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第三章 天明四年 春 (十九)

 

 康二郎からは伊兵衛の前に三人の男が見えていた。一人は三十前後に見える中肉中背。残る二人はどちらも四十くらいに見え、六尺近い背丈だったが、一人はいくらか恰幅良く、もう一人は皮と骨のような、貧相を越えて不気味さを感じさせる男だった。


 康二郎は、三人の中では不気味さを漂わせる骨と皮のような痩せた男が一番手強い気がした。同時に三人とも康二郎が敵わない相手だと感じた。少しでも伊兵衛の助太刀ができたらと思った。


「噂には聞いていたが、噂以上の腕前だな」

 恰幅がある方の四十くらいの男が口を開いた。

 それからゆっくりと刀を後ろに引いた。一刀流の下段の構えより更に低い独特の構えだが、太刀筋を見せないための工夫と思われた。

  あとの二人はひとまず恰幅がある方の大男の戦いぶりを見守るつもりらしい。


 伊兵衛はきっちりと青眼に構えた。

 伊兵衛は自分の剣術を色々なものの混ざった我流だというが、康二郎の目にその刀捌きは一刀流の正統派に見えていた。

 勝負は一瞬だった。

 浪人の下からの鋭い斬り上げを伊兵衛はなんなく鎬を当ててそらし、次の瞬間には相手の腹から肩へと下から斬り上げていた。

 見事というしかない。

 伊兵衛は崩れる浪人を冷ややかに見下ろしたと思ったら、その手から刀をもぎ取った。

 今の深い斬り上げで康二郎の刀は刃こぼれしたか、斬れにくくなったと判断したのだろう……と、康二郎が思った瞬間、伊兵衛が振り向きざま刀を振るった。キーンと金属音が響いた。

 ――伊兵衛は後ろにも目があるのか?


 まだ康二郎の耳に金属音が響いている間に伊兵衛は倒れている浪人を飛び越え、相手との間を開けた。

 すぐさま骨と皮だけの浪人が上段に構え直しながら倒れた仲間を飛び越え、また伊兵衛に襲いかかった。

 伊兵衛は後ろへ跳んでなんとか振り下ろされる刀を避けた。これまでと違って交わす動きを攻めに繋げられていない。

 痩せぎすの浪人は驚きの早さで間を置かずに次から次へと刀を繰り出してくる。この痩せた身体でこれほどの力を見せるのが康二郎には驚きだった。

 伊兵衛は防戦一方に見えた。

 ギリギリで刃を交わし、弾き返すだけで、相手に斬り込んでいくことをしていない。


 手に汗握って戦いを見守る康二郎の視界の隅でいつの間にか中肉中背の浪人が位置取りを変えていた。

 ――まさか、挟み撃ちにする気か?

 康二郎はじっとしていられなくなり、伊兵衛との約束を破って路地から出た。

 そこで康二郎ははたと気づいた。

 ――骨と皮だけのような浪人は、めったやたらに斬り込んでいるようで、伊兵衛を中肉中背が待ち受けている場所へ追い込んでいるのではないか?どうする?どうしたらいい?

 その時、康二郎に一番近かったのは、痩せぎすの浪人だった。

 ――倒せなくとも邪魔ができればなんとかなるのではないか。

 康二郎はそっと痩せぎすの浪人に後ろから近づいた。


 伊兵衛が苦戦しているのだから、康二郎の敵う相手ではない。伊兵衛を助太刀するため、康二郎は浪人が伊兵衛を追い詰めたと思う瞬間に賭けることにした。

 手練れに二方向から仕掛けられてはさすがの伊兵衛も避けきれないだろうが、一方向を狂わせることができれば、それも強い方を狂わせることができれば、伊兵衛はこの急場を乗り切れるに違いない。

 問題は中肉中背の浪人だ。康二郎の動きが視界に入るだろう。

 手に汗握りながら斬り合いを見守る風を装い、康二郎は痩せぎすの浪人の斜め後ろから、わたわたと近づいた。真後ろから近づくより、その方が警戒されないのではないかと考えて、だ。

