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第四章 天明七年 晩夏~初秋 (二)

 

 翌日は朝から雲が空を覆い尽くし、いつ雨が落ちてきても不思議のない天気だったが、嫌なことはさっさと済まそうと、康二郎は笠を被って下駄を履き、伊兵衛を供にして回向院前の八嶋屋へ向かった。

  頼まれたことと橋蔵の事情を話すと、伊兵衛はクスリと笑って言った。

「あの日は行きも帰りも、橋蔵様が一番浮かれてらっしゃいましたね」


 あの日とは、初めて吉原へ行った日のことである。

 遊廓がどんな所か見てみたいという好奇心で誘いに乗ったこともあり、康二郎には今のところそれが遊廓へ行った最初で最後の日になっているのだが、ことが終わって間もなく、おきみのことに伊兵衛の十代の頃のことまで考えてしまい、複雑な気分に苛まれた康二郎と違って、橋蔵はうっとりした目で「もう少しいたい」、「居残りたい」と言い出す始末だった。竜三郎もそんな橋蔵に呆れていた。

 伊兵衛に仕方なく相談を持ちかけた時は近場の安い岡場所のどこかを教えてもらうつもりが、

「この場合はやはりご公儀ご公認の吉原にするべきでしょう。今ではかつてほど高くもありませんしね」

 と手配され連れてこられたものだから、

 ――やはり岡場所にするべきだったぞ、これは……

 と、康二郎は思ったものである。


「笑いごとにしたいが、笑いごとでなくなっているよ」

「まだお若いお武家様が一度に二人も遊女を請け出そうというのは、確かに尋常ではありませんね。橋蔵様には何か深い事情がおありなのでしょう」

「惚れた云々ではない事情があるというのか?」

「はい。これまでに康二郎様から伺ったお話では、少々複雑なお人柄のようですし」

「俺が単純にできているから、余計にそう見えるかもしれないな」

「康二郎様は単純ではございませんよ。気性がはっきりしていらっしゃるだけです。複雑な気持ちも状況も、康二郎様は割り切って腹に収めておられる。人によってはそうは割り切れないものです」


 康二郎は「割り切って腹に収めて」いるつもりはなかったから、驚いて伊兵衛を見た。

 話をするために、この時の伊兵衛は康二郎とほぼ並んで歩いていた。わずかに後ろにいるだけだった。

 今では背丈も四、五寸(14cm前後)しか違わないから、間近に立たない限り見上げるということはなくなっている。


 伊兵衛は康二郎の驚いた視線を受け止めると、ふふふと笑った。初めて会った頃と変わらない、茶目っ気のある笑顔だ。

「三十の妻子持ちに見えない」とは、吉原へ向かう二日前に、橋蔵の部屋に「予習」に集まった時、竜三郎が伊兵衛を見て言った台詞だ。


 そう、三人は吉原へ行く前に枕草紙や経験談の伝え聞きによる「予習」をした。主に吉原について、ということだったが、竜三郎が言い出したことだ。

 実に竜三郎らしいと康二郎は思った。さらには、端から見たら小咄(こばなし)ネタだとも思ったが、一人だけ「予習」せずに吉原へ行き、万が一にもどこかでなにかしくじったら、それが最悪の事態だと、竜三郎の話に乗ることにした。


 康二郎は伊兵衛に隠し事はしないから、正直にこれは吉原へ行く「予習」の集まりだと打ち明けると、「何事も準備は大事でございますからね」と伊兵衛は笑いをこらえているらしい強張った真顔で言った。

 そうして康二郎が「何か気をつけることがあるか?」と()()()()を念頭に尋ねたら、「入れるところを間違えなければ大丈夫ですよ」とさらりと返してきたから油断ならない。

 時々本気か冗談かわからない言い方をして、康二郎を面食らわせたり、赤面させたりするのも相変わらずである。

 初めの頃は康二郎がどの程度そうしたことを知っているか、興味を持っているか、確かめるためだったらしいが、この頃には間違いなく面白がっている。


 人によっては、殊に武士となると、奉公人の軽いからかいや冗談を許せない人が多いかもしれないが、康二郎は伊兵衛のそうした言動を全く気にしていなかった。

 というのも、「武士の端くれ」という意識はあるものの、自分が旗本という意識は相変わらず低く、伊兵衛は自分より年上で武芸も遥かに優れているし、康二郎の方も伊兵衛に遠慮なくものを言っている中に、知らず無神経なことを口にしているに違いないと思っているからだ。

 つまり、お互い様という気持ちである。

 何より、康二郎は伊兵衛を信頼している。

 当初から伊兵衛の人柄を信頼していたが、壮絶な浪人との戦いで見せた姿に命の恩人と、康二郎の信頼はさらに深まり、その後も難しい場面や悩んでいる時に様々な形で康二郎を導き、支えてくれているから、この頃には和之助と甲乙つけがたいほどまでに、伊兵衛は康二郎にとって大好きな、大切に思う人間になっていた。


