第四章 天明七年 晩夏~初秋 (三)
女は恥じらいの色を顔に浮かべ、視線を落とした。
「康ちゃんは立派なお侍様になったね……」
今度は康二郎が女の顔を凝視し続けた。
――何故もっと早く思いつかなかったのだろう!
康二郎は自分の鈍さを呪った。
橋蔵は五百石の旗本の当主である。室生屋にとっては上客の一人だ。橋蔵が請け出したいという気に入った遊女の一人はおきみかもしれないと、なぜ思わなかったのか。
自分を「康ちゃん」といきなり呼んだのだからおきみに違いないのだが、化粧のせいで、康二郎には目の前にいる女と記憶の中のおきみがまだしっかりとは結びついていなかった。
「おきみこそとても綺麗になって、すぐにはわからなかったよ」
――いや、今でも半信半疑だ。おきみだとわかったとは言いがたい。
化粧を落として素顔を見せてくれないかとも言えず、室生屋にいると知りながら、これまでこの辺りに来ることすら避けていた悔いと後ろめたさが湧き起こり、康二郎は言葉が続かなかった。
おきみも複雑な気持ちに揺れ動いているらしく、再び顔をあげた後は、ただ康二郎を見つめてきた。
「康二郎は揚羽と知り合いなのか」
橋蔵の声がして、康二郎は後悔と後ろめたさの渦にはまりこんでいたところから、現に戻された。
「揚羽?」
「ここでは揚羽と呼ばれてるの」
おきみが恥ずかしそうに教えた。
「気に入ってるのか?」
微かに首を横に振った。
――俺は何を聞いてるんだか。遊女としてつけられた名前が好きなわけないだろう。
康二郎は自分の鈍感さに頭を抱えた。
「俺は本当に鈍いな……昔からだけど」
「それが康ちゃんの良いところだよ」
康二郎は顔をあげておきみを見た。
「鈍いのが俺の良いところだって?」
「言い方が悪かったね。鈍いんじゃなくて、余計なことは気にしないの。ほら、こんなあたしも康ちゃんはまっすぐ見てくれるもの」
「……真正面に座って顔を見たら、そりゃまっすぐ見るだろう」
おきみは吹き出した。
後ろから橋蔵の笑いも聞こえた。
「なんだよ、二人とも!お前たちが仲いいのはわかったよ」
「康ちゃん、変わらないね。ほんと変わらない……」
笑っていたおきみが急に後ろを向いた。
泣いているのだと、これは鈍感な康二郎にもわかった。
――やはり辛かったのだ。橋蔵に請け出してもらえば、この暮らしから抜け出せる……
問題は、橋蔵が請け出したいという遊女がおきみ一人ではないことだ。普通に考えると、請け出した後は妾として囲うつもりだろうが……
――もう一人は誰だ?
橋蔵に聞かないといけないことが山ほど出てきた。言いたいことも山ほど出てきていた。
おきみが後ろを向いている間に、康二郎は橋蔵の前に座り直した。
「橋蔵、お前、一気に二人を請け出したいと言ってるらしいな。二人とも妾として囲うつもりなのか?」
「飲むか?」
橋蔵は銚釐を康二郎の顔の高さに上げて見せた。
「要らん。俺が尋ねたことに答えろよ」
「……もちろんそうするつもりだ」
「どちらも同じように好きなのか?」
「二人とも気に入ってるが、同じように好きなわけではない」
橋蔵は窓の外に視線を移して言った。
「二人はそれを承知で請け出されるのか?」
思わず康二郎はおきみを見た。
おきみは康二郎の視線をはずすように俯いていた。
「たぶん」
「たぶん?ちゃんと話していないのか?」
「双方、思惑あってのことだ」
「お前の思惑とは何だ?」
「つまらんことを聞くな。決まってるだろ」
「それは理由のごく一部に過ぎないのではないか?俺は騙されないぞ。おい、俺の顔を見て話せよ。本当の、一番の思惑は何だ?」
康二郎は窓の外を眺め続ける橋蔵を睨みつけた。
「雨が降ってきたぞ」
橋蔵は康二郎に顔を向けることなく言った。
康二郎の耳にも雨音が聞こえた。だが、雨で話をそらされてはいけない。
康二郎も嘘は苦手だが、橋蔵も苦手なのだ。相手の顔を見て嘘はつけない。
「橋蔵、外ばかり見てないで、こっちを見ろよ」
橋蔵は窓の外に顔を向けたまま、呟くように言った。
「俺の産みの母親は女郎だ。しかも岡場所の中でもかなり場末の方にいたらしい」
康二郎は少し驚いた。だがそれほど驚きはしなかった。
「だから、どうしたというんだ。女郎上がりを妾にしている旗本など、それほど珍しくないだろう。女中に手を出すより良いと俺は思うがな」
橋蔵はここでやっと康二郎の顔を見た。
「なぜそう思う?」
