第三章 天明四年 春 (十五)
花見の留守番をしたこの日は、伊兵衛から昔のことを聞くことができた日であると同時に、康二郎が初めて伊兵衛に剣術を教えてもらった日ともなり、後々まで忘れられない日となった。
俊蔵に門番を交代した伊兵衛の方から、「剣術のお稽古の相手をいたしましょうか?」と声をかけてきたのだ。
「休まなくていいのか?」
「一刻もじっとしていたのですから、身体を動かす方が良いのです」
康二郎は嬉々として木刀を二階へ取りに行った。そのついでに、小金を入れてある巾着を懐に入れた。
――足りないだろうけど、せめてもの……
俊蔵に見えないところへ伊兵衛を招き寄せ、康二郎は懐に手を入れた。すると即座に伊兵衛が言った。
「お金のことでしたら、ご心配なく。定九郎には一銭も払っておりませんし、中間仲間とはいつもの奢り奢られの話で済みましたから」
「駄目だよ。こういうことはちゃんとした方が良いんだ。足りないのはわかってるけど、せめてあるだけでも払わないと」
「こういうことはちゃんとした方が良いとは、どなたの受け売りですか?」
伊兵衛は顔をしかめて言った。
――はて?誰かに言われたのだったっけ?
康二郎はすぐに言い返せなかった。
――いつからそう思っていたのだろう?
「又兵衛様がおっしゃったことかな?棒手振りをしていた時に耳にしたのかもしれない……覚えてないや。そんなこと、どうだっていいじゃないか。受け売りだろうとなんだろうと」
康二郎は懐から巾着を取り出し伊兵衛に手渡そうとしたが、伊兵衛は両手を後ろに隠してしまった。
「子供みたいなことしないでくれ」
康二郎はムッとした。
「それならば……」と、巾着を伊兵衛の懐へ入れようとしたら、伊兵衛は後ろ手のまま、身体を捻って康二郎の手を軽々と避けた。
更にムッとなった康二郎だったが、その直後、ふいに伊兵衛は顔を康二郎に近づけて言った。
「そのお金はもっと大事な時に使うものです」
伊兵衛の予想外の行動に康二郎は驚いて、つい後ろへのけぞった。つい手の意識が疎かになった……と、手から巾着が消え、直後に懐に巾着の重みが戻った。
もちろん伊兵衛が隙をついて巾着を取り上げ、素早く康二郎の懐に入れたのだ。
伊兵衛は背筋を伸ばすと、伸びをした。
「卑怯者!」
見事に策にはまった悔しさから出た言葉だから、説得力はない。
伊兵衛はふふふと笑っている。
「もっと大事な時って、なんだ。俺には今回のことが大事だ」
「康二郎様ご自身のためにお使いなさいませ。万が一、怪我をなされた時や、遊女を買うなど、これからいくらでも使う機会が出てきますぞ」
――伊兵衛は絶対俺が赤くなったり焦ったりするのを見て楽しんでいる……
康二郎は「遊女を買う」に顔が熱くなっていた。
後世では紛れもなく悪事の一つだが、人権という考えも言葉もなかった男尊女卑のこの時代には、元服後の男が堂々と口にできる行為だった。
おきよ姐さんの姿がさばさばしたもの言いとともに康二郎の頭に浮かんだ。
――いかん!伊兵衛にのせられては駄目だ。
康二郎は頭を振って、頭からおきよ姐さんを追い払った。
そんな康二郎をニヤニヤしながら見ていた伊兵衛が言ってのけた。
「さぁ、時間がもったいないですよ。剣術の稽古をいたしましょう」
この日は屋敷奥に誰もいないので、いつもの長屋前ではなく、庭の奥で木刀をふるうことにした。
ほっそりしていても鍛えるところは鍛えている伊兵衛の木刀の振りは、栄之進とは違う鋭さがあった。太刀筋も全くといっていいくらい違うから、康二郎はかなり面食らった。
ギリギリで木刀が止まるから無傷でいたが、あっという間に五回以上殺された程の桁違いの強さだった。しかもどんどん太刀打ちできなくなっていく感じだった。
――すげえ!つ、強すぎる……
しばらく立ち合ったところで、一息入れましょうと言った伊兵衛は、しばらく考え込んでいた。
再び立ち合いを始めてまもなく、伊兵衛が言った。
「康二郎様は以前に右腕を怪我されたことがおありですか?」
「え?……あぁ、此処へ来てまもない頃に木から落ちて右腕にヒビを入れたことがある」
「ヒビですんだのですか?」
「……と、甲山先生がおっしゃったよ」
「康二郎様の振りにはある弱点がございます」
康二郎は唖然と伊兵衛を見上げた。
自分に弱点は色々あるだろうと思っていたが、まだ立ち合い始めて四半刻もたっていないのに、自分でも忘れかけていた腕の怪我のことを言われた上に弱点の指摘である。
