第四章 天明七年 晩夏~初秋 (六)
伊兵衛が町役人に届けを出して正式にさえと所帯を持ったのは、浪人大襲撃を退けた三月後だった。
康二郎が伊兵衛の一つ年下の恋女房、さえと初めて顔を合わせたのは、それより一月前のことだ。
芝居を観たことがないという康二郎に伊兵衛は驚き、それならば近々芝神明の宮地芝居を観に行くから、一緒に行きましょうと誘った。
康二郎も自分が行けば、伊兵衛の観劇が休みではなく仕事のうちになると思い、誘いに乗った。まさかそれがさえと二人での観劇予定とは思いもしなかった。
芝に着いてからそのことを知った康二郎は、恋仲の二人の邪魔をしたくはないと、別行動をとろうとしたが、伊兵衛にもさえにも「昨日、今日つき合い始めた仲ではないので、気にしないでください」と言われ、挙げ句の果てには、二人の間に座って芝居を観る羽目になったのだから、康二郎には一生忘れられない初観劇になった。
しかも芝居を観ている間にだんだんさえと意気投合し、帰りには地本問屋で和気藹々と二人で役者絵や草双紙を品定めしながら選んだのだ。そんな二人を見て、伊兵衛は呆気にとられていた。
二人が意気投合したきっかけは、役者を見ての感想が同じだったという、ごく些細なことだった。得てして、そんなものである。
美形と評判の若女形が艶やかな衣装を纏って舞台に登場したとき、康二郎はつい小声で口にした。
「伊兵衛があの格好をしたら、もっと綺麗なんじゃないかな……」
「ええ、もっと綺麗ですよ。いつか見たいですね、康二郎様」
うんと頷いた康二郎とさえはしばらくクスクス笑った。
「さえ、六尺三寸の女形なんざ、化け物にしかならないぞ」
ネタにされて伊兵衛は嫌な顔をしていたが、二人は意に介さず、そこから妙にお互いの役者や芝居の感想が合うことに更に盛り上がっていったのだった。
さえは観劇後に中食を食べながら、康二郎に伊兵衛の昔のことを少しばかり話してくれた。
実はさえが伊兵衛を初めて見たのは、伊兵衛が榊原兵庫と暮らしていた、十五才頃だったという。
「親戚が営んでいた料理茶屋を手伝っていたら、お武家様と路考茶の振り袖を着たとても綺麗な男の子が店に入ってきたんです。一瞬、女の人かと思ったけれど、中剃りが見えて、男の子なんだとみんなびっくりしたんですよ。それまでそうした話を聞いたことがあっても見たことはなかったから、本当に驚くばかりで。化粧をしてなくてこんなに綺麗な子なら、そりゃ男も女も惚れるよねと、みんな納得したのを覚えてます」
女中達だけでなく、番頭や話を聞いた料理人までが皆、二人が入った二階の奥座敷を覗いてみたくて、注文取りから配膳、挨拶と、一人一回は座敷に顔を出せるよう計らったというから、料理屋にとってかなりの騒動だった。
この頃には衆道や色子を僻目で見る町人が増えてきていたが、料理屋の人々は美しいもの見たさと野次馬根性に突き動かされたらしい。
さえは一番年下だったため、配膳で伺える順番が後ろになり、追加の注文が二回なければ、「覗け」ずに終わってしまうとやきもきした。
ついに二度目の注文追加があり、さえはどきどきしながら盆に銚釐と鴨のしぐれ煮、青菜と茸の白和えを載せて階段を上った。
障子の外で一旦盆を置いて声をかけ、そっと障子を開く。
顔を上げたさえの目に飛び込んできたのは、後ろを向いてお武家に何かを食べさせている少年だった。よくみたら少年はお武家の胡座をかいた足の上に座っていた。その腰にはお武家の手が見える。
さえは赤くなりながら、空いた皿を下げ、持ってきた銚釐と二品の皿を膳に置いた。
少年はさえが膳に皿を置くやいなや、鴨のしぐれ煮に箸を伸ばした。
「これを待ってたんだ」
大きめの切り身だったのだが、男の子らしくがぶりと一口で口に入れた。その後でクチャクチャと鴨肉を噛みながら「ありがとう」と少年はさえに笑顔を向けた。
美女のような見た目からは落差のあるざっくばらんな話しぶりと食べっぶりにさえは驚き、余計にどぎまぎした。
お礼を言われて更に赤くなりながら、少年の顔を見て「いいえ。どうぞごゆっくり」と型通りの挨拶を返した時、さえの視界に入ったのは、少年のうなじに顔を埋めようとしているお武家だった。うっとりしているように見えた。
ひゃーっと声をあげそうになるのを堪えて盆を手に、さえは慌てて座敷を出た。
この話を聞いた、当時はまだ数えの十五才だった康二郎もひゃーっと声をあげそうになった。
さえの話を聞いて、榊原兵庫の伊兵衛少年への惚れ込みは、伊兵衛の淡々とした語りからでも深いと思ってはいたが、思っていた以上にさらに深かったようだと康二郎は思った。
