第三章 天明四年 春 (十二)
「大きな声では言えないことでして」
「ひとつだけはわかったと思う。定九郎さんに何か頼むには金がいるんだ。しかもそれなりの……」
そうでなければ、若い者を寄宿させ続けることはできない。まわしの収入だけでは自分一人を養いかねると康二郎は思った。しかし、まわしは人の秘密を握りやすいという点までは、この時、考えが及ばなかった。
「定九郎と面識がない者が頼めば高くつきますが、わたくしは奴にかなり貸しをつくっておりますので、金を払う必要はありません」
「伊兵衛の貸しは伊兵衛自身のために使ってくれ。佐太郎さんのことは俺が頼んだことだから、割賦ででも俺が払うよ」
伊兵衛は康二郎の答えにふっと笑いをもらした。
康二郎は又兵衛が亡くなった後は殿様公認で、用人の仕事を手伝っている駄賃としてか、毎月少しばかり小遣いをもらっていた。手渡してくるのは和之助だが、自分の一存ではなく、殿様の指示なのだという。
又兵衛からもらった銭同様、和之助を介してもらった小遣いも、ほとんど使わず長屋の屋根裏に貯めている。もちろん大した金額ではないから、佐太郎のことを定九郎とやらに調べてもらうとなると、足りないだろうと思った。
――もう少し稼ぐ方法はないものか?
康二郎は話を変えた。
「おきよ姐さんはさばさばした人だね。一緒にいた女たちも明るくて驚いたよ。遊女屋って雰囲気もそこにいる女の人も、もっと暗いかと思っていた……」
「あの置屋が明るいのはおきよ姐さんの人柄でしょう。かなりの苦労人なのですが、それを笑ってのける強さのある人です。……室生屋のことを考えていらっしゃいますね?」
「うん。つい考えてしまう。おきよ姐さんみたいな人がいたら、おきみと気が合うだろうと思って……」
「調べてみましょうか?」
「そんなことができるのか?」
「どこまで知りたいかにもよりますが、それなりにやりようがあります。渡り中間を何年もやっておりますと、横の繋がりが大きく薄く広がりましてね。その中には妙に女郎屋に詳しく顔の聞く者もいるのです」
「ちょっとしたお礼ですむのなら……」
康二郎は俯くと、頭のなかで貯めてあるわずかの金子を数え直した。
――佐太郎さんのことと、おきみのこととなると……
数え直したって増えはしない。
――たぶん、きっと、足りない……
伊兵衛は笑い出した。
「お金のことは気になさいますな。室生屋のことなら、礼に酒を一杯奢れば済みましょう。定九郎のことも、私には定九郎への貸しを使う機会がなく、貯める一方なので、佐太郎さんのことはちょうど良いのです」
そこへ小女が定九郎の伝言を持ち帰ってきた。
もうすぐ佐野屋に「こども」を連れていくから、惣門を出たところで待っていてくれという内容だった。
「こども」とは、この場合は蔭間のことである。この時代には消費を促す方向の緩和政策が取られて各地の岡場所が賑わっていたが、本来、吉原以外は御法度、非合法である。そのため、岡場所には抱えている遊女を「こども」と呼んで言い逃れている置屋があった。しかし蔭間の場合、通常は元服していないから、公の扱いとしては正真正銘「こども」である。少々ややこしい。
いずれにしても、間引きの問題といい、「こども」を性的対象にした商売が抜け道になることからも、人権という考えのなかったこの時代、「こども」はあまり大事にされていなかった証明といえる。
「康二郎様、今度も決して口をお開きになりませんように。定九郎が何を言ってこようと、素知らぬ振りをしてください。いいですね」
惣門へ向かう前に伊兵衛が念押ししてきた。
康二郎が伊兵衛と共に惣門の番小屋側とは反対の木戸前に立っていると、桃色の振袖を着た少女が視界に入ってきた。大きな荷物を背負った恰幅の良い男と歩いている。つぶらな目に通った鼻筋、白粉に紅をつけたその顔は、雛人形のようだった。
康二郎がその子の顔をついまじまじと見たのがいけなかったのだろうが、康二郎に気づいたらしい向こうは睨みつけてきた。
気を悪くしたのかなと慌てて謝ろうとした時、少女の横にいるがっちりした、背丈は六尺(約180㎝)くらいありそうな大柄な男が言った。
「ほーぉ。ついに『宗旨替え』したか、伊兵衛」
「おきよ姐さんと同じことを言いやがる。工夫がねぇな」
伊兵衛が間髪いれずに小気味良く言い返した。
「昔やられ損だとぼやいてたじゃねえか。『宗旨替え』はめでてぇことだと思うがな」
「おきゃあがれ。元気そうだな、定九郎。その子が今のお前の受持ちか」
言いながら、伊兵衛はさりげなく康二郎の肩に手を置いてきた。動くなということだと、康二郎は思った。
問題はその間も定九郎の「こども」が康二郎を睨み続けていたことだ。
――……ということは、この子は女の子じゃなくて男?お、俺とおんなじの?