 準備といえば、吉原行きの前に伊兵衛は康二郎の好みを尋ねてきた。

 当日に顔見世で格子の向こうに座る遊女から選ぶのではなく、事前に相手の手配まで済ませると聞いた康二郎は、驚いて理由を尋ねた。

 伊兵衛は「康二郎様は素直すぎますから。それに表に出なくても、わたくしが関わったとあっては、相方のことにも目配りしないわけにいきません」と答えた。

  要するに、厄介なのを引っ掻けたり、厄介なのに引っ掛かったりしないための「目配り」だ。


 康二郎は自分の異性の好みを考えたことがなかったから、伊兵衛の問いにすぐには答えられなかったのだが、頭にはおきよ姐さんが久しぶりに浮かんできた。

「たぶん、おきよ姐さんみたいな人だ」

「康二郎様の好みはわたくしと似ているのですかね……」

 伊兵衛は戸惑っているような表情を見せた。その後には「まぁ、あまり好みに合いすぎて吉原通いされても困りますので……」と、ぼそぼそ独り言のように呟いていた。


 結局のところ、康二郎のお相手は、かつて見たおきよ姐さんと年齢は近くても雰囲気はほぼ真逆だったので、伊兵衛とその知り合いがどう咀嚼して引手茶屋や置屋に伝えたのか謎だったが、なんとなく遊女になって間もない女をあてがったのだと康二郎は思った。

 元武家の妻女のような気がした。



 ここ何年もの飢饉続きで年貢や給米は減少、物価は高騰し、小禄の旗本や御家人の中には困窮のあまり娘を吉原へ売る家もあると康二郎は聞いていた。


 そのうえ、昨秋には長雨から川が氾濫して江戸の多くの町が浸水し、それまでもかなり高かったのに、洪水以後の米価の高騰がまた激しかった。

 その状況に一部の米屋が囲い込みしているという噂が飛び交い、公儀からは有効な策が施されずにいる。

 そんな無策状態に陥っている大きな要因が、昨年の主殿守の老中の御役御免以降、公儀の上層部が陥っている政争だった。今も幕閣の中心を占めている田沼主殿守(とのものかみ)(意次)派と松平越中守(えっちゅうのかみ)(定信)を老中首座に押そうとする御三卿、御三家勢力との争いである。


 そんな間隙をついて積もりに積もった下層民の不満と怒りが爆発し、前月、皐月の終わりには五日間に渡って江戸のあちらこちらで激しい暴動が起こった。実際に襲撃を受けたのは米屋と御用達商人を中心とした富裕商家だったが、田沼主殿守が寺に預けていた囲米への襲撃も企てられていたという。

 そして、この騒動が結果的に政争に決着をつけたという話が、殿様から和之助を経由して康二郎の耳に入ってきていた。

 間もなく松平越中守が三十才という若さで老中首座に就任するらしい。


 殿様がそれまでの慣習を破って表右筆を経ずに勘定から奥右筆の職に就いたのは、主殿守の縁故からだと言われている野田家にとって、安穏としていられない状況である。殿様は御役御免を覚悟していると和之助は言っていた。

 そんな野田家が落ち着かない状況の中、もたらされた橋蔵の茶屋逗留だった。




 引き戸は開いていたから、「御免」と声をかけて康二郎は八嶋屋の敷居を跨いだ。

 ここに逗留している三枝橋蔵に会いに来たと康二郎が女将に告げると、そのまましばらく待たされた。

 女中だけでなく、置屋からやって来た遊女や芸妓も、入り口に立っている康二郎と伊兵衛を見比べながら通りすぎた。

 最近ではすっかり慣れていたが、伊兵衛が大柄な上に男前過ぎるから、自分もついでに注目されるのだと康二郎は思っていた。

 伊兵衛ほどでなくても、この時代にしては体格がよく目鼻立ちのはっきりした康二郎は、十分人目を引くということに気がついていない。


  やっと戻ってきた女将に康二郎が案内されたのは、二階の一番奥にある部屋だった。

 伊兵衛は階下の縁台に腰かけて待っている。きっと次から次へと女中たちが現れては何かと世話を焼いていくのだ。今では見なくてもだいたい何が起こるかわかっていた。おかげで待たせることをあまり気にしなくていい。ここに長居するつもりはなかったが。


  女将は障子を開けずに外から康二郎が会いにきたことを告げ、階下へ戻っていった。

 あとに一人残された康二郎は、障子を開けるのを少し躊躇(ちゅうちょ)した。一度、深呼吸をした。


「橋蔵、入るぞ」

 さっと開けた障子の向こうに見えたのは、窓際に片膝立てて座っている、着流し姿の橋蔵だった。傍には銚釐と盃を載せた膳が置かれている。

「よう、久しぶりだな」

 康二郎を見た顔は、いたって嬉しそうだった。


 康二郎がわざわざ回向院前まで出向くなど三枝家の差し金なのが明らかで、嫌がられるのではないかと思っていたから、康二郎はやや拍子抜けした。

「お前のおかげでこんなところまで来る羽目になったよ」

 橋蔵の自分に向けられた変わらぬ笑顔に、康二郎はつい軽口を叩いて部屋に足を踏み入れた。

 女に気がついたのは、その時だった。しかも視線を感じてそちらを見たら、そこに美しい遊女がいたという順番だった。豪華な簪を差し、打ち掛けを着ていた。帯は前で締めているものの、着崩してはいない。話に聞く、花魁のような姿だ。

 女は驚いた顔で康二郎を見つめている。


  康二郎はその顔を見た時、前に見たことがあるような無いような……と、ぼんやりした覚えしか湧いてこなかった。

「……康ちゃん?」

 女の方が康二郎を過ぎ去った十年近い年月にも関わらず認めた。

 考えてみれば、大抵の男は化粧をしていないから、幼い頃の面影を見つけやすいのだろう。化粧は女を変える。

 康二郎は茫然と女の顔を見つめ返した。

「まさか……おきみ?」









 

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