そうして、十代半ば頃の伊兵衛の様子が話の中心だったのに、話を聞き終えて康二郎の頭に一番残ったのは榊原兵庫のことだった。
――なぜだろう?話を聞くたびに榊原殿が気になってきている……
理由はわからないまま、その傾向はその後も続いている。
もちろんこの料理茶屋での出会いが後にさえと伊兵衛の二人が夫婦になるきっかけではない。
伊兵衛が野田屋敷に勤め始める三年前に、とある料理茶屋で女中と旗本の中間として再会したときには、双方とも前に会ったとか、見かけたという覚えは全く無かった。
名前が違っていたのだから、無理もない。路考茶の着物を着た少年はお武家に「みつる」と呼ばれていたのだ。
「榊原様のお屋敷ではずっと『みつる』と呼ばれておりました」
この時にようやく伊兵衛が康二郎に教えた。
納得した康二郎である。
野田家でも代々「庄次郎」という若党がいるように、武家や公家のみならず、商家でも奉公人の名前を変えるのは珍しいことではない。多くは雇う側の好みや都合だが、奉公人側が希望する場合もある。
さえは二度目に会った時に伊兵衛に記憶の中の少年の面影があるのに気づいたのだが、さらに何度か言葉を交わし、つきあってみるかという気になった頃になって、ようやく「ひょっとして……」と、訊ねてみたという。
自分の過去を知っているというのは伊兵衛には説明の「手間が省けて楽だった」らしい。
「手間が省けて楽だなんて、ひとを煮売屋のように言わないでほしいわね」
言いながら笑っていたが、さえの切り返しにおきよ姐さんを思い出した康二郎である。顔立ちもおきよ姐さんと少し似ていると思ったが、似ているのは顔立ちだけではなかった。好みは一貫しているのだ。
蕎麦屋で伊兵衛に食べさせてもらったことは、伊兵衛という壁で周りに気づかれなかったのか、武士の情けで気づいても知らない振りをしてくれたのか、店を出る時に二人が目で追いかけられることはなかった。
康二郎はやれやれと胸を撫で下ろした。
道場で栄之進に怪我の報告をした後には、せっかく来たのだからと、左手だけで軽く素振りをしてみたが、誤って右手をこれ以上傷つけてはいけないと、早々に止めた。
自分が悪いのだが、なんともつまらない。
――この上、橋蔵が屋敷に戻らなかったら、今日は怪我して自分の首を絞めただけの虚しい一日になる……
康二郎は珍しくため息が出た。
屋敷に戻ると、康二郎は伊兵衛と共に和之助に怪我の報告をした。
伊兵衛が「わたくしがついていながら康二郎様にこのような怪我をさせてしまい、誠に申し訳ございません」と謝ったのは、あまりに心苦しかった。
違います、ひたすら私の落ち度ですと康二郎は言おうとしたが、その前に和之助が言っていた。
「伊兵衛、よく慌てず対処してくれた。礼を言うぞ」
和之助はよくわかっていた。さすがは康二郎の兄である。
翌朝、伊兵衛は小雨が降る中、屋敷を相対替えした二年半前から康二郎が一人で寝起きしている長屋門の店に、いつもより少し早めに現れた。
そして「おはようございます」から、すぐに右手の傷の具合を確認し、前日同様、紫色の軟膏を塗り、布を当てて、その上から細く割いた晒をぐるぐる巻きにした。
起きた時には空模様と同様のどんよりした気持ちでいた康二郎だが、伊兵衛の親身に治療してくれている姿に、得意の開き直りか、気持ちを取り戻せた。
そこで、右手を晒でぐるぐる巻きにされながら、前向きな気分で伊兵衛に言った。
「屋敷に籠るなというから、今日はお前の住む木蓮長屋へ行くことにするよ」
伊兵衛一家が住む、通称「木蓮長屋」は赤坂の新町にある。長屋の真ん中に稲荷と並んで木蓮の木が立っているのが通称の由縁だ。
歩いて片道四半刻近くかかるし、あやを遊ばせたらかなりの運動量になる。伊兵衛に否はあるまいと思ったのに、
「今日はさえの実家へ行くと申しておりましたから、長屋へ行っても誰もいないかもしれませんよ」
と返ってきた。
康二郎はがっかりした。あやとふみに会いたかった。
――うまくいかないときはこんなものか。
再び気分は暗くなった。
「今日は湯島の天神様へ参りませんか。康二郎様は一度しかお行きになったことがないのでございましょう?空が明るくなってきましたから、間もなく雨は止みましょう」
あまり気乗りはしなかったが、他に行きたいところも浮かばず、康二郎は伊兵衛の提案に乗ることにした。
湯島天満宮、通称「湯島天神」は野田屋敷からは城を挟んでほぼ真向かい、且つ坂の上にあるから、相当な距離を歩くことになる。足腰を鈍らせないことに大いに役立つだろう。それが湯島を持ち出した伊兵衛の狙いだと、康二郎は思った。




