第三章 天明四年 春 (十六)
それからしばらく、康二郎にはやきもきする日が続いた。伊兵衛が昼まで野田屋敷へ現れなかった日が三度あったが、康二郎に理由も状況もはっきりとは言わなかった。
「まだ時はかかりますが、今のところいたって順調です」
伊兵衛が康二郎に告げたのはそんな程度だった。
気になるから、ついおたまにも最近佐太郎から何か便りがあったか尋ねてみた。
「いいえ、この二月ほどは何も。あの子の場合は、ろくなことを言ってこないから、便りのないのは良いことだと思っております」
寂しげな笑顔のおたまだった。
そのため、この間の康二郎にとって人との関わりにおける一番大きな出来事は和之助の縁談で、二番目は竜三郎、橋蔵との再会だった。
三枝の屋敷でおよそ三月ぶりに会った竜三郎と橋蔵にも、康二郎は「ちょっと見ない間に背が伸びたなぁ」と感心された。
竜三郎の屋敷は三枝屋敷の近くということもあり、康二郎が三枝屋敷の潜り戸を抜けたら、二人は目の前にいた。
そして、後ろについてきた伊兵衛を見ての二人の反応と感想は、揃ってしばらく無言で伊兵衛を見つめた後に一言、「すげぇ……」だった。
伊兵衛の方は、いつもの丁寧な挨拶と笑顔を二人に見せた後には、道中に言っていたことを康二郎の耳元で繰り返した。
「よろしいですね?二刻ほど(約4時間)で戻りますから、それまでこの御屋敷から決してお出かけにならないように」
伊兵衛は門番にも二刻後にまた来ることを言いおき、潜り戸から出ていった。
この時も、一言でいいから、何がどうなっているか言ってほしい気持ちで伊兵衛の背中を見送った康二郎である。
橋蔵は康二郎とほぼ同時期に元服していたが、竜三郎はまだ前髪を落としていないから、見た目は一人だけ幼いのに、口を開けば一番大人びているから、三人の世話役を割りあてられた若党は、茶や菓子類を持ってきた時に笑いを堪えていた。
竜三郎の元服は秋に行う予定らしい。
「貧乏旗本には色々制約があるのさ」
再会は竜三郎の呼び掛けだったのだが、橋蔵の部屋に腰を落ち着けた直後に言ったのは、康二郎が松平卓之助達、三人に襲われた件の噂の出所だった。
「ついに突き止めたぞ」
嬉しげの、自慢気な第一声だった。
康二郎は全くあてにしておらず、頼んだことも忘れていたから、「何を?」と返してしまった。
康二郎の返しに橋蔵は吹き出し、竜三郎は少し気分を害していた。
しかしすぐに気を取り直し、竜三郎は難しい探索だったことを強調しながら、康二郎に目を据えて経緯から説明していった。
竜三郎がたどり着いた結論は、「噂の出所は中居道場」だった。
「中居道場に通ってる兄や友達から話を聞いた塾生が……一人じゃないぜ。俺が突き止めた数は三人だ。そいつらが噂を広めたんだ。こそこそと話が伝わるうちにどんどん尾ひれがついていったらしい」
噂の出所は中居道場の門下生と聞いて、納得はした康二郎である。
康二郎は気がついていなかったわけだが、照之助達が康二郎を「ものにしよう」と狙っていたことは道場内でそれなりに知られていたのだろう。
奥の部屋での九郎右衛門、栄之進との会話を漏れ聞いた門下生もいたに違いない。
納得はしたが、今の康二郎にとっては、もうどうでもいいことだった。
竜三郎にそんなことは言えず、「さすが竜三郎だ」と褒めて、康二郎は話を塾のその後に変えていった。
三人の会話は弾んだ。
あっという間に夕方になり、約束どおり二刻後に三枝屋敷に戻ってきた伊兵衛は、いつもの伊兵衛だった。
和之助の縁談は、留守番組がこじんまりと上野の花見に出掛けた帰り道、おたまが嬉しげに康二郎に小声で教えてくれた。
「奥様は和之助様のお相手選びには前から色々動いておられたのですが、とうとう目星をつけられたようですよ……と、申しましても、お興入れされるのはまだまだ先になりますけれども。康二郎殿に義姉上様がおできになりますね」
康二郎は素直に喜んだ。自分に義姉ができるというのはもうひとつピンとこなかったが、和之助にとって良い話だと喜んだ。
