の知り合いではないから、人として好感を持っているという意味なのはわかるのだが、いかんせん康二郎の中では流れが悪かった。
吹いただけでなく噎せてしまい、ゲホゴホ咳き込む康二郎の背中をさすりながら、伊兵衛は続けた。
「康二郎様はわたくしのような者もまっすぐ見てくださいますから」
康二郎は今度は噎せての涙目で伊兵衛を見た。
「おきみにも同じことを言われたよ。それがどうしたと言うんだ?」
その日、日暮れ時に湯島から屋敷へ戻ると、二つの大きな知らせが康二郎を待ち受けていた。
三枝家の用人、信楽久右衛門が再び野田屋敷を訪れ、康二郎が帰りつくほんの少し前まで待っていたという。
久右衛門は干菓子にしては重たい菓子箱と手紙を残していた。達筆過ぎる草書体で書かれた手紙には、橋蔵がこの日の昼頃に三枝の屋敷に戻ってきたことが書かれていた。
康二郎への感謝の言葉が十行ほどに渡って並べられ、途中には怪我の見舞い、治療代とお礼を兼ねて、わずかばかりの金子を用意したとあった。
菓子箱を開けると二十五両の切餅が出てきて、康二郎は肝を潰した。今の諸色高では五百石も決して楽には暮らせないはずだ。しかも橋蔵が遊女を二人も請け出そうとしているのである。
「それだけ康二郎様の説得がありがたかったのでしょう。他の誰も成功しなかったでしょうし」
「煽てるな、伊兵衛」
あとは橋蔵自身にかかっている。おきみの幸せを願う康二郎は、ここは橋蔵の願いが叶うことを祈るしかない。
もうひとつは、とうとう決まったかという、重たい政の知らせだった。松平越中守の老中首座ご就任である。
野田の殿様が奥右筆を御役御免、小普請組入りの沙汰を受けたのは、その三日後だった。
野田織之助が奥右筆を御役御免になる前には、もう一人奥右筆から勘定組頭になった人物も御役御免になるのではないかと噂になっていたが、この日までに御役御免になったのは野田の殿様一人だった。
主殿守が老中であった間に起こった慣習に合わない栄転や転任に疑惑の目が向けられているという噂が飛び交い、御役御免だけですむのか、減俸や取り潰しがあるのか、世間の口は残酷に取り沙汰していた。
この時点では主殿守自身も主殿守派だった人たちも御役御免になっただけで済んでいたのだが、そのことが却って越中守が采配を振るうこれから、旧主殿守派への糺弾が起こるのではないかと噂に火を付けたらしい。
野田の殿様は前々から覚悟していたからか、御役御免にも取り乱すことは一切なく、淡々とその日のうちに職場に置いていたわずかな私物を屋敷へ持ち帰ってきた。再び役職に就くべく活動する気は失せていると、和之助が言っていた。
勘定所の勘定から奥右筆への転任は確かにこの頃では例がなかったが、そこには奥右筆に向いていると思われて抜擢された節がある。実際、奥右筆になって仕事ができなかったわけではない。それどころか、素早く必要な知識を身につけ、そつなく仕事をこなし、数年前から近々奥右筆組頭になるのでは……とまで言われていたのである。
康二郎の知る限り、ここ何年も上役に時節の挨拶以外に贈答したことはない。
康二郎にも殿様の落胆が理解できた。
例え上の目に留まったきっかけが主殿守との「ちょっとした」縁であるにしても、そこに少々の金子のやり取りがあったにしても、付け届けや賄賂が常習のこの時代にあっては、それほど問題になるとは思えず、肝心要は仕事ができるかどうかではないのかと康二郎も思った。
「朋輩の誰かから妬みをかっていたのだろうな……出る杭は打たれるというヤツだ」
殿様の態度を受けてか、和之助の口調も淡々としていた。さらに続けた。
「妬みはこの世の中で、一番理不尽で、厄介で、怖いかもしれない」
人の世の理不尽さにやるせない気持ちを抱えながら、康二郎は鶴蔵と野田家の家計の見直しをした。
これまであった大名や旗本からの付け届けは一切なくなる。正味の三百石、四公六民での年百二十石で暮らさなければいけない。不作が続いているから、この年も知行地から得られるのは百二十石以下かもしれない。
また小普請組入りというのは、三百石の場合、年四両二分を小普請金として上納しなければならない。
たかが四両二分、されど四両二分。相場での中間一人と下女一人の給金を合わせた程の額である。
この上減俸があったら、さらに苦しい。
それほど贅沢はしていなかったが、人間、これまでの暮らしを変えて、急に質素にするというのは、なかなか難しい。
つきあいも止めるわけにいかない。
もちろん蓄えは少しあるが、先が見えない時点では蓄えに手をつけない方向で進めないと、何かが起こったときに借金しないといけなくなる。
今は再仕官する気持ちが萎えているという殿様だが、数年後にはやる気になるかもしれない。その頃には殿様ではなく、和之助が仕官を思い立つかもしれない。
いずれにせよ、仕官活動には多額の金がいる。蓄えはそのためにも残しておかなければいけない。
康二郎は、殿様が奥右筆になる前から又兵衛がうまく遣り繰りしてきた野田家の家政をここでボロボロにしたくなかった。これまで大きな借金をせずにやってこれた稀有な少禄の旗本家なのだ。




