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第三章 天明四年 春 (十七)

 

「康二郎様、今日のお出掛けでは、道場へ行く前に金杉の方まで行っていただけますか?」

 伊兵衛が出かける前にわざわざ康二郎に断ってきたのは、弥生も終わり頃だった。

「構わないが、金杉に何があるのだ?伊兵衛のおっかさんと妹さんは、弥左衛門町(金杉とは逆の北の方)にいるのだろう?」

「わたくしの野暮用ですが、すぐ済みますから、おつきあいください。美味しい蕎麦屋をご紹介しますよ」


 康二郎は蕎麦切り*が大好物だ。美味しい蕎麦屋の話がなくても伊兵衛の頼みに否を言うつもりは毛頭なかったが、今日の楽しみが増えた。

 この日も殿様の御用で江戸の町を歩き回るのだが、それらは朝のうちに済ませ、昼過ぎには道場へ向かうつもりでいた。ここのところ膝を曲げると痛いのだが、道場を休む気にはならなかった。


「なんで痛めたんだろう?無理した覚えないのに。せっかく左下からも良い感じに振れるようになってきたのに……」

 思うようにいかないものだとがっかりしている康二郎に、伊兵衛が教えた。

「わたくしも覚えがあります。どんどん背が伸びているからですよ。この一月ほどの間にも康二郎様は一寸ほど背が延びておられます。今は我慢の時です。そのうち痛みは治まっていきますよ」

「伊兵衛も膝が痛くて曲げられないことがあったのか。今の俺くらいの年の頃?」

「そうですね。十五、六だったと思います……膝を深く曲げられないからできないとはならなかったのが、悲しいところで……」

 後半は独り言のようだったが、康二郎は思わず訊いてしまっていた。

「何ができないとはならなくて悲しかったんだ?」

 伊兵衛は康二郎を見返すと、にっこりと赤ん坊に笑いかけるような笑みを見せた。

 康二郎が十五才くらいは伊兵衛にとって楽しく振り返ることのできる年齢でないことを思い出したのはこの時だった。

 ――しまった……迂闊なことを……が、何か罠に嵌まったような気もする……


 しばらく歩いてから、さりげなく後ろを振り向くと、伊兵衛は機嫌よさげに小声で唄を口ずさみながら、康二郎の歩く早さに合わせて、ゆっくり歩いていた。康二郎はその様子に自分の無神経さを気にしなかったようだと安堵した。


 俳諧の宗匠から添削された殿様の句を受け取り、木挽町の芝居茶屋で殿様と奥様のための予約をして新橋を越えたのは、まだ四つ(午前11時頃)前だった。

 伊兵衛は金杉とだけ言っていたが、金杉橋を越えて歩き続け、足を緩めたのは芝の田町に入った頃だった。

 伊兵衛はそこで右側に連なる町屋の間の道へ入り、大きな履物屋の横にある路地へと康二郎を誘った。

「しばらく向かいのお屋敷を見ていてください」

 楽しそうだ。

 康二郎はひょっとして……と思いながら、今さら過ぎて聞くのは気が引け、言われるままに黙って武家屋敷の長屋門を眺めた。


 しばらくすると、南の方から若侍がやって来た。前に見た時よりかなり痩せていて面変りしていたからすぐにはわからなかったが、三間程に近づいた時にはっきりわかった。

 ――佐太郎さんだ!

 佐太郎はためらうことなく潜り戸を叩き、中へ入っていった。

「只今戻りました」という声が微かに聞こえた。


 康二郎は伊兵衛の顔を見上げた。

「佐太郎さんは奉公していたお屋敷に戻ったんだね?」

 伊兵衛は頷いた。

「一昨日から戻っております」

「見事だよ、伊兵衛。どうやって説得したんだ?」

「この度は定九郎、大活躍でした。経緯は蕎麦切りを食べながら申し上げましょう。美味しい蕎麦屋は大通りの向こう側にあるんですよ」



伊兵衛推奨の蕎麦屋は、南下してきた道の左、海側に並んでいる町地の裏手にあった。路地を抜けて康二郎に見えてきた浜には、所々に網が干されていた。

 そして、路地から南に向いて歩き始めると、すぐに美味しそうな出汁の匂いが漂ってきた。 


 小さな店ということもあり、まだ昼の九つの鐘は聞こえていなかったが、蕎麦屋は客でほぼ埋まっていた。見回したところでは町人ばかりで、侍はいなかった。時刻が早いからだろう。

 伊兵衛が前もって話をつけていたからか、店主の女房らしい女は愛想よく二人を迎えると、常連客を詰めさせて上げ床の奥の一角を空け、そこへ康二郎と伊兵衛を座らせた。格子窓の側の落ち着ける場所だった。