武家の婚姻は当人の気持ちや好みは二の次どころか三の次以下で、あくまでも家格や親同士の縁故、思惑が重視されるものだが、康二郎はあの奥様のことだから、きっと選びに選んで、気性も容姿も素晴らしいと思う娘を選んだに違いないと確信していた。
さぞ和之助も喜び楽しみにしているだろう、二人だけの方が本音を言うだろうと、康二郎は屋敷に戻るとすぐに和之助の部屋へ行き、「おめでとうございます」と、縁談話をふった。
ところが、
「そうめでたいことかどうか。相手は母上が選ぼうとしているのだ。あまり期待はできないよ。父上が選ぶならともかく」
と、淡々とした答えが返ってきた。
「なぜですか?」
「俺の女性の好みはどうやら父上と似ているのでな」
「へーぇ、そうなんですか。どなたか、お好みの方の覚えはあるのですか?」
康二郎は好奇心丸出しで尋ねた。考えてみたら、和之助とこんな話をしたことがなかった。
「……お松だな」
「お松さん?おっかさんと同じ名前だ。そのお松さんはどこにいらっしゃるのですか?」
和之助が呆れた顔で康二郎を見た。
「馬鹿」
いきなり馬鹿と言われては、相手が和之助でもさすがにムカッときたが、一応は何か大きな勘違いをしたのかと自分を省みる気持ちと混ざりあい、康二郎は言い返したいのに言葉が出てこず、パクパクと金魚になってしまった。
「俺の好みは父上と似ていると言ったろう?聞いてなかったのか?」
「……ま、 まさか……」
野田の殿様と関わりのある「お松」を康二郎は一人しか知らない。もちろん今は亡き最愛の母、お松だ。だがどうにも和之助と母、お松が繋がらない。
「康二郎には『まさか』なのか。俺には『おっかさん』ではないぞ」
――そ、それはそうだけど……
康二郎は呆然、愕然だった。
「だ、だって、話の流れから、生きてる人だと思うじゃないですか!珍しい名前ではないし。それに、何より兄上はおっかさんを覚えていないではありませんか。それなのに……」
「お前が好みを聞くからさ。あまりに小さくて覚えていないのが本当に残念だ。お松の話を聞けば聞くほどそう思うよ」
あまりに意外な和之助の告白に、康二郎の心は受け止めきれなかった。まじまじと兄を見つめた。
和之助はそんな康二郎を面白がっているようだった。照れは全く見えない。
――俺をからかっているのではないか?
康二郎は疑心暗鬼にまでなってしまった。
後からこの話を聞いた伊兵衛は腹を抱えるほど大笑いした。
伊兵衛が佐太郎の更正に取り組んでいる間、康二郎は屋敷の庭でも、道場での稽古でも、伊兵衛の助言に真摯に取り組んだ。色々骨折ってくれている伊兵衛に対して自分が報いることができるのは、それくらいしかないと思ったからだ。
道場で勝手に違うことはできないので、康二郎は栄之進に伊兵衛の助言を報告した。
栄之進は大きく頷いて言った。
「よく見ている。短時間で細かな点に気づく、わずかの違いを認める……それがあの者の強みなのだろうな。私も気にはなっていたのだが、左腕一本で振れと指導できるまで割り切れなかった。やってみて、うまくいかなければ止めればいいだけのことだ。左も利き手のように使えれば、大きな強みになる」
筆頭師範代のお墨付きをもらい、康二郎は道場に行くと、必ず稽古場の隅で一刻近く黙々と左腕一本での切り上げを練習した。しかしなかなか思うようにいかず、やっぱり無理なのではないかと思い始めた十日目のことだった。
この日も栄之進に立ち合いで稽古をつけてもらっていた康二郎は、相変わらずその鋭い振りに翻弄されていたのだが、上からの振り下ろしをあっさり栄之進にかわされた直後、自分に振り下ろされる栄之進の木刀めがけて右下から左腕だけで木刀を振り上げた。この日だけでも三度目の挑戦だった。先の二回はいずれも栄之進の木刀を止めることができず、体勢を崩され、直後に一本とられていた。
これまでに無い鋭い音を立てて木刀と木刀がぶつかった。だが音とは逆に、康二郎の腕にはこれまでで一番衝撃が少なかった。勢いそのままに、木刀を左上に振りきった。
――佐々さんの木刀を跳ね返せた?
