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第三章 天明四年 春 (十四)

 

「室生屋も大事に育てようとしているようです。今のところ上客にしか会わせず、客をとらせる頻度は少ないそうです。自分が遊ぶついでに調べてくれたわたくしの中間仲間は、頼んでも会わせてもらえなかったとぼやいていました」

「そうか……」

 康二郎は地面を見つめた。いくぶんは安堵したものの、もちろん気が晴れるまではいかない。

 ――室生屋の上客って、どんな人たちなんだろう?

「遊女仲間とも無難につき合っているようです。わたくしの、その知り合いの相手をした女の話からすると」

「そうか……」

 康二郎はつい同じ返しをしていた。いくぶんは安堵しても、やはり気は晴れないからだ。

「もう少し探りを入れますか?」

 伊兵衛が康二郎の顔を覗きこむようにして言った。表情から気持ちを確かめようとしているのだろう。

「いや、探りを入れるのはもういいよ。もしも何か変わったことが耳に入ったら知らせてくれ。例えば……身請けされたとか、体調をくずしたらしいとか……」

「畏まりました」


 ――いくら遊女としては大事にされてるといっても、好きでもない人たちに、金のため、生きていくために自分の身体を好きにさせるって、毎日が辛くないだろうか?心が死んでしまわないだろうか?

 康二郎は伊兵衛を見た。伊兵衛に訊きたかった。他に訊ける人はいない。康二郎の前でおきよ姐さんとさばさば旦那に囲われていた話をしていたのだから、康二郎に隠そうとはしていないのだ。

 しかし康二郎は訊けなかった。何か言おうとしてまた視線を外した康二郎に、伊兵衛の方が促してきた。

「わたくしに何か訊きたいことがあるのでしたら、どうぞ遠慮なさらずに。今日は絶好の機会ですぞ」

 伊兵衛はいたずらっ子のような笑みを見せた。

「そ、それじゃあ……」

 康二郎の口はそこで止まってしまった。

 ――やっぱりいきなりは聞けない……

 その時、頭の中に別の知りたかったこと、確かめたかったことがポンと出た。


「伊兵衛は榊原殿のお屋敷にいた頃は、この前芝で会ったあの子みたいな格好をしていたのか?」

 伊兵衛は面食らったようだった。

「どうしてそのようなことをお知りになりたいのですか?」

「なぜだろう……たぶん、あの子みたいな格好をした十五才くらいの伊兵衛はとても綺麗だったんじゃないかと思ってしまったからだ」

 伊兵衛はふふふと笑い出した。

「ずいぶん買い被られたものですね」

「そうかな?綺麗なものは気になる。遊女屋で目のやり場がないと思いながら、しっかり胸元や太ももを見ていたし、あの定九郎さんの連れにも綺麗だとつい目がいってしまった俺だからな」

 康二郎得意の開き直りである。

「それは……男なら、ごく普通のことでしょう。わたくしも置屋ではついつい胸元に目がいきました。平気な振りをしておりましたが」

 伊兵衛はニヤリと笑った。


「果たして当時のわたくしが康二郎様のお気に召すような器量だったかどうか……白粉や紅を塗ってはいませんでした。小三郎(こさぶろう)ほど……あの子の名です。小三郎のような女子の格好ではありませんでしたが、古風な若衆髷に振袖を着せられていましたので、近いことは近いでしょうかね」

「『着せられていた』ということは、伊兵衛はその格好が嫌だったのか?」

「嫌でした。康二郎様は派手な柄の振袖を着たいと思ったことがおありですか?」

「考えたことがない……」

 ちなみに康二郎は振袖を着たことがない。もしも着せられていたら、あっさり袖をほつれさせるか破れさせていたことだろう。


「わたくしも榊原様のお屋敷に住むまで派手な振袖を着て過ごすなど考えたことがありませんでした。康二郎様のお気持ちが少し楽になるかもしれませんので、申し上げておきますと、小三郎は物心ついた頃からあのように化粧をして華やかな振袖を着たかったのですよ。もっとも、陰間がどんな暮らしをしているかは置屋に引き取られるまで知らなかったと思いますけれども」

「なんであの子のことに詳しいんだ?」

「あの子とは前に会ったことがあるもので……」

 康二郎はどんなきっかけで会ったのか訊きたかったが、伊兵衛は前を向き、それ以上は言いたくないという雰囲気を出した。前を向いたまま、話を続けた。


「中には、小三郎のような男の子もいるわけですが、わたくしはそうではありませんでした。せめて落ち着いた色をと、青や茶を地の色に選んでいたのに、ある時呉服屋がやたらと薦めるものだから、榊原様も乗り気になって桃色の地の着物を着せられそうになった時は、必死の思いで抵抗しましたよ。『減らず口』という武器で」

 伊兵衛はまたいたずらっ子の目をしていた。

「なんとか切り抜けたと思ったのに、桃色の襦袢を持ってこられたものだから、がっくりときたものです」

「まさか下帯まで桃色だったとかじゃないよね」

 冗談のつもりで言ったから、伊兵衛の答えに康二郎は引いた。

「下帯をつけさせてもらえたのは数えの十七で元服したときです。それまでは腰巻だけですよ。十七になる頃には背が六尺近くになっていたので、それも嫌だったことのひとつでした。兵庫様のご様子は、大きくなり過ぎたから、元服させざるを得ないという感じでしたね……」


