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第四章 天明七年 晩夏~初秋 (七)

 

 鶴蔵に状況や近日の予定を確認し、細々とした指図をしておいて、康二郎がそろそろ伊兵衛と出掛けようと思ったとき、八嶋屋の主人が菓子箱を抱えた手代を引き連れて屋敷へ現れた。昨日の詫びに現れたのだ。

 どちらに非があるかは関係なく、まず事が起こってしまったことが問題であり、ましてや使用人の女中をかばって客が手に怪我をしたとなると、商家は詫びを入れないわけにいかない。相手が武士となれば、ひたすら平伏しての詫びだ。


「あの女中は大事ないか?」

 用人部屋に通された八嶋屋の主人、房右衛門(ふさえもん)に、康二郎は真っ先に訊ねた。自分と一緒に階段を転げ落ちた女中のことがずっと気になっていた。直後には大丈夫そうだったが、後から急に具合が悪くなってはいないかと案じていた。


「あれはもうすっかり元気でございます。頭にコブはつくっておりますが、打ち身もほとんどなく。康二郎様が庇ってくださったからでございましょう。いたく感動しております。康二郎様こそ大丈夫でございますか?右手のお怪我はかなり酷いのでしょうか?」

「なに、大したことはない。大袈裟に晒を巻かれてしまっただけだ」

 房右衛門と手代の後ろに控えている伊兵衛は無表情に康二郎の言葉を聞いていたが、康二郎は思った。

 ――これはたぶんムッとしたな……


「それは安堵いたしました。ですが、くれぐれもご無理なさらぬよう。これは些少ではございますが、わたくしどものお詫びとお礼の気持ちでございます」

 房右衛門は菓子箱を康二郎の前に押し出した。饅頭の菓子箱にしては妙に動きが重々しい。

「何卒これからも八嶋屋をご贔屓に」

 房右衛門は畳に顔がつきそうなくらい頭を下げた。


 ご贔屓もなにも、康二郎が八嶋屋に行ったのは橋蔵に会うためである。八嶋屋の儲けになることは何もしていないどころか、器をいくつか粉々に割ってしまったのだから、房右衛門の言葉は、決まり文句とはいえ、良心が痛んだ。

 康二郎には八嶋屋の主人にもうひとつ聞きたいことがあった。良心の痛みには目をつぶり、尋ねた。


「橋蔵殿はまだあの座敷におられるのか?」

「今朝わたくしどもがこちらへ伺うべく出かけるときにはまだいらっしゃいました」

「そうか……」

 康二郎には今朝から二度目の落胆だ。

 ――まぁ俺に言われてすぐに屋敷へ戻るのも癪だろう。


 房右衛門と手代が帰った後で菓子箱を開けてみたら、果たして、軽くて柔らかい饅頭の中に重くて固い饅頭が入っていた。包みを開けたら、小判が五枚出てきた。

 康二郎には驚きの額だったが、伊兵衛は「渋いものですね」と冷ややかだった。

「そうか?俺は結局のところ客ではなかったからな。金を貰えるどころか、割れた器や台無しにした料理の代金を払えと言われるんじゃないかと思っていたくらいだ」

「お武家に一介の引手茶屋がそのようなことを言えるわけがございませんが、そもそもあの女中が階下にいる番頭と話していたところから、いきなり階段を上がり始めたのがいけなかったのです。動き出す前にまず周りを確かめませんと。料理を運ぶ途中だったのですからね」

 伊兵衛は一部始終を入り口脇の縁台から見たらしい。女中にかなり立腹のようである。

「あの女中が前をよく見ていなかったにしても、俺がぼんやりしていなければ防げたことだ。どちらも大きな怪我にならなくて本当に良かったよ」

 康二郎は畳に並べた小判を眺めた。

「さて、この五両をどうしたものか……」


 相手が旗本とみられては吹っ掛けられても不思議ない蘭方医の治療だったが、治療のほとんどを伊兵衛がやったこともあり、右堂から請求された金額は、ほぼ薬代と晒代の実費だった。五両の使い道には少なすぎた。


 康二郎はふっと顔をあげて伊兵衛に向いて言った。

「美津野屋で上手いものをたらふく食うかな。俺は卓袱(しっぽく)料理*というのを食べてみたい」

「それは良いお考えでございますな」

 伊兵衛が菩薩のような慈愛に満ちた笑みを浮かべて同意した。

 康二郎は慌てて付け加えた。

「もちろん、この晒が取れてからだ!」




 昨日の今日で湯島天神行きを提案した伊兵衛は、相当厳しい指導者である。康二郎がこの日に出した結論だ。

 野田屋敷のある赤坂から湯島天神へ行くためにこの日歩いた路は、まず坂を降りて堀に出る。そこから堀に沿って土橋まで行く。今度は繁華な通りをひたすら北へ向かい、京橋、今川橋、筋違橋を越える。そこから湯島天神までは緩い坂を登る……という経路だった。

 普段なら、康二郎にはどうということはない距離や道の高低なのに、この日は湯島天神の鳥居を目の前に一息入れてしまった。今朝になったら、あちこちに痣はできていたものの、歩くのには支障ないと思っていたところが、坂の登りがだんだんこたえてきた。脚も腰も痛み、蒸し暑さは体力を奪った。

