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第三章 天明四年 春 (十三)

 

 定九郎達と別れた後、康二郎はしばらくの間、黙って歩いた。短い間に刺激の強いことが起きすぎた。顔の火照りもまだ完全にひいてはいなかった。

 地元では「神明前」とまとめて呼ばれている区域の北の端まで戻った頃、女中を引き連れた母娘らしい三人連れとすれ違った。康二郎は思わず親子を見返った。十歳くらいの娘が手にしていた桃の花が先ほど睨みあった少年を康二郎の頭に甦らせたからだ。


「定九郎さんが連れていたあの子は一言も喋らなかったね」

 少しの間母娘を見送ってから再び歩き出した康二郎は、答えを求めるように伊兵衛に顔を向けて言った。

 伊兵衛は康二郎の方は見ずに答えた。

「東の生まれだからでしょう。置屋が抱えている陰間は、上方言葉を話す方が客の受けがよいので、江戸でも多くは上方生まれです。江戸や東国生まれの子も、客に対しては上方言葉で話すようにしています。当然、上方で生まれ育った子のようには喋れません。そのため、あまり口をきかないようにしているようです」

 菓子や酒や着物のみならず、蔭間までも「下りもの」が人気なのかと、康二郎は呆れた。


「定九郎さんは面白い人だな。古い知り合いみたいだけど、いつ知り合ったのだ?」

「……昔、仕えていた殿様が茶屋に蔭間を呼んだ時です。あの男は十年以上まわしをやっているのですよ」

 ――昔仕えていた殿様って、榊原殿のこと?

 そう康二郎は聞き返したかったが、ためらった。淡々とした言い方とは裏腹に、重苦しい気が伊兵衛から漂っていたのだ。

「遅くなりましたが、これから道場へお行きになりますか?」

 康二郎が言わなければ、伊兵衛がこれからどうするか聞くのは当たり前のことだが、康二郎は伊兵衛がそれ以上定九郎との出会いについて話したくないのだと思った。

「今日はもうやめておく。屋敷の庭で素振りで汗をかくことにする。今日は冷や汗ばっかりかいたからなぁ……」

 冷や汗ばっかりかいた発言に、伊兵衛がふふっと笑った。

 笑ったことに康二郎は安堵した。

 だが次の瞬間、淡々と歩き続けながら、伊兵衛が静かに臨戦態勢を取ったのがわかった。


「伊兵衛、おきよさんのいる置屋から出た時も何か気にしていたね?何が気になるんだ?」

 康二郎は声を落として訊ねた。

「嫌な気配がつきまとっているのです。おそらく例の御三方の回し者でしょうが、場所が場所なだけに、決めつけてしまうのも良くないように思わないでもなく……」

「それで定九郎さんに俺たちをつけてる奴をつけてくれと頼んだのか?」

「それもあります」

「他にもあるというのか?いったい誰が何のために?」

 全く見当のつかない康二郎は、伊兵衛がもう少し説明してくれると思ったのだが、「わたくしにも見当はつきません」で片付けられてしまった。



 伊兵衛のさりげない警戒は野田屋敷の門の潜り戸を入るまで解けなかった。

 康二郎は伊兵衛が感じている嫌な気配を最後まで感じ取れなかったのが悔しかった。情けないと思った。


 康二郎は屋敷に戻った後はもう出掛けないつもりでいたから、伊兵衛は帰ろうと思えば帰れたのに、足をすすぎ、おたまの出した白湯と餅で一服したら、伊三治と門番を交代した。

 康二郎の方は伊兵衛とともに一服して餅を五個も平らげた後には、鶴三と互いに今日の出来事や結果を報告しあい、明日の打ち合わせをし、その後には長屋門の近くで木刀での素振りをはじめた。

 和之助への報告は、例の謎の勉強会に出掛けて留守だから、夜になる。殿様への報告と同時になるかもしれない。一石二鳥で片付くに越したことはない。


 初めて足を踏み入れた置屋での刺激があまりに強くて、このときもまだ康二郎は引きずっていた。集中して素振りをするつもりが、女たちのあけすけな姿が頭に浮かんで何度も振りが狂った。

