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第四章 天明七年 晩夏~初秋 (一)

第四章の始まりは第三章の終わりから三年後。康二郎は数えの十九の満十七歳、和之助は数えの二十二で満二十一歳になっています。三年の間に起きたことを時々振り返りつつ、話は進んでいきます。



 

「これは和之助様に。これは康二郎殿に」

 和之助の新妻、若奥様の須美(すみ)が康二郎の前に広げたのは、納戸色(なんどいろ)(緑がかった藍色)の(つむぎ)の単だった。

 和之助には柳色(薄い白みがかった黄緑)の地の紬だ。

 須美いわく、和之助は淡い色が似合い、康二郎は濃い目の色が似合うのだという。


義姉上(あねうえ)、この前いただいたばかりですよ。どうかお気遣いなく。紬など私にもったいないですし、そもそも私は木綿が好きなのです」

 康二郎は目の前に置かれた義姉自ら縫った単に手を出すことすらためらわれていた。こんなに気遣ってもらうことに戸惑っていた。


「この前などと……三月(みつき)も前ではありませぬか。夏は汗をかくのですから、数が必要でしょう。夏の絹の着心地は木綿とは違います。この紬を着て今度の増上寺参詣へ一緒に参りましょう」

 須美はいくぶん身をのりだし、笑顔で康二郎を誘ってきた。断れない雰囲気である。


 須美の顔立ちは、和之助の予想通り、母のお松と似たところはなかったが、また違った美しさがあり、気性的には少し似ているところがあると、康二郎は感じていた。一見ではしとやかな、おとなしそうな立ち居振舞いだが、心にはお松と同じような強さがあるに違いないと。康二郎に見せる気遣いも一貫している。


 須美は数えでは和之助の一つ年下の、元は禄高三百五十石、この時には四百石の払方納戸組頭であった塚原佐源次(つかはらさげんじ)の三女で、前年の春に野田家に嫁いできた。初めて顔合わせした時にも康二郎への好意と気遣いが見えたが、その後、一段と康二郎へ気遣いを見せるようになった。

 兄二人に姉二人、妹一人の須美は、自分に弟ができて嬉しいのだと言うが、本当の動機は違うところにあるらしい。

 和之助との婚礼で康二郎が宴の席に呼ばれなかったことにずいぶん立腹していたという。

 康二郎自身は、奥様と同じ座敷になど万が一金をやると言われても居られるものかと思っていたから、腹が立つどころか喜んで裏で立ち働いていたのだが、異母兄も含めて六人仲良く一つ屋に育った須美には、考えられない仕打ちだったらしい。

「たった一人の弟御なのに……まして幼い時に母御を亡くされて……」

 和之助から事情を聞かされた須美は涙を流したという。

 和之助にも言い含められ、義母の前では康二郎に触れないようにしているそうだが、その反動か、裁縫好きの須美は、和之助の着物と交互にせっせと康二郎の着物を縫うことで康二郎に対する気持ちを表明し、義母への不満を解消しているらしい。


 木綿か麻を着ている康二郎だが、かつては着ようと思えば、和之助の絹や紬のお下がりを着ることができた。

 だが、今では和之助より一寸近く背が高くなっているだけでなく、剣術を始めとする武芸に打ち込んできた結果、肩幅や身体の厚みも一回り大きくなってきているため、お下がりで間に合わすことが難しくなっていた。

 そのうえまだ背が伸び続けていたから、手持ちの着物はどれも少々短めになり、丈夫な木綿や麻の着物もみな、どこかが擦りきれている。

 したがって、須美が着物を縫ってくれるのは、本音でありがたかった。

 本当にありがたいとは思うのだが、自分なんかにあまり気を使わないでほしいと康二郎は思っていた。自分に気を使うより、奥様と仲良くやってくれる方が康二郎にはありがたい。


「奥様はこの事をご存知なのですか?」

 康二郎は納戸色の単を見ながら須美に訊ねた。

「いいえ。和之助様の単を縫っているだけだと思っていらっしゃいます」

「ばれませぬか?」

 思わず紬から須美の顔に視線を戻して康二郎は尋ねた。

「わたくし、縫うのが早いので、大丈夫です。黙々と縫っておりますと、嫌なことや余計なことを考えずに済みますしね」

 須美の笑顔にはどこか無理が感じられた。

 和之助とは仲睦まじい様子を何度も見かけているから、やはりあの義母に気疲れしているのだろうと康二郎は思った。

 ではありがたく……と礼を言い、単を抱えて立ち上がったとき、門の方から濡れ縁に近づいてくる足音がした。伊兵衛だと足音でわかる。


「康二郎様、三枝家のご用人様がお見えです」

「俺に会いにか?」

「はい。橋蔵様のことでご相談があるとのことでございます」

「わかった。用人部屋へ通してくれ。すぐ行く」

 承知しましたと踵を返した伊兵衛を見送りながら、康二郎は首を傾げていた。

 ――わざわざ三枝家の用人が俺に会いに来るとは、橋蔵にいったい何があったのだろう?


