第四章 天明七年 晩夏~初秋 (八)
「ここでは道行く人の邪魔になる。下まで降りよう」
伊兵衛、おみつ、康二郎の順に一列で階段を降りた。
降りたところにあった茶屋に康二郎はおみつを誘い、三人は道に面して置かれた縁台に、康二郎を真ん中にして、並んで腰かけた。
おみつに好きなものを頼むように言うと、茶と餅を二つ頼んでいた。
康二郎の方は、ついさっき団子を頬張ったところだから、茶だけ頼んだ。伊兵衛は康二郎に倣った。
康二郎は時間を無駄にしないため、おみつにさっそく訊ねた。
「今となってはもう十年近く前になるが、おみつさんは夜中に屋敷を抜け出ていたろう?何をしていたのだ?なんのために出掛けていたのだ?詮索するようで悪いが、ずっと気になっていたのだ」
この時の康二郎は、ひたすら謎を解いておきたい気持ちだけだった。この機会を逃したら、もう解けないかもしれないとおみつを追いかけたが、個人的な用事だったならば、詳細を尋ねるつもりはなかった。
だが、康二郎の問いにおみつの顔色ががらりと変わった。
「又兵衛殿に告げ口したのは康二郎殿だったのですか?」
「又兵衛様に告げ口?いいや、それは俺ではないぞ。俺はこれまで夜中に見たことを誰にも話したことはない。見たのは数えの九つだ。寝ぼけていたのだろうで片付けられると思い……又兵衛様がどうしたのだ?」
「では、甚五郎殿ね」
おみつは康二郎の問いより自分の疑問解決を優先していた。
そこへ頼んだ品が運ばれてきた。
伊兵衛が康二郎の左側に座っていたからか、右拳が晒巻きだったからか、湯飲みを二つ載せた盆は迷いなく康二郎の左側に置かれた。
康二郎はぎこちなく左手で湯飲みを掴んで一口飲もうとした。
「康二郎殿、右手をどうなさったのです?」
おみつは餅を口許へ持っていきながら、訊ねてきた。
「ちょっとな……大した怪我ではない」
康二郎はおみつに一々説明したくなかったから、それで済ませたつもりでいた。ところがおみつは引かなかった。
「昔にも右手を怪我されたことがありませんでしたっけ?野田のお屋敷に来て間もない頃……」
なんとなく飲みづらい雰囲気を感じ、結局、康二郎は口をつけずに湯飲みを盆に戻した。
「おみつさん、昔のことを聞かれ、その頃のことを色々思い出すのは無理ありませんが、ここは康二郎様のお尋ねに答えてください」
伊兵衛が笑みは浮かべていたが、明らかに刺のある口調で言った。
おみつは赤面して俯いた。
「真夜中に出掛けていたのは、奥様に頼まれて丑三つ刻参りをしていたからです」
今度はいきなり核心を言ってきた。
「奥様に頼まれて丑三つ刻参り?」
康二郎が全く予想していなかった答えだった。
「あの奥様はあなた様を呪い殺そうとなさったのです。当時、まだ数えの九つだったあなた様を」
おみつは言いながら、康二郎の目を見ていた。
康二郎はすぐには信じられなかった。
「何で……」
嫌われているとは思っていた。しかしわざわざ丑三つ刻参りをおみつにさせるほどとは思っていなかった。康二郎は悲しいと思った。