 ちなみに康二郎が下帯をつけたのは、数えの十一だった。和之助は数えの十才だったらしい。江戸では十才前後が多かったようだが、農村では元服と同時の数えの十五が多かったというから千差万別ではある。元服も、多いのは十五歳前後だが、保科正之のように二十歳過ぎに行う場合もあり、千差万別である。


「なんで、十七になるまで……」

「面倒だと思っておられたのでしょう」

 面倒な理由を、よくわからないなりに想像を膨らませて考えた康二郎は、またしても頬が熱くなった。

「これ以上は今の康二郎様に申し上げられませぬ」

 伊兵衛は笑顔を見せた。康二郎には無理に作った笑顔のような気がした。


 少し間を置いて伊兵衛は続けた。

「和之助様のおっしゃっていたことは、ほぼあたっております。康二郎様にもおっしゃったとお聞きしましたが?」

 康二郎は頷いた。初日に話したのだなと思った。

「そんな暮らし、とても辛かったのではないか?榊原殿のことも、そ、その……あの、こ、こ……い、いや、あの、あ、あ、アレも好きではなかったのだろう?」

 康二郎は自分でもそこまで噛まなくていいだろうと思うくらい噛んだ。

 ――ぼかしたのにこれだ。耳まで熱い!


「はい、辛い日々でした。けれど、他に生き延びる道を知らなかったので、仕方がないと諦めておりました。他所へ奉公へ行っても、遅かれ早かれ武蔵屋と同じような目に遭うと言われ、その言葉を信じたのです。元服するまでだと思い込んでいたのが、あの頃の希望でした」

「思い込んでいた?」

「ふふふ。前髪を落として髷を結い変え、下帯もつけて、これであのテのことは終わったと思い込んでいたところが、夜半に榊原様がお部屋にやって来られましてね……仰天したとはあのことです」

 康二郎もなんと返していいものか、わからなかった。初日に和之助が尋ねたあの意味……


「わたくしが閨のお相手は元服で終わりなのでは……と、思わず言ったら、『そんなことを言った覚えはない』と言われてしまいました。言われてみると、確かにそうでした。わたくしが勝手に思い込んでいただけだったのです」

 伊兵衛はあははは……と、底抜けに明るく笑った。明らかに自嘲の笑いだ。


 ――それは、榊原殿が心底から伊兵衛が好きだったということでは……元服後の姿を見てもナニがナニしたということだから……

 頭の中で思っただけでは噛まなかった。

 和之助から榊原兵庫は生涯独り身だったと聴いていた。

「榊原殿にお気に入りの女性はいなかった?」

「いらっしゃいませんでした。兵庫様は女性に全く興味を持てない御方だったようです。私の知る限りではそんな御方は兵庫様だけです」


 康二郎はもっと榊原兵庫とその屋敷のことを知りたくなった。

「榊原殿の御屋敷には何人の奉公人がいたのだ?」

「兵庫様が十代の頃から仕えていた、当時五十代の中間、六十を越えていた下女とわたくしの三人です。わたくしが御屋敷にいた間はずっとその三人でした」

 康二郎は伊兵衛の答えに複雑な思いが駆け巡った。

 ――伊兵衛にとっては不幸だったが、榊原兵庫にとっては、少なくとも出逢ってからは、伊兵衛が唯一無二の愛する人だった……


 後世と違い、この時代には必ずしも犯罪と見なされていなかったが、金と身分の力で伊兵衛少年を自分のものにした榊原兵庫に対し、康二郎は不快感を抱いていた。その気持ちはもう少し具体的なことを聞いても変わらない。

 ただその一方で、もしも誰かを本気で、心の底から好きになったなら、己に力や機会があった時に、自分を含めてどれだけの人が、その気持ちを押さえることができるだろうかと考えずにいられなかった。


「榊原兵庫殿との出会いは武藏屋で奉公していた間に、だったのだよね?……ま、まさか、い、いきなりなんてことは……」

 思いきって口にした問いの声は小さかった。


 答える前に伊兵衛にためらいが見えた。

「初めて御屋敷へ伺った時は何もありませんでした。二度目に伺った時、わたくしが……痛みに……尻の痛みに耐えているのが、すぐにおわかりになったようで、手当てをしてくださいました。手当てといえば、聞こえはいいですけど、とても嫌な、恥ずかしい思いをしましたよ。それ以降は、ご自分のところへまっすぐ来いと……この辺りの空き樽は中間に集めさせるからと……次第にわかってきたのは、傷を手当てするだけでなく……慣らそうとしていた、ということでした……有無を言わさず押さえ込むようなことはなさいませんでしたが、お前にはこうしたことが必要だと申され……」