 康二郎も伊兵衛も、隣の客が美味そうに食べている貝を上に散らした蕎麦、()()()を頼んだ。

「見るからに美味そうだ……」

 周りの客が食べている蕎麦を見回しながら、頼んだ蕎麦が来るのを待ちかねている呟きに伊兵衛が吹いた。


「ここは、いつ見つけたんだ?」

「一昨日です。お屋敷へ入る佐太郎さんを見届けに来たときに」

「伊兵衛が連れていったのか?」

「いえ。わたくしと定九郎は佐太郎さんに一切顔を見せておりません。実際に佐太郎さんと馴染みになり、仕掛けたのは定九郎の所の若い者です。弥八という、まだ二十歳の若者ですが、ずいぶんしっかりした手合でしてね。定九郎の書いた台本に沿って、うまく運んでくれました。複雑な筋ではないものの、相手を乗せるのは決して簡単ではありませんから」

 伊兵衛の話も早く聞きたかったが、腹が減っているから、蕎麦も待てない。


 膳に乗った蕎麦が目の前に置かれるやいなや、康二郎は蕎麦をぐいぐい啜って食べた。あっという間に半分ほど平らげたところで言った。

「美味い……それで?弥八さんは佐太郎さんと馴染みになって、何を仕掛けたんだ?」

 一瞬、佐太郎の話は頭からとんだのではないかという康二郎の蕎麦への食いつきぶりだったが、食べながら、ちゃんと伊兵衛の次の言葉を待っていたのである。


「おしまいから言えば、およしさんには吾一という間夫がいることがわかったから、佐太郎さんはおよしさんを諦め、勝手に飛び出していたお屋敷に戻ったのです。言ってしまえばそれだけのことですが、佐太郎さんが納得して、自ら動く形に持っていくには時間をかけるしかありませんで」

「およしさんが吾一さんと会っているところを佐太郎さんに見せたってこと?それが伊兵衛のいう『仕掛け』?」

「はい。それも仕掛けのひとつでした」

「他にも仕掛けたのか……それにしてもよく奉公していたお屋敷に戻ってくれたなぁ。およしさんを諦めても、そのまま香具師の元締めのところにいそうなものだ」

「そこも仕掛けましたから」

 ふふふと伊兵衛は笑って最後の蕎麦切りを口にいれた。

「あのお屋敷に対してはわたくしも動きました。佐太郎さんには見えないところで」

 康二郎は黙って伊兵衛を見た。

 定九郎、その寄子と伊兵衛。思っていた以上に仕掛けの「手練れ」らしい。


「大した仕掛けではありませんよ。当人の意向は無視して、先に殿様と奥様に佐太郎さんがお屋敷を出たことを心から悔いている、戻ってきたら、なにとぞ温かく迎えてやってくださいましとお願いしただけです」

 なるほどと、康二郎は納得した。これだけ男振りの良い伊兵衛に頭を下げられた奥様は、頼みを無視できなかったことだろう。

 しかし、そうやってお屋敷を懐柔しておいて、弥八がさりげなく元の奉公先へ戻ることを勧めた……という簡単な筋ではなかったらしい。


「最後は二度と香具師の元締めや弥八に関わろうと思わないように仕向けないといけませんからね。可哀想でしたが、最後は手酷い裏切りにあったわけです」

「およしさんに振られ、香具師の元締めは元々だけど、弥八さんにも裏切られ、それで面変りするほど痩せたのか。ちょっと気の毒だな……」

「正確には藤八と名乗っていた弥八に、ですがね。後々のことを考えたら、その閉め方が一番なのです。今は気の毒ですが、放っておいても結局は同じことが起こったでしょう。それだけでなく、お屋敷に戻れず、野垂れ死にするしかなかったかもしれません」

 康二郎は少し後味の悪さを感じたが、伊兵衛の言う通りだろうと思った。


「借金は?」

「返さないわけにいきませんが、額は二十両に減らしました」

「ど、ど、どうやって?」

「そこは蛇の道は蛇で、定九郎の金貸しの知り合いに算出し直してもらいました。香具師の元締めを説得するには、少々荒っぽい手も使わざるを得ませんでしたが、双方に怪我人はございませんでしたから、ご安心を」

 詳しい話をする気は無さそうな伊兵衛だが、康二郎も具体的に何をどうしたのか聞くのは怖い気がして、突っ込んだ問いができなかった。


 佐太郎がお屋敷に戻ったことを知ったら、おたまは喜んでくれるだろう。このまま佐太郎が真面目にお屋敷で奉公を続けて、わずかずつでも借金を返していくなら、おたまの心配はずいぶん減るはずだ。さらには野田家で女中頭として勤め続けることが、少しでも佐太郎の借金返済や将来のための手助けなるなら、おたまの励みになるに違いない。


 康二郎がおたまの安堵する顔を思い浮かべていると、伊兵衛が床をさりげなくポンポンと指先で叩いて康二郎の注意を引いてきた。

 康二郎は常にない伊兵衛のやり方に、黙って伊兵衛を見つめかえした。

「外でかなりの人数が待ち伏せしています。十人はいそうです」

 伊兵衛が小声で言った。









 


* 後世では単に「蕎麦」と読んでいる、細長く切った蕎麦のこと。当初、蕎麦は「蕎麦がき」という、餅のような形で食べていたため、蕎麦切りと読んで区別していた。

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