「代行では利き目もあまりなかったことでしょうな。奥様もどこまで本気だったか……」
伊兵衛が珍しく口を挟んできた。康二郎を気遣ってのことだろう。
「代行でも効き目があるか、いろんなひとに訊ねて、最後はわざわざ怪しげな巫女にまで確認しておられましたから、本気だったと思いますよ。それも康二郎殿が野田のお屋敷に来たその夜から始めたんです。ただ誰かに見られては駄目だというのに、あっさり見られていた。そりゃそうですよね。門にくっついた長屋に若党や中間が寝起きしてるのは、なんのためかっていう……」
ひゃはははと、おみつは大きな笑い声をあげた。
「馬鹿みたい!」
「なぜ、そんなことを……なぜ、そんなにも俺が憎かったのだ?今でもそうなのだろうか……」
こちらはそれほど強い感情を持っていない相手に、しかもよりによって敬愛する兄の産みの母に、呪い殺したいとまで思われていたと知って、康二郎が心に受けた衝撃は自分でも驚くくらい強かった。なるべく顔をあわさないようにしてきたが、この十年近く同じ敷地内で暮らしてきた間柄なのである。
「康二郎殿が憎いというより、康二郎殿の母君が憎かったのですよ。奥様はお松さんに嫉妬していた。殿様のお心を奪ったお松さんに。屋敷の皆に好かれていたお松さんに。お松さんは殿様が好きだったわけじゃないのにね。お松さんが好きだったのは又兵衛殿。当時、野田屋敷にいた者は皆知っていたことですよ。又兵衛殿も少なからず思っていたかもしれないけど、もうお内儀がいたし、堅物中の堅物だもの……っていうだけじゃなくて、殿様がお松さんを気に入ってるのがわかってたからかもしれないわね」
おみつは喉を潤すように茶を口に含んだ。
「で、結局、殿様に勝手に惚れられ言い寄られ、手篭めにされたのか、熱意にほだされたのかはしらないけど、殿様の夜伽をして身籠ったら、奥様にお屋敷をいたぶり追い出された……なんて、お松さん、踏んだり蹴ったりどころの話じゃないわ」
康二郎はどんな顔をしておみつを見ていたのだろうか。おみつは憐れむ表情になった。
「康二郎殿は本当に何もご存知なかったのですか?おたまさんも人が悪いわね」
康二郎は縁台に座っているのに足元が崩れていく感覚に襲われていた。
母が自分の父親だという殿様を好きではなかったのに断れなかったのかもしれないと、考えなかったわけではない。橋蔵との会話で口にしたように。
だが心の奥底ではそんなことはないと思っていたのだと、この時やっと気づいた。でないと、自分がこの世に生まれたことが、自分がこうして生きていることが否定されるように思うからだ。
――なにより、自分と一緒にいた母はいつも楽しそうだったではないか。それも幼い俺の勝手な記憶なのか?
「ふふっ。康二郎殿まで又兵衛殿に懐いたのには、殿様はどんなお気持ちだったのかしら。あたしには殿様の方が男前に見えるのに、母子揃って又兵衛様、又兵衛様。なんの因果か。又兵衛殿も複雑だったでしょうね」
康二郎は頭がくらくらしていた。
――おっかさんはどんな気持ちで俺を産んだのだ?どんな気持ちで育てていたのだ?おっかさんの一生は、何だったのだ?