 伊兵衛の表情は固く、顔色はだんだん悪くなってきていた。


「もういい!もういいよ!すまない……辛いことを思い出させ、口にさせてしまった……」

 康二郎は火照った顔で頭を下げ、謝った。やっぱり榊原兵庫を許せないと思った。


「康二郎様が謝ることはございません。いずれはお話しないといけないと思っておりました。ここまで細かなことをお話することになるとは思っていませんでしたけども」

 伊兵衛は薄い笑みを浮かべた。寂しげな笑みだと康二郎は思った。

 またしても康二郎は無性に悲しくなった。


 榊原兵庫が無理やり押さえつけるようなことはしなかったと聞いて、康二郎はほんの少しだけは安堵したが、あくまでも、ほんの少し、である。

 だからこそ、伊兵衛も榊原屋敷での「奉公」を受け入れた。少なくとも、他の獣のような連中よりはまだマシだと思えたから……

 ――そんな風に、嫌な選択肢ばかりの中から、まだマシだろうと思う選択肢を選ばざるを得ない人は、世の中に多いのだろうか?選んでみたら思っていたよりよかったとなった人も中にはいるだろうけど、伊兵衛の場合は……


「榊原様の御屋敷から逃げ出そうとは思わなかったのか?」

「もちろん思ったことは何度もあります。特にはじめのうちは。同年代の少年達と遊ぶこともできず、孤独でした。たまに出会うことがあると、蔭間や色子と蔑まれましたしね。でも当時のわたくしには考えられないような『給金』だったのです。また丁稚奉公では年に一、二度くらいしか親元に帰れないところを、月に一度、昼間に帰らせてもらえました。短い時間で、殿様の中間という見張りつきでしたけれど」

 ――我慢させる代わりに、別のところで優遇していたのか。そりゃそうだよな。でないと長く我慢できるわけがない。


「月に一度、母と妹に会うことを楽しみに、母に金を手渡すのを励みに我慢して過ごしているうちに、殿様のお相手をすることにも慣れていきました。ふふふ」

 伊兵衛の軽々とした言い方に、聞いている康二郎の方が顔と耳から火が出るんじゃないかと思うくらい熱くなった。


「今から振り返ると、榊原様のお屋敷にいた後半の兵庫様とわたくしは長年連れ添った夫婦のようでした。いるのが当たり前で、言いたいことはずけずけ言いあう……わたくしがずけずけ言っていたのは最初からですが」

「え?」

「おきよ姐さんが言ったこと、覚えておられますか?わたくしに向かって『相変わらず口が減らないね』と言っていたでしょう?減らず口を叩くのがわたくしの気性なのです。おとなしく囲われていたわけではありません。兵庫様には何を言おうと『暖簾に腕押し』でしたけれども」

「減らず口って、どんな減らず口を?」

 康二郎にはピンとこなかった。好奇心も湧いた。

「下品なことをかなり口にしました。食事中や『ひっくり返されている時』に、食事が不味くなったり気が萎えるのではないかと思うようなことを、です。こんな奴はうんざりだと屋敷から放り出されることを狙っていたのですが、無駄だとわかった後は、自分の憂さ晴らしのために、汚い言葉を兵庫様に投げつけていました。黙っていられなかったのです」


 黙っていられなかったのは、それだけいつも我慢していたからだろう。

 康二郎にも覚えがある。我慢して、ずっと自分の気持ちを押さえていると、ある日突然、無性に暴れたくなった。実のところ剣術と出会ったのは、そんな無性に暴れたい気分をもて余していた時だった。


 康二郎は榊原兵庫が一方的に伊兵衛少年に惚れていて、榊原なりには伊兵衛を大切にしていたつもりだろうが、二人の気持ちが真に向かい合うことはなかったのだと思うと、伊兵衛ほどでなくとも、榊原兵庫ももやもやしたものをずっと抱えていたのかもしれないと、ふと思った。


「榊原殿と伊兵衛は不思議な関係だったんだな。端から見て辛そうな暮らしも、当人が割り切れるかどうかってことか……」

「自分にとって一番大事なことは何かを見極めること……だと思いますね」

「自分にとって一番大事なことは何かの見極め……伊兵衛には何が一番大事だったのだ?」

「当時のわたくしには、母と妹の暮らしを支えること、でした。笑い話になりそうなことに、殿様に妾扱いされながら、当時のわたくしは長男として一家の大黒柱気分だったのです。ふふ」

「笑い話になんかならないよ。家族のために自分を犠牲にしたということか……でも、それが生きていく支えにもなる……」


 康二郎は自分とかわらぬ年の頃の伊兵衛の思いに目に涙が滲んできた。

 おきみもきっと同じだと思った。家族のためだと、それを支えに過ごしているのだろうと。幼い頃から自分から言い出して、忙しそうな母親を手伝う孝行娘だったのだから。


「人には生きていく上で、その時々で一番大事なことと、ずっと抱え続ける何よりも大事なことがあります。とりあえず、こうしてわたくしは今も生きております。榊原様のお屋敷を出た後にも色々あり、生きていることに絶望しかけたことも一度や二度ではありませんが、それらをなんとか耐え抜いて、今が一番幸せです。これが康二郎様がお求めになっている答えになりませんか?」

 そう言って、康二郎に微笑みかける伊兵衛は格好良かっただけでなく、ドキリとするほど綺麗に見えた。









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