 手に汗握っているのは本当なのだが、冷静に状況を見極めようとしていることを悟られないよう、康二郎は気をつけた。


 ところが康二郎の動きに真っ先に気がついたのは伊兵衛だった。伊兵衛は康二郎が痩せぎすの浪人の二間程後ろまで近づいたところで、顔色を変えた。

  その顔色の変化に痩せぎすの浪人が康二郎に気づいてしまった。顔を少し康二郎側へ向けた。

  康二郎は一か八か、痩せぎすの浪人に木刀を投げた。

 痩せぎすの浪人は軽々と木刀を避け、その動きで何かを康二郎に向かって投げた。

 次の瞬間、浪人が呻いた。ほぼ同時に何かがぶつかる音も聞こえた。

 伊兵衛は痩せぎすの侍が康二郎に気を取られた隙を逃さなかったのだ。

 痩せぎすの浪人に伊兵衛はピタリと身を寄せ、刀を左の脇腹に突き刺していた。

 もう一つの音は、伊兵衛が左腕で痩せぎすの男の拳を掴み、中肉中背の男が振り下ろしてきた刀を弾いた音だった。

 康二郎は目にしたことが信じられなかった。


 痩せぎすの男は伊兵衛に抱きつくように倒れた。いや、わざと抱きついたと康二郎は思った。

 ――伊兵衛の動きを封じて、中肉中背の侍に討たせるため?


 自分に抱きついている痩せぎすの男をそのままに、その手から伊兵衛は刀をもぎ取り、中肉中背の二手をまた弾いた。

 なんとか中肉中背の攻撃を防ぎながら、伊兵衛は痩せぎすの男を振りほどこうとしている。しかし、痩せぎすの男は刀を奪われた右手でも伊兵衛の肩を掴んできた。


 康二郎は地面にしゃがみ、掴めるだけの土や小石をつかんで中肉中背の男の顔めがけて投げた。なりふりなぞ、構っていられない。伊兵衛が痩せぎすの侍を振り落とすまで、中肉中背の侍の邪魔をしなければと必死だった。


 伊兵衛は痩せぎすの男を中肉中背の侍に向けた。先ほどと同じように、盾にするつもりらしい。しかし、刀の長さからしたら、痩せぎすの侍は盾になるどころか、むしろ伊兵衛の枷となってまとめて串刺しにされかねない。


 ――伊兵衛を助けなければ!