「女郎なら、はじめからそのつもりじゃないか。お互い承知の上だ。だが女中は違う。女中は殿様の慰みものになるために屋敷へ上がってはいない。中にはそれを見込んでいる者もあるかもしれないが……お互い承知でことが進む場合も中にはあるだろうが……」
康二郎の頭には少し前から野田屋敷で勤め始めたりつという十六才の女中が浮かんでいた。どうも康二郎に色目を使ってきている気がするのだが、康二郎は女中には絶対に手を出さないと誓っていたし、そもそも好みでもなかったから、おりつの視線や素振りを鬱陶しく感じていた。しかもおりつはおみつの後釜、奥様付きなのである。噂を立てられただけで康二郎の身が危うくなる。
「お前の母親は殿様に無理やり手篭めにされたと思っているのか?」
橋蔵は驚いていた。
「わからない……そうではないと思いたい……けれど、俺を身籠った結果、野田の屋敷にいられなくなったんだ。奥様の悋気にあって……あげくは一人で俺を育て、二十代半ばで死んでしまった……」
康二郎は涙が滲んでくるのを必死に止めた。
「俺のおっかさんの話はいいよ。俺が言いたいのは、好きで女郎になった女はまずいないだろうということだ。それぞれに仕方のない理由があって、やむを得ず女郎になったのに、好き勝手言う世間はともかく、息子のお前がその事を卑下するのはおかしいと思うだけだ」
「好きで女郎になったのではないなら、そうだろうな」
橋蔵は笑っていた。
「いくつか勘違いしているようだから正すと、俺の産みの母は、囲われてないぞ。金を渡して俺と妹を引き取り、後はおさらばになったらしい。妾にもできない女だったということさ」
「なんで場末の女郎が三枝の先代の殿様と知り合い、お前と妹御を産むことになったんだ?」
「きっかけは知らん。父上は誰にも何も申されず逝ってしまわれた。まさか子が産まれるとは思わず、生まれても自分の子ではないだろうと、初めは信じていなかったらしい。無理もない。毎日違う男とやってるんだからな。女は信じないなら子供を見に来いと言ってきた。
そこで仕方なく父上を子供の頃からよく知る、あの用人の久右衛門が見に行くと、確かに子供は……俺のことだが、父上の子供の頃によく似ていて、久右衛門はたまげたらしい。奥方との間に子が生まれないと嘆いていたからな。
次には父上の母親、祖母がこっそり見に行って、やはりよく似ているとなり、日数もほぼ合致すると、信じないわけにいかなくなったらしい。
傑作なのは、自分の子を産んだと聞いた父上が女と久しぶりに会い、半日一緒に過ごしたら、その九月後に妹が生まれたことだ」
「……まぁ、そういうこともあるんだろうな。相性がいいというのか……」
康二郎には他に答えようがあるわけない。
「記憶に微かに残る産みの母は、康二郎の『おっかさん』とは大違いで、ほぼ毎日、男を家に入れていたよ。俺は邪魔だから、その間は近所の婆さんに預けられていた。今から思うと、その婆さんもかつては女郎だったんだろうな」
「それも母子が生きていくためではなかったのか?お前を育てるために……」
「俺は良い金づるだったからだよ。俺を産む気になったのも三枝の殿様の種かもしれないと思ったからだ。でなきゃ堕ろすか、間引きしていただろう」
「……すまん。俺は頭が悪いから、それと今度の一気に二人請け出すことの思惑に全く結びつかない。そんな母親を持つから、自分は色を好むのだという展開にしても、だ。それと今、遊女を二人請け出すことは、また違うだろう?ましてや、さるお旗本のご息女と縁談が進んでいるというではないか」
そう言った時、康二郎は心の内では「あっ!」と叫んでいた。橋蔵の狙いが、本当の思惑がわかったのだ。
「縁談を潰したいのか!」
橋蔵の顔がニヤついた。
「縁談を潰す、それが目的か!呆れたな!」
「俺は上品な女は苦手だ。正妻など迎えても飾りになるだけで、相手に気の毒だ。だが尋常に話しては納得してもらえなくてな。俺だけでなく、相手のためにもやっていることだ」
橋蔵のニヤニヤ笑いは続いている。
「おきみのことは本気なんだろうな?本気で惚れてるんだろうな?縁談を潰す道具ではないよな?」
康二郎は橋蔵を睨みつけていた。これでは道具だとは絶対に言えない雰囲気だが、
「揚羽には本気で惚れてる。お前の知り合いとは知らなかった」
と答えた橋蔵の頬に赤みが差した。
「おきみは幼馴染みだ。棟割長屋で暮らしていた頃の。俺には大事な幼馴染みなんだ。何もできなかったけど……」
「康ちゃん?」
おきみの驚いた声がした。