「情けねぇ……」

 思わず呟いたら、ふふふと笑う声がした。

 見なくてもわかる。伊兵衛だ。番小屋に入らず、潜り戸脇の腰掛けから、康二郎が素振りしているのを見ているのだろう。

 康二郎は伊兵衛の方は見ずに、素振りを再開した。

 しかし振り払わねばいけないと思うほど、雑念は入り込んでくるものである。

 しばらく木刀を振り続けていた康二郎は、急に素振りを止めて門脇の腰掛けを見た。


 伊兵衛が壁にもたれて腕を組み、長い足を持て余すように前へ投げ出して座っていた。腰掛けが伊兵衛には低すぎるのだ。 すましているが、目は笑っている。康二郎の視線に腕組みを解いて膝に手を置いたが、康二郎が急にそっちを向いたことに慌てた様子はなかった。


「伊兵衛、いつか……すぐにとは言わない。いつの日か、依田さんとの三本目で見せたあの木刀の捌きを俺に教えてくれないか」

 伊兵衛の目から笑いが消えた。

「あの動きは強くて綺麗だった。あんな風に木刀を捌きたいと思うんだ」

 伊兵衛が口を開くまでに少し間が空いた。

「お教えすること自体は問題ございませんが、わたくしの木刀の捌きは色々なものの混ざりあった我流です。一刀流を修行してこられた康二郎様が、そのような亜流を身につけるのが良いとは思えませぬ」

「俺は剣術は好きだけど、一刀流の剣客になるつもりはないよ。良いと思うものを身につけたい。ただそれだけだ。考えておいてくれ」

 そう言って康二郎は素振りを再開しようとしたが、また伊兵衛を見た。

「伊兵衛、中居道場への入門も本気で考えてみないか?杉田さんは初日の帰りにふざけた調子で言ってたけど、あれはけっこう本気で誘っていたと思うよ」

 伊兵衛は何も言わず、康二郎を見ていた。

「何を気にしているのか知らないけど、あれほど見事に使えるようになっているのだから、伊兵衛は剣術が好きなのだろう?剣術が好きなら、気にすることなど何もないと思う」


 伊兵衛はしばらく無言で康二郎を見つめた後に俯いた。なにかを堪えているように康二郎には見えた。

「あの日、嘘はついておりませんが、省いたことがございます」

 顔をあげた時には、伊兵衛はいつもの落ち着きで言った。

「榊原様に指導をしていただいたのは本当に剣術の入り口だけでしたが、それまでに何年もの間、庭で素振りをなさったり、弟弟子の方がお見えになった時に稽古をつけていらっしゃるのをじっと見ていたのです。はじめのうちはこっそりと遠くから。後には色々用事や言い訳をこしらえて間近く濡れ縁から。わたくしが町人ということもありましたでしょうが、どれほどお願いしても、どうしても教えていただけないので、技を盗む気で一挙手一投足を見ておりました。本当に盗めるとは思っておりませんでしたが、後にいざ木刀を振ってみたときに、少しは門前の小僧習わぬ経を……であったことがわかりました。わたくしの我流が榊原様の剣術を基礎にしているのは間違いありません」


 康二郎は、濡れ縁から榊原兵庫が木刀や刀を振るう一挙手一投足を見つめていた少年の伊兵衛は、康二郎を睨みつけてきた少年のように、少女のような髷を結い、(あで)やかな振袖を着ていたのだろうと思った。 その頃の伊兵衛は、今の男ぶりからして、今日出会ったあの子より更に美しかったのではないかと思った。

 となると、榊原兵庫が剣術を教えたくなかったのもわからないではない気がした。良い悪いではなく、気持ちとして。

 知識はやはり偉大である。昨日までの康二郎なら、なんで教えなかったんだと憤慨していたことだろう。


「ならば、なおさら堂々と中居道場に入門できるではないか。榊原殿は一刀流の有名な遣い手なのだから」

 康二郎は勢いよく言った。顔はほころんでいた。

 伊兵衛はまたしばらく黙って康二郎を見つめていた。ようやく口を開いたときには笑顔を見せた。

「康二郎様のお気遣い、わたくしなどには誠にもったいない限りです。中居道場に入門せずとも、稽古に参加させていただけるようであれば、それがわたくしには一番でございます。いずれにせよ、急ぐ話ではございますまい。しばらくは今のままで……」