 その強い思いのうちに、康二郎はほとんど無意識に脇差を抜いていた。

 本来は片手で構える脇差を両手でしっかり握ると、伊兵衛に当たらないよう注意を払いつつ、渾身の力で痩せぎすの浪人の肩に斬りつけ、引いた。同時に叫んでいた。

「伊兵衛を放せ!」

 腕が肩から離れたのに、痩せぎすの浪人は悲鳴をあげることがなかった。意識はほとんどなかったらしい。


 康二郎はすぐに反対側へ移動した。視界に中肉中背の侍が入った。刀を横向きに顔の横で構えていた。

 康二郎は考えるより先に、その男に向かって脇差を突き出していた。伊兵衛の影から突然刃が出てきた形だろう。

 中肉中背の男も同時に刀を突き出していた。

 その攻撃を伊兵衛は片手で握る刀でなんとかそらし、康二郎の突き出した脇差は中肉中背の男の腹に深々と突き刺さった。

 康二郎に知識はなかったが、肝の臓を貫いていた。脇差を抜こうとしたら、伊兵衛が止めた。

「抜いてはいけません。大量に返り血を浴びます」

 伊兵衛はどこまでも冷静だった。


 中肉中背の男は口から血を吐いて倒れてきた。

 伊兵衛は片手でも己にしがみついていた痩せぎすの男の手を形から剥がすと、同時に膝蹴りで突き放し、倒れてくる中肉中背の男にぶつけた。

 死にかけた者同士の壮絶な姿が交差した。


 その時、康二郎を寒気と強烈な吐き気が襲った。吐き気をこらえることができなかった。うずくまり、げえげえと吐いた。

 何人も斬り殺されるのを見たのみならず、自分の身を守るため、伊兵衛を助けるためとはいえ、自分が人を斬り殺したことに気分が悪くなったのだ。


 伊兵衛が康二郎を後ろから支えるように抱えた。

「お見事でした。泰平の世に、初めての真剣での戦いに怯まず、最後にはわたくしを助けてくださった。康二郎様は、思った通り、武士の中の武士」

 康二郎は吐くものがもう胃の腑に残っていないのに、止まらない吐き気にえずきながら、伊兵衛の言葉を聞いた。



 その後には、騒ぎを聞きつけてやって来た町役人、町方の同心と岡っ引きに、康二郎はおおよその経緯を説明した。

 多勢に無勢のうえ、相手が全員浪人で、中に悪評高い輩もいたため、町方の人々の対応は穏やかで親切だった。

 伊兵衛が頼むと、岡っ引きの親分は快く下っ引きを古着屋へ着替えを買いに走らせ、康二郎と伊兵衛は近くにあった町役人の家で返り血を浴びた着物を着替えることができた。

 だが、親切だった親分が伊兵衛を見る目つきが康二郎はどうにも気になった。

 最後に康二郎には丁重な礼をして見送った親分だったが、その直後に伊兵衛を見た目つきには気分を大きく逆撫でされた。


 へとへとだったが、康二郎は親分の目つきが頭から離れず、屋敷に帰りつくまでに伊兵衛に何度か確かめようとした。しかし、見事にはぐらかされ続けた。

 疲労困憊で、うまく頭が働かない。それでも、言うべきことは言わなければと、康二郎は野田屋敷を目前に伊兵衛に言った。

「今回のことは俺を守るためだったんだ。伊兵衛は何も悪くない。あの岡っ引きが何を言ってきたって、気にすることはないんだ。無茶を言ってくるようなら俺に回してくれ」

「何をご心配なさっているのやら。あの親分とは十年近く前から知り合いですし、どうってことはありません」

 そう言って伊兵衛は薄い笑みを浮かべた。


 ――どうってことはありません?何もないではなく、どうってことはない?

 そう答えた時の伊兵衛の微笑みは、諦めの微笑みだと、康二郎は思った。

 何を諦めているのか。康二郎はその答えと微笑みが腹立たしかった。悲しかった。


 ――俺は伊兵衛に助けてもらってばかりだ。俺に伊兵衛を助けることはできないのか?あの親分の目は、あれは……あの目は……なんて嫌な目つきだったろう!あの目に似た目を前にも見たことがある……あ!三千石の穀潰しだ……ヤツもあんな目で伊兵衛を見ていた……


 伊兵衛は最後に自分を助けてくれたと言ったが、そもそも狙われていたのは自分なのだから、当然のことだと康二郎は思っていた。もっと自身の力で浪人どもを退けたかった。あんな目で伊兵衛を見た親分を殴りたかった。

 ――そんな目で伊兵衛を見るな!

 喉元まで出かかりながら言えなかった一言が、康二郎の喉にしこりのように留まっていた。




 その日、殿様の帰りは深夜近くになるという報せがあったため、康二郎と伊兵衛は、十一人もの浪人の襲撃を和之助にだけ報告し、殿様には報告することなく、それぞれの店へと下がった。


 翌朝、目が覚めたとき、康二郎は、卓之助達に雇われたとしか思えない浪人どもを一網打尽に倒したことで、これで厄介ごとは終わったのではないか、和之助の婚姻といい、これからしばらく良いことが続くのではないか、あの親分の目つきが気になったのも壮絶な戦いの余韻のせいだったのではないか、そんな気持ちが湧いていた。


「田沼山城守様(田沼意知)が城中で斬りつけられて大怪我を負ったそうだ」

 それが、康二郎が朝食後に和之助から聞いた、殿様の帰りが遅かった理由だった。

 驚きはしたが、このときの康二郎の驚きは、単純に上層の、有名な人物が斬りつけられたという驚きに過ぎなかった。


 この時点では、色々不満が巷に渦巻いていても、政権が大きく変わるとは、康二郎だけでなく、多くの人が思っていなかった。

 この事件を政権交代に向けての重要な出来事、契機のひとつと考えるのは、後世から遡っての見方だ。

 山城守は事件の二日後に亡くなり、斬りつけた佐野善左衛門は翌月始めに切腹を命じられ、ひとまず幕は降りる。


 御三卿や御三家による裏の動きは、事件のもっと前から始まっており、この事件後も主殿守派は政の中心から簡単には一掃されない。

 天災や天候不順による不作続きで高まり続けている人々の不満も、爆発するまでには、まだしばらく時が必要だった。















 ―― 第三章 終わり ――










* 第四章(一)は、これまで通りのペースで、18日夜の掲載/公開予定です。


* 念のための注: 前回と今回は壮絶なチャンバラが繰り広げられましたが、この後には、ここまでのチャンバラは出てきません。このお話はあくまでも武家のホームドラマ、ヒューマンドラマでして、チャンバラや捕物で片をつけるお話ではないのです。……のつもりです。



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