 橋蔵とは五月(いつき)前に会ったきりだった。その五月前には短期間に三度会ったが、その前となると、これまたさらに五月前だ。

 三枝家の当主だった父親が二年前に急死し、家督を継いだ橋蔵の忙しさを思い、この二年間に会ったのは、父親の通夜を含めて六度しかない。

 どうしているか気にはなっていたが、何かあれば橋蔵の屋敷近くに住む竜三郎から知らせがあるだろうと思っていた。



 玄関脇の用人部屋に畏まる三枝家の初老の用人、信楽(しがらき)久右衛門(きゅうえもん)の顔は青ざめ、前に見たときよりやつれていた。康二郎とは先代の通夜で短く言葉を交わしていた。


「信楽殿、久しぶりでござる。橋蔵殿とはしばらく会っておらぬが、息災であろうか。橋蔵殿のことで相談があるとのことだが……」

 康二郎は穏やかに話しかけながら、信楽の前に座った。

「その、橋蔵様のことでございまする」

「橋蔵殿がどうしたのだ?」

 久右衛門はどう切り出したものか迷って見えた。

「実は、お屋敷にお戻りになりませぬ。ある茶屋に逗留されたきりで、もう一月(ひとつき)も……」

「茶屋に一月も逗留しているというのか?どこのなんという茶屋だ?」

 茶屋に一人で逗留しているとは考えられないから「女」だろうとは思ったが、次の久右衛門の言葉に康二郎は驚かずにいられなかった。

「回向院前の八嶋屋(やしまや)でございます」


 八嶋屋という茶屋は室生屋の近くだと聞いていた。つまり室生屋から遊女を呼べる引手茶屋のひとつだ。三枝家は麹町の近くだから、回向院まで出掛けているのにも驚く。


「……私に何をしろと?」

「橋蔵様をお屋敷にお戻りになるよう説得していただきたいのでございます」

 久右衛門は畳に手をついて言った。

「私の説得を聞くかどうか……小尾竜三郎殿は尋ねてみたか?」

「はい。それが竜三郎様はちょうど銚子へお出かけとのことで」

「銚子へ?」


 銚子へ何しに行ったのかと、康二郎はこれまた驚いた。二百俵の旗本の三男坊である竜三郎は、自身の将来について色々考えていることは知っていたが、銚子とは結びつかなかった。物見遊山という場所でもない。


「実はその……なんと申しますか……」

 なんとも煮えきらない信楽の話し方である。

「事情を正直に話してもらわねば説得などできませぬぞ」

 康二郎のほうが苛立ってきた。

「は……実は、遊女を二人請け出したいと申されまして……ご正妻も迎えぬ前にそれはならぬと大奥様が反対されたものですから、そのままお屋敷を飛び出されて……」

 康二郎は頭の中で事情を整理しなおすのに時がかかった。

「遊女を二人、一時(いっとき)に請け出したいと?」

「はい」


 橋蔵が言い出して、橋蔵、竜三郎、康二郎の三人が「初体験」と、伊兵衛の知り合いの口利きで吉原へ出かけたのが、前回会った五月前のことである。

 言い出しただけあって、三人の中では一番女好きだと思っていたが、まさかこのわずか五月、いや、一月茶屋に逗留する前からだから、わずか四月(よつき)足らずの間に、二人の遊女を一気に請け出そうというまで馴染みにしたとは、康二郎には呆れるばかりの橋蔵の好色ぶりと元気さとマメさである。

 ――やらないといけないことが山ほどあるだろうに。小普請組の当主となると、そうでもないのか?


 呆れた気持ちをなんとか隠し、康二郎は確認した。

「母君も請け出すこと自体には反対されておらぬのだな?時期が悪いというだけで。もう少し待てということで」

「はい。今、さるお旗本のご息女とのご縁談が進んでおります」

「『少し』といっても数年は待たねばならない話だとは思うが……」

 そもそもこのテのことは康二郎の大の苦手である。うまく橋蔵を説得できるとは思えなかった。

「どうかお願いいたしまする。康二郎様なら橋蔵様もお会いになるでしょう。わたくしでは会ってもくださいませぬ」

 康二郎はこの時橋蔵のことだけでなく、おきみのことも考えていた。

 ――八嶋屋へ行けば、ひょっとしたらおきみに会えるかもしれない……


 会うことが良いのかどうか分からず、会いたいものの、会って何を言えばいいのかわからず、これまで回向院近くへ行っても、岡場所はもちろん、茶屋に入ることすら康二郎は避けていた。

 これは茶屋へ行く立派な理由になる。

 伊兵衛から聞いた話では、おきみは今では室生屋の看板女郎になり、上客のみを相手にしているらしい。室生屋の狙い通りである。


「承知した。説得できるかどうかはわからぬが、とにかく一度橋蔵殿に会ってみよう」

 信楽久右衛門は康二郎の言葉に何度も深く頭を下げ、くどいほど礼を繰り返したあとで、やっと立ち上がった。







 

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