「ここが頑張りどころです」

 伊兵衛は容赦なかった。

 康二郎も負けん気があるから、弱音は吐かない。

 やっと登りきって見た北側に広がる不忍池から寛永寺を臨む景色は、頑張った甲斐のある、実に美しい眺めだった。


 この日も湯島天神の境内は賑わっていた。

 康二郎と伊兵衛は本殿とその背後に鎮座する戸隠神社に参拝し、境内を少し散策して揚弓屋を冷やかしてから、下谷側の鳥居横にある茶屋に入った。

 茶屋の下に見える、傾斜のきつい男坂を行き来する人々を眺めつつ、康二郎が団子を頬張っていると、ある女の後ろ姿が目に止まった。

 淡々と階段を降りていくその姿と動きに既視感があった。

 ふと女が横を向いた。

 ――おみつさんじゃないか!

 おみつは通りすがりの女に話しかけられ、坂の途中で立ち止まった。二人は知り合いのようだ。

 その時、幼い頃の記憶が突然はっきりと康二郎に甦った。

「どうなさいました?」

 側に座っているはずの伊兵衛の声が遠くに聞こえた。

 康二郎が野田屋敷にやって来た夜に外から戻ってきた女。二月程たった夜に、今度は外へ出て行くのを見た女。

 ――おみつさんだったのだ。しかし、なぜ?何のために?


 何のために真夜中に出掛けるのか。目撃した当時にも思ったことだ。

 おみつはこの春の季変わりで野田家から暇をとった。その後にどうするつもりか、おたまから聞いた気がするが、康二郎は適当に聞き流してしまった。奥様の威を嵩に着て、何かと康二郎に嫌味を言い、難癖をつけてきたおみつである。かなりお人好しの康二郎でも再会したいとは思わなかった。


 ――この辺りに住んでいるのだろうか?二度とない機会かもしれない。天神様のお導きか?

 つい先ほど人生二度目の参拝をしたばかりで、いきなり湯島の天神様が導いてくださったかもしれないと、ちらとでも思えるのは、康二郎の強みの一つかもしれない。


 康二郎は残る団子を急いで口に詰め込むと、訝しむ伊兵衛の懐を晒でぐるぐる巻きの右手で指差しながら、左手で男坂を差し示した。口の中が一杯で喋ったら団子がこぼれ落ちそうなのだ。

「先に男坂を降りているから、金を払ったら追いかけてこい、ですね。承知しました」

 伊兵衛が半分呆れたように淡々と言った。

 右手をこれ以上痛めないよう、且つ掏られることのないよう、康二郎は財布を伊兵衛に預けていた。着物の懐は右手でないとさっと出し入れできない。


 茶屋を飛び出した康二郎が男坂を見下ろすと、おみつは中程でまだ知り合いと立ち話をしていた。

 ――間に合った……

 おみつの様子を窺いながら、一段一段、康二郎は階段を降りていった。

 立ち話を終えたところで声をかけるつもりでいた。ところが、これがなかなか終わらない。

 康二郎はおみつから数段上のところで景色を眺める振りをしながら待つことにした。おかげで口の中の団子を全て胃の腑に押しやることはできた。

 しばらくして、背後に伊兵衛の気配がした。


「おみつさんですな」

 康二郎の耳元に囁いてきた。

 気配がしたと思ったらすぐ横にいた伊兵衛に、康二郎は反射的に横っ飛びしそうになった。もう少しで段を踏み外すところだった。

「伊兵衛、頼むよ。驚かさないでくれ……」

「わたくしが近づく気配を感じ取れないとは、鍛えないといけないことがまだ山ほどございますね」

「殺気がないからだよ」

 康二郎が半分は恥ずかしく、半分は悔しい気持ちで伊兵衛に言い返した時、ようやくおみつの立ち話は終わった。そのまま淡々と段を降りていく。


「おみつさん!」

 康二郎は上から呼び止めた。

 振り向いたおみつは、康二郎と伊兵衛を認めて、目を丸くした……と、思ったら、次の瞬間には慌ただしく坂を降り始めた。

「おみつさん、待ってくれ!なんで逃げるんだ?」

 康二郎が追いかけようとしたら、「ここはわたくしに」と言い置いて、伊兵衛が飛ぶように一段飛ばしで段を降りていった。あっという間におみつを追い越して、前に立った。

「何故逃げるのです?康二郎様は心の広い、優しいお方だ。それはおみつさん、あなたが一番よく知っているのでは?」

 これ以上怪我を増やさないように、一段一段確実に降りていく康二郎の耳にも伊兵衛の言葉が聞こえた。


 逃がさないために仕方なくおみつのすぐ後ろで止まったが、この立ち位置では、町人の女を苛める武家とその中間に間違われそうで、康二郎はヒヤヒヤした。

「おみつさん、ちょっと尋ねたいことがあるだけだ。すぐに済む」

 康二郎は穏やかな声を心がけた。

「なんでございましょう?わざわざ追いかけてまでお聞きになりたいこととは」

 康二郎に振り向いたおみつは明らかに身構え、警戒していた。










* 簡単にいうと、大皿で料理を提供し、各自が取り皿に取って食べる中華料理を日本化した料理。提供する店としては、天日本橋浮世小路の「百川」が有名。



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