「その原因は右腕にあるようです。わずかですが、下から上へ切り上げるときが遅い。太刀筋もぶれています。わずかとはいえ、実戦ではそれが命とりになります。実戦で真剣を振るう場合には、正確さよりも早さが大事です。わずかでも刃が当たれば斬れるのですからね。相手は怯みます。欠点を解消するべく右腕で下から上へ切り上げる稽古を念入りにするのが正道かもしれませんが、康二郎様は思いきって左腕だけで切り上げる練習をなさるのが良いのではないかと、わたくしは思います」
康二郎は伊兵衛の言うことに思い当たることがあった。下からの切り返しが下手だとは思っていた。だがそれを昔の怪我に結びつけてはいなかった。
「左腕一本で?」
「はい、両手から切り上げる瞬間に右腕を離すのです。方向を定めるのは右手で、そこからは左腕で流します。片腕で素早くまっすぐ刀や木刀を振るうにも稽古が必要ですが、右腕の動きを修正するより上達が早いと思うのです。一度左腕だけで振り上げてみてごらんなさいませ」
康二郎は伊兵衛に言われるままに、両手でまずは左下に構え、そこから左手一本で振り上げた。
いつもは右手に頼っていて、それゆえ左の持ち手をやりやすいように変えることができていた動きである。やりにくかったし、少しもうまくいったとは思えなかったが、伊兵衛は軽く頷いて「もう一度やってみてください。しっかり目標を定めて」と言ってきた。
二度目は最初よりいくぶんマシに振れた気はしたが、佐々師範代や伊兵衛の振りからは気が遠くなるくらい遅くて弱いと感じた。
続いて右下から振り上げた。左下からよりは手応えを感じたが、やはり栄之進や伊兵衛の振りの早さ、鋭さからは居眠りしそうな遅さだと思った。
「納得されていないようですが、騙されたと思って今日から十日間、今の動きを練習してみてください。十日目にはずいぶん変わっていると思いますよ」
伊兵衛はにっこり笑って請け合った。
この日の伊兵衛の剣術指南はもう少し続いた。
切り上げる振りの遅さに続いて、伊兵衛は康二郎が簡単に相手に背を向けてしまうことを指摘した。
「道場での立ち合いは大抵一対一ですから、お忘れになっている方も多いようですが、実戦では相手に後ろをとられることは、よほどの幸運がない限り、負けを意味します。後ろには目がありませんからね。なんとしても相手を背中側にまわらせないことが肝要です。それには素早く場を考慮して、壁などを背にし、後ろから攻撃されないようにしないといけません」
伊兵衛の口からはやたらと「実戦」という言葉が出てくる。
――この前つきまとっていたという、「嫌な気配」のせいか?
「前のめりになったり、転んだ時にも相手に背中を見せてはいけないというのか?」
「そうです」
「そんなこと……」
「できますよ。いつどんなときにも素早く反転することを心がければいいだけのことです。同じ転ぶなら、仰向けに転がるようにすれば良いのです」
「『心がければいいだけ』って……」
康二郎は栄之進との立ち合いや稽古で、それができたこともたまにはあったけれども、たいていは体勢を崩した時の向きのまま転がっていたから、伊兵衛の「だけ」発言には、口答えしたくなった。
――できる人はいつだって簡単に言ってくれる。
「人間、いざ抜き身を目の前にすると意外にできたりもしますけれど、後ろを見せないのが肝心だと意識していないと、一番大事なところでできなかったりしますので」
そのあとの立ち合いでは伊兵衛にあっさり体勢を崩され、コロリコロリと転がされながら、康二郎なりには伊兵衛に背中を向けないよう気をつけた。
――立ち合ってないよ、これは。操られている。俺が弱すぎるのか……
そのうち横向きにはなったものの、仰向けにまでもっていけずに、頭から勢いよく地面に突っ込んでいった。顔と頭への痛烈な痛みを覚悟しながら力を抜いて少しでも受け身の体勢をとろうとしたら、肩口を掴まれ、引っ張りあげられた。それから穏やかに着地させられた。
息を切らしながら見上げた康二郎に、伊兵衛は神妙に言った。
「康二郎様のお顔に擦り傷をつくっては、わたくしがおたまさんに叱られます」
「伊兵衛、強すぎないか?俺が弱すぎるにしても、だ」
「今の康二郎様はまだ小柄ですから、わたくしはかなり有利です。これくらいできないと、わたくしのような者は、渡り中間として五体満足で生きていけないのですよ」
伊兵衛は康二郎が初めて目にする凄みを感じる笑みを浮かべた。




