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第三章 天明四年 春 (十八)



 

 康二郎は伊兵衛の言ったことがすぐに頭に入ってこなかった。

「……え?」

「この店の前では仕掛けてこないと思いますが、ここを出れば、すぐに囲んでくるでしょう。かなりの手練れがいるらしく、正確な気配がつかめません」

 康二郎は一気に口の中が渇いた。


「先ほど前を通った、仕舞屋(しもたや)が二軒並んでいた所を覚えおられますか?間に狭い路地のある……仕掛けてくるのは、その辺りだと思います。あの路地に何人か潜んでいるかもしれませんが、あそこを仕掛ける場にすることはないでしょう。狭くて大の男では得物を振り回せない。もしも仕舞屋へ着くまでに囲まれそうになったら、とにかく仕舞屋まで走り、間にある細い路地へ入って壁を背にしてください。路地に入る前に囲まれたら、わたくしが盾になりますが、必ず一瞬の隙ができます。その隙に路地に入るのです。決して相手に背を向けてはなりませんよ」

 康二郎は頷いた。心の臓の音が大きく響く。怖いのではなく、やらなければいけないという気持ちの高ぶりだ。そう自分に言い聞かせた。


「得物ですが、康二郎様は真剣を人に向けたことはございませんよね?」

「ない。ためらうだろうか……」

「間違いなくためらうでしょう。ためらっては隙ができます。わたくしの木刀をお貸ししましょう。木刀のほうが慣れていらっしゃるでしょうから。代わりにわたくしには康二郎様のお刀を使わせてください」

 康二郎は頷いた。緊張で声が出てこないのだ。脇に置いていた刀を伊兵衛に下から渡そうとすると、「直前で大丈夫です」と返ってきた。


「こちらが相手に気づいていることはギリギリまで悟らせない方が良いのです。ですから、ここを出ても周りをきょろきょろと見回したりなさいませんように。戦いが始まったら、一瞬たりと気を抜けません。わたくしが路地の入り口で防ぎます。康二郎様はわたくしの攻撃をすり抜けた者に、迷わず打ち込んでください。それから、路地の奥、反対側は賑やかな通りなので、そこから攻めてくる敵はいないと思いますが、万が一のことがあります。そちらからの攻撃にも油断はなさらぬよう。もうひとつ。刀同様に戸惑うかもしれませんが、脇差を有効にお使いください。路地のような狭いところでは刀より脇差のほうが振るいやすいものです」


 ――この男はいったいどれだけ修羅場を潜り抜けてきたのだろう?

 淡々と十人もの手練れと対峙する戦術や心構えを語る伊兵衛に、康二郎はそう思わずにいられなかった。



 蕎麦屋を出ると、康二郎も異様な気配に取り囲まれているのを感じた。 落ち着かない。

 康二郎が先に歩き、伊兵衛はそのすぐ後ろについていた。

 康二郎はいつものように歩こうとしたが、ギクシャクした。

 もうすぐ仕舞屋になるところで、スッと前方と後方に複数の人間が立ちはだかった。

 前を塞いだ連中は浪人風体の六人だった。後ろは気配を感じただけだが、同じくらいの人数がいると思った。康二郎は首筋に鳥肌がたつのを感じた。

 ――これが殺気か……


「走って!」

 伊兵衛がいきなり康二郎の左腕を掴んで前を塞ぐ浪人の群れに向かって走り出した。そう錯覚させる走り方だったが、実際にはすぐに、前を塞ぐ連中が慌てて一斉に刀を抜く間に、康二郎を路地へ押し込み、その前に立ちはだかった。その手には康二郎の刀が握られていた。

 ――いつの間に刀を……

 そうして路地の入り口に立ちはだかる伊兵衛は康二郎に背を向けていて、目の前に帯に差してある木刀があった。それを抜いて構えろということだ。

 康二郎は慌てて帯から木刀を抜いて、伊兵衛の後ろで青眼に構えた。先が震えている。


 ――いったい何人いるんだ?どれだけ金をばらまいたんだ!