康二郎は初めて栄之進の振り下ろしを跳ね返せたことに、喜ぶより呆然とした。
栄之進の方が嬉しげに声をかけてきた。
「できたな。今の返しは素早く、振り上げは鋭かった。この振り上げを更に磨けば、ひょっとしたらお前の一番の武器になるかもしれん」
康二郎は栄之進の言葉にやっと実感が湧いて、思わずいつも伊兵衛が座っている稽古場の片隅を見た。だがそこに伊兵衛の姿はなかった。
――佐太郎さんのことで出ているのかな……
康二郎はがっかりした。伊兵衛の感想が聞きたかった。
佐太郎のことを請け負ってからの伊兵衛は、道場や馬場への行き帰りには必ず供として同道したが、時々康二郎が稽古に励んでいる間に姿を消すようになっていた。稽古が終わる頃にはいつものように座っている。
元々稽古中は好きなように時間を潰して良いと和之助が言っていたからか、この道場からの抜けに関しては、伊兵衛は康二郎に断りを入れなかった。
気にはなるが、詮索しすぎる気がして道場から消えてどこで何をしているのか、康二郎は聞けずにいた。聞いたところで「佐太郎さんに絡んで、です」と、一言返されるだけの気もしていた。
康二郎は気を取り直し、稽古を再開した。
一度でもできると自信が湧いてきて、その自信が更に力を与えるらしく、その後の立ち合い稽古での康二郎の右下からの振り上げはどんどん進化していった。
もちろん栄之進が康二郎が掴みかけている動きをしっかりものにできるよう、うまく誘導して立ち合っていたからだが、最後の方ではその栄之進がかなり怯むようになっていた。
体勢を崩されても相手に背中を見せないことをも常に頭において康二郎は立ち合っていた。
確かに体勢を崩されても、相手に向いている限りはどうにかなるところがある。避けることはもちろん、手に何かしら得物を持っていれば、実戦では振り回すだけでかなりの防御になるだろう。もちろん稽古ではそんな「不恰好」なことはしないが、実戦では「有り」だと心に留めておいた。
ひとつ大きな壁を越えた高揚感の中、「今日はここまで」と栄之進に言われた。
「ありがとうございました!」
深々と礼をして振り向いた康二郎の視界に真っ先に飛び込んできたのは、笑顔で康二郎を見つめている伊兵衛だった。
――いつ戻ってきたのだろう?
「伊兵衛、できたよ!まだ右下からだけだけど……」
そう言いながら、康二郎は伊兵衛に駆け寄った。
後に和之助はその時の康二郎を「まるで丸一日見知らぬ家に預けられていた幼子が、迎えに来た乳母に駆け寄るようだった」と表現した。
「今日わたくしが目にした左下からの振り上げなら、康二郎様が思っていらっゃるより、相手に脅威を与えていますよ」
帰り道、右下からは目処がたったけれども、左下からの振り上げがどうにもうまくいかないとこぼす康二郎に、伊兵衛は言った。
「大丈夫です。たった十日でこれだけできるようになったのです。明日からは、抜き身での素振りもなさるとよろしいかと。佐々様以外の方からは、半年もたたないうちにどちらからも一本取れるようになりますよ」
伊兵衛の大盤振る舞いな請け合いに、康二郎の方が冷静になった。
「それは、さすがに言い過ぎだろう……」