「橋蔵、本気でおきみに惚れていて、妾として末長く囲うつもりなら、三枝のお屋敷へ戻れ。ちゃんと母君に本音を話せ。二度お会いしただけだが、あの母君は話のわかるお人だ。素晴らしい母君だ。こんな駄々をこねたようなやり方はよくない。皆が傷つくだけだ」
橋蔵は怪訝そうな顔をした。
「橋蔵、お前はあの母君のことが大好きなのだろう?昔、自分は母が亡くなったら立ち直れないと言った『母』とは、お前と妹御を育ててくれたあの母君のことだろう?だからこそ、自分で感じている自分の性根が、母君の期待にこたえられない自分が辛いのだ。違うか?」
橋蔵は再び窓の外を向いた。
「あのお方はお前を心から大切に思っているよ。お父上の通夜の日にぼんやりしているお前を支えながら次の当主として弔問客に会わせ、これからのことを頼んでいる姿に俺は感動した。旗本の奥方にこんな方がいるのだと。いや、このような人こそ、真の旗本の奥方なのだろうと。あのお方は俺なんかにもお前のことを頼んできた。俺も竜三郎も小身旗本の次男、三男だから、こんなのが友人かと、疎ましがられるのではないかと思っていたのに」
康二郎は次の言葉を口にするのに間を置いた。言って良いものか、土壇場でためらった。橋蔵を本気で怒らせるかもしれない。
――いや、怒らせるかもしれないからこそ、言わないわけにいかない……
康二郎は橋蔵の顔から視線をはずさず、告げた。
「お前は母君に甘えているんだ。自分への気持ちが本当かどうか確かめているんだよ。幼な児がやるように」
橋蔵はきっと康二郎を睨み返してきた。
康二郎はその睨みを受け止めた。自分の見方は間違っていないと思っていた。伊達に十年近く橋蔵と友達付き合いをしていない。
橋蔵は寂しがり屋で、いつもどこか不安な気持ちを抱えている。康二郎もどこかに不安な気持ちをずっと抱えているから、その点はよくわかるのだ。
「橋蔵、おきみを不幸な目に遇わせたら、許さんからな。お前であっても、だ。おきみのためにも屋敷へ戻り、母君にちゃんと気持ちと考えを伝えろ」
そのあと康二郎と橋蔵はしばらく黙って睨みあった。
ふっと橋蔵が笑った。
「康二郎には敵わないなぁ。普段はすっとぼけているし、何かと鈍いのに、切り込んでくる時は一番鋭い。深いところまで一気に切り込んでくる。恐ろしい奴だ」
橋蔵の目が笑いを消した。
「揚羽が言っていた、若くして亡くなった幼馴染みの母親の、綺麗な目をした女の人とは、康二郎の母君のことだったんだな……お前に姉妹がいないのが残念至極だ」
言い終えると、橋蔵は声を出して笑った。
「急に何を言い出すんだ?」
「お前の母君に会いたかったなぁ……」
「おい、頭、大丈夫か?」
「大丈夫だとも。半分はな」
――兄上といい、伊兵衛といい、橋蔵といい、どうして俺をからかいたがるんだ……
おきみをここから出して、必ず幸せにしろよと語気強く言って、康二郎は立ち上がった。部屋を出る前におきみの前にしゃがんで言った。
「橋蔵と幸せにな。彼奴は心根の優しい奴だから、大丈夫だと思っている」
おきみは何か言いたげだったが、結局は頷いただけだった。
部屋から一歩出た時に、後ろから声がした。
「康ちゃんも幸せにね。祈ってる」
「ありがとう」
康二郎は振り向かずに一言返すと、後ろ手に障子を閉めた。
平気な振りをしていたが、気持ちはとてつもなくざわついていた。
――こんなに乱れるなんて、俺は……おきみのことが好きだったのか?
橋蔵が請け出そうとしている、もう一人の遊女のことを聞き損ねたことに気がついたのは、階段を降りかけた時だった。
――俺は何をやってたんだ?
自分に呆れた。
どっと疲労を感じながら階段を降り始めたその時、突然視界に女中が入ってきた。大柄でふくよかな女だった。呼び止められたか、料理を載せた膳を手に、顔は階下に向いていた。
康二郎は急に止まることができず、女中も康二郎に気づかず、いきなり階段を上り始めたものだから、両者は思い切りぶつかった。
狭い階段では康二郎に避けようがなかった。とっさに女中をかばいつつ階段を転げ落ちた。
救いはこの時代の階段としては、それほど傾斜がきつくなかったことだ。
一番下まで落ちた時、ちょうど康二郎が上になっていたから、女中を下敷きにしてしまうのを避けようと両手を床について自分を支えた。
グシャッと嫌な音と痛みが右手に走った。
よりによって女中が落とした陶器が割れて散らばった場所に手をついてしまったらしい。
「康二郎様!」
色々な悲鳴の中、伊兵衛の自分を呼ぶ声がはっきり聞こえた。