 康二郎はいくら人を雇って襲わせるにしても、ここまで大勢を仕向けてくるとは考えていなかった。考えが甘過ぎたことを思い知らされていた。

 ――こんなに大勢を相手にしては、いくら伊兵衛が強くたって……


 康二郎から見える浪人達は、いずれも喧嘩や斬り合いに慣れていそうな、荒んだ気を放っていた。抜き身の構えにも慣れが感じられた。

 斬り合いも喧嘩も、動き出しが肝心だと聞いていた。道場で見たことのある一対一の立ち合いでも、最初の動きで雌雄が決していることがほとんどだった。

 一対大勢でも同じことが言えるのか、双方なかなか動かなかった。こうなると我慢比べだ。


 康二郎はジリジリしてくる気持ちを抑えるのに必死になりかけた。だがふと目の前に聳える伊兵衛の微動だにしない背中を見たら、気持ちがどしっと据わった。

 伊兵衛は相手が動くまで決して動かないと康二郎は思った。


  とうとう伊兵衛の斜め左前にいた若い浪人が動いた。二十になるかどうかくらいの年齢と思われた。

 次の瞬間、伊兵衛はその向かってきた若い浪人の刀をあっさり交わして懐に入っていた。康二郎が驚いたことに、そこから反対側へと背負い投げをみまった。

 恐ろしい悲鳴が上がったのと若い浪人の身体から二本の刀の切っ先が手前に飛び出したのは同時だった。

 伊兵衛は浪人を右側から襲いかかろうとした敵への盾にしたのだ。


 悲惨な同士打ちに襲撃側も怯んだが、康二郎も吐き気に襲われた。人が斬られるのを初めて目にしたのだ。しかも康二郎より少し年上なだけの若い浪人だった。

 喉の奥から酸味が上がってきて口中に広がった。さっき食べたものが喉の辺りまで上がってきていたが、なんとか押し止めた。


 その間にも眼前で伊兵衛の容赦のない、攻撃と防御が表裏一体になった格闘が続いている。

 相手の斬り下ろしをまるで誘導するように鎬で払いながら相手の懐に入ると、その顎に左の肘鉄を食らわせた。肘鉄を食らわせた時にはもう顔も体勢も背後から迫る浪人に向いていて、その首を切っ先で薙ぎ、その流れのままに一歩踏み出すと、今度は隣の浪人の肩を斬り下ろした。

 伊兵衛の後ろと前の両方でほぼ同時に人がくずおれた。

 あっという間に六人が倒れていた。


 ――こ、この連中を倒さなければ、俺と伊兵衛があのように串刺しになるのだ。

 康二郎はなんとか自分を納得させようとした。


 伊兵衛が斬り合いの中いくらか右へ移動した隙に、浪人が一人路地へ斬り込んできた。

 康二郎は人を傷つける恐怖を振り払い、突きを入れた。しかしやはり甘かった。

 浪人は軽く康二郎の突きを交わして、刀を高く振り上げた。袈裟懸けを見舞おうとしている。

 康二郎は後ろへ飛び退りながら、斜め上から振り下ろされる刀を右下からの切り上げで受け止めようとした。伊兵衛の助言で切り上げるときは左腕一本にする、あの切り上げだ。

 とはいえ、木刀と刀である。まともに刃を受け止めては木刀に刀が食い込む。相手の腕が相当なものなら、木刀は折られてしまうかもしれない。


 康二郎は咄嗟に木刀が刀の鎬へぶつかるように切り上げを微妙に修正した。左腕だけの動きが却って切り上げやすくなる角度だった。

 止めるのがやっとだろうと思ったのに、康二郎の木刀が相手の刀の鎬にあたった瞬間、刀の方が大きく左へ、浪人にとっては右側へ、跳ね返されていた。浪人の顔に驚きが出ていた。

 ――隙あり!

 思うより先に、足も手も動いていた。振り上げた木刀を今度は右手を添えて、相手の左肩めがけて振り下ろした。早さが大事だと言う伊兵衛の教えを守った。

 浪人の肩から骨が砕けるような音がした。

 踞りかけているところを、更に続けてその首筋に木刀を見舞う。

 浪人はうつ伏せにたおれ、一声呻いて動かなくなった。


 ――伊兵衛は?

 顔をあげると、ちらと伊兵衛がこちらを窺ったらしい気配があった。

「俺は大丈夫だ!こっちは気にするな!」

 そもそもの要因からは矛盾していたが、康二郎には伊兵衛を助太刀するには、そう声をかけるしかないと思えたのだった。









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