 伊兵衛から康二郎が探索の進展を聞かされたのは、それからおよそ十日後のことだった。

 その日は康二郎、伊兵衛、おたま、俊蔵を留守番に、その他の野田屋敷に住む者が揃って上野の東叡山へ花見に出かけた日だったから、伊兵衛は意図的にこの日に調べたことを報告できるようにしたのだろうと、康二郎は思った。


 野田家が奉公人も連れて出かける花見は、桜の下で弁当を広げて飲めや歌えの宴を開くわけではない。ゆっくり歩きながら桜を楽しみ、帰りに料理茶屋で豪勢な料理を食べて帰ってくるという、年に一度の奉公人達の慰労をかねた遠出だ。

 殿様や奥方より少し安い料理であっても、奉公人達も料理茶屋で、特に女中にとっては据え膳で食べられるのが何よりの褒美になっていた。

 そして、この日の留守番組は、和之助を加えて数日後にこじんまりと花見に出かける予定である。年によっては見頃を過ぎているが、桜吹雪の舞う光景もまた美しい。康二郎が毎春一番楽しみにしていることだ。


 これまでは康二郎以外の留守番組は交代していたが、伊兵衛は、野田屋敷に長く勤めるなら、おそらく毎年留守番組になるのだろうと康二郎は思った。

 伊兵衛は康二郎が出掛けなければ、門番や薪割りもするが、あくまでも康二郎のために雇った奉公人であり、康二郎の指図が最優先になっていることがこの一月足らずで康二郎にもよくわかっていた。


 門脇に置かれた縁台に並んで座り、康二郎は伊兵衛から、この日までに判明したことを聞いた。

「佐太郎さんは、今は芝の田町に住んでいるようです。地元の香具師(やし)の元締めの家に寄宿していて、借金もどうやらその香具師の元締めが貸主のようです。うまく巻き上げられている感じですね」

「本当に三十両もの借金が?」

「まっとうな貸し方かどうはかわかりませんが、今では三十六両です。あの辺りのお大名の下屋敷では大抵どこでも中間部屋で賭場が開かれておりますが、佐太郎さんがよく出入りしているのは、九鬼様の下屋敷とのことです」

「およしさんと会うための金欲しさから博打に手を出したのかな……」

「いえ、およしさんを請け出すための金ですよ」

「佐太郎さんは本気なんだ……この前の話ではおよしさんは本気じゃないということだったけど……」

「およしさんの間夫、『好い人』は、吾一という鳶ですね。定九郎達の調べたところでもそう出ました。佐太郎さんと直接話をした定九郎の若い者の話ですと、悪ぶってはいるけれど、芯から悪党にはなれず、香具師の元締めの良い鴨になってるようです」

「まずいじゃないか。早くなんとかしないと……」

「ですが、のめり込んでいる時は周りの言うことは耳に入らないものです。却って火に油を注ぐようなことにもなりかねません。こうしたことは急がば回れ……ということが多いものですよ」

「急がば回れ」が具体的にどういう策になるのか、康二郎には全く浮かばなかった。

「伊兵衛には何か良い考えがあるのか?」

「まだまとまってはおりませんが、思うところは少々ございます。わたくしに任せていただけますか?」

 この男は一体どれだけ引き出しを持っているのだろうと康二郎は思った。

「伊兵衛が大変でないならば。困ったことにならないのであれば……」

 康二郎の返事は小声になった。


「大したことにはなりませんが、もちろん康二郎様にお願いしなければならないことがあります」

「なんだ?」

「なるべく康二郎様のご予定に差し支えないようにするつもりでおりますが、急遽半日お休みをいただくことになるやもしれません。その時には、わたくしがお屋敷に現れるまで、決してお出かけになりませんように。わたくしとお約束ください。よろしいですね?」

 伊兵衛の目は真剣なだけでなく、迫力があった。

「……わかった」

 康二郎は少し気圧されて頷いた。

「おきみさんのことですが」

 康二郎は心の臓が踊った。固唾を飲んで伊兵衛の次の言葉を待った。








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