おみつは康二郎の気持ちや動揺にはお構いなしで喋り続けていた。
「丑三つ刻参りを始めて四日目のことよ。又兵衛殿が怖い顔をして道に立っていたのは。『どこへ何しに行くのだ』と、あのいつも穏やかな又兵衛殿が凄みのある声で言ってきたわ。丑三つ刻参りを見られたら、そいつを殺さないといけないというけど、あたしが二本差の又兵衛殿に叶うわけないじゃない。数月後にまたやらされたけど、それも三日目には又兵衛殿とご対面よ」
おみつは餅をさらに二個注文し、奥様の愚痴を散々こぼして去っていった。
おみつが野田の屋敷を辞めたのは、表向きは縁談のためとしていたが、本当のところは二十年近く仕えてきて、とうとう奥様が耐えられないほど嫌になったから、だったらしい。
「たいていの人はもっと早くに嫌になるだろうにね」
おみつの姿が見えなくなったあとで、伊兵衛が独り言のように言った。
康二郎はおみつが去ったあとも動けずにいた。横にはまだ口をつけていない湯飲みがあるが、手を伸ばす気になれなかった。
湯飲みの向こうに座っている伊兵衛は康二郎に話しかけず、顔を見ることもせず、道行く人を眺めていた。
とうとう康二郎の目から涙がこぼれた。
「おっかさんが俺を身籠ったのは、今の俺くらいの年だ。満十八で俺を産み、それからわずか八年。二十六で死んでしまった……おみつの言う通りだ。好きでもない男の子を身籠って、屋敷を追い出され、あげくに苦労して若死にしたなんて、踏んだり蹴ったりどころじゃない。一体おっかさんの人生は何だったんだ……俺は何だったんだ……」
「人の一生の幸不幸は、生きた長さでは計れませんよ」
伊兵衛が優しいながらも凛とした調子で言った。
「康二郎様の記憶に残るお母上は、いつも明るく楽しそうだったのですよね?」
「そう俺には見えていた。そう俺は思い込んでいた」
「子供である康二郎様にそう見えていたのは、お母上が本当に毎日を明るく楽しく過ごしていたからですよ。子供は感情に敏感です。特に母親の感情は敏感に読み取ります。松殿の最後の八年間は、きっとそれまで生きてきて、一番幸せで充実した日々だったのですよ」
康二郎は半信半疑の気持ちで伊兵衛を見た。
「あの棟割長屋での働きづめの暮らしが幸せだったというのか?」
「世の中には長生きはしていても、楽しく生きることができていない人が一杯いるではありませんか。そんな人たちと比べたら、松殿の人生は決して不幸ではありません」
伊兵衛はここで少し間を置いた。
「わたくしが思うに、松殿にとって康二郎様は、殿様の子ではなく『自分の子』だったのでしょう。それが一番大事なことだった。だから父親は死んだと嘘をつき、野田家のことは全く口にせず、野田家から逃げたのです。
これは殿様にお聞きしたことですが、結局、松殿がお亡くなりになるまでお二人を見つけることができなかったそうです。
藤兵衛長屋に住み始めたのは、康二郎様が三才くらいからだったのでしょう?どうやら住む場所を何度か変えたようですね。男の子だから、野田家に見つかったら自分から引き離されると思っていたのでしょう」
茶屋の前をまだ若い女が五才くらい男の子二人の手を引いて通りすぎて行った。年子だろうか。
茶屋側を歩いていた年下と思われる子が縁台に座る康二郎と伊兵衛を不思議そうに見つめて止まりかけた。
母親が関わるなというようにその子の手を強く引っ張ったのが、康二郎にも見えた。
「松殿は身寄りがいなかったから、子供という家族ができ、生きる張り合いができたのだと思います。働きづめも苦にならなかった。汚くて狭くても可愛い我が子である康二郎様と暮らせるなら、そこは松殿にとってはどんなお屋敷で暮らすよりも幸せを感じることができる、贅沢な場所だったのですよ」
康二郎の頭に母の笑顔が浮かんでいた。
――そうだ。お金がなくて薄い粥しか食べられなかった時も楽しく二人で食べていた……
同じものを食べているようで、康二郎の椀に入っている粥より母の椀の中の粥が薄かったのが、今ではわかっている。
康二郎の目に止めどなく涙が溢れ続けた。改めて感じる母の愛だった。
康二郎が今でも棟割長屋にいた頃が一番幸せだったと感じているのは、いつも明るく楽しそうにしていた母がいたからだ。
母の自分への愛情を疑ったことはない。
伊兵衛の言う通り、自分を育てた八年間は母の人生で一番幸せな八年だったと思いたい。
「康二郎様の心の、その土台の強さは、松殿が命がけで注いだ愛情が培ったのです。康二郎様は気づいてらっしゃらないようですが、その土台は和之助様にはございません。自信をお持ちなさいませ。お母上にも、ご自身にも。その人生にも」