康二郎の動揺を察した伊兵衛の声が上から降ってきた。
「男の子です。よく見ればわかります。若様を睨みつけてますね」
「なんでだろう?ついじろじろ見てしまったのかな?綺麗だから目がいったのに……」
ぼそぼそ小言で言ったら、「おしゃべりはそこまでに」と、伊兵衛が康二郎の口を手で覆ってきた。
――そうだった。口をきいてはいけないんだった。それにしてもこんなに睨みつけられては、睨み返すしかないではないか。
今や桃色の振袖を着た少女のような少年は目の前にいた。背は康二郎より二寸近く高く、向こうは康二郎をいくぶん見下ろし、康二郎はいくぶん見上げての睨み合いだ。
相手が女の子なら、謝るなりなんなり、睨みあいを回避することを考えたのだが、相手も男となると引けない。睨み合いは続く。
「こんなにかわいいのに元服させちまうなんて、親の気が知れねぇな。もったいねぇ!あと三年はいけるぜ」
定九郎の声だ。何がもったいないのか、何がいけるのかわからず、康二郎は内心では首をかしげた。
「お旗本の子弟の元服はこんなものだ。お家の存続大事だから、もっと早いこともある」
「嫡男か?」
「いや、御次男だ」
「なら、いそぐこたぁない。なおさらもったいねぇじゃねぇか」
「与太話はもういい。お前に頼みたいことがあるんだ」
「お前が俺を頼ってくるとは珍しいが、ヤバいことか?」
「おきよ姐さんのいる置屋におよしという女郎がいるだろう?その子に入れあげてる佐太郎という男を探ってほしいんだ」
「そいつは何者だ?何をやらかしたんだ?」
「若様の大事なお知り合いの、大事な知り合いだ。どうやら女郎に入れ込み過ぎて身を持ち崩しているらしいんだが、今住んでいる所やよく出入りしている場所を突き止めて欲しい。賭場を含めてな」
「よくある話だ。高くつくぜ?」
康二郎はやっぱり……と思った。少年と睨み合いながら、意識は伊兵衛と定九郎の会話に向いている。
「お前には貸しが山ほどあるだろうが。そこから精算してやる。ありがたく思え」
「実際に調べにかかっての手間しだいだが、これでかなりチャラだな」
――チャラ?!
「ま、待ってくれ」
思わず康二郎は睨み合いを中断して定九郎に向いた。
「佐太郎さんのことで伊兵衛の定九郎殿への『貸し』を全部使いたくはない。もしも『チャラ』になりそうなら、俺が費用か手間賃かしらないが、いくらかでも支払う。その、あんまり手持ちはないけれども……」
途中までは一気にまくしたてた康二郎を定九郎は目を丸くして見ていた。
「若様、口をきいてはいけないと申したでしょう」
伊兵衛の怒った声が頭上でした。
「若様」
一言呼びかけて定九郎が顔を近づけてきた。
思わず康二郎は後退りしそうになったのだが、その前に伊兵衛が康二郎を後ろに引いていた。
間近で見た定九郎の顔は、頬にあるあばたの上に斬られたような傷痕があり、かなりの迫力だった。
「若様なら、一両や二両、簡単にお稼ぎになれぐっ」
変な声を出したと思ったら、定九郎の鳩尾に伊兵衛の左拳が入っていた。右手はずっと康二郎の左肩の上にある。
「それ以上言うと、無礼打ちだ。ぼったくりも許さん」
定九郎はぐへっと蛙が断末魔に出しそうな声を出してうずくまった。伊兵衛の拳が相当応えたようだ。
「こ、これから……ひ、一仕事頼もうってぇ相手なんだから、て、手加減くらいしろよ」
「手加減したから、今も息をしているんだ。若様は俺やお前とは違う。余計なことは言うな。わかったな、定九郎」
定九郎は苦しそうな顔で伊兵衛を見上げた。しばらくそのまま黙って伊兵衛を見ていた。
伊兵衛はというと、冷めた目で定九郎を見下ろしていた。
なぜか康二郎はその目を見たとき、無性に悲しくなった。
ようやく定九郎が立ち上がると、
「もうひとつ頼みがある」
伊兵衛は定九郎を手招いた。
意外な展開に康二郎も話を聞こう、二人のやり取りを見守ろうとしたら、伊兵衛がいきなり康二郎の両肩を掴んで向こうを向かせた。しかも直後に両耳を塞がれた。
突然な上に動きが素早かったため、康二郎は抵抗し損ねて、また桃色の振袖を着た少年と向かい合うことになってしまった。
少年は康二郎が定九郎に向いていた間も康二郎を睨み続けていたのか、あっさり睨み合いは再開した。
――なせだ?
定九郎が伊兵衛のすぐそばへ寄ったのは気配でわかった。
――どうして?俺に聞かれて困る頼みって何だ?
桃色の振袖を着た少年と睨みあいながら、康二郎は意識を全て後ろに向けたが、何も聞こえない。
耳から手をなんとか穏やかに剥がそうと試みたが、伊兵衛はどういうコツを会得しているのか、うまくいかなかった。
やっと伊兵衛の手が耳から離れた。
急いで康二郎が後ろを振り向くと、定九郎が驚きと感心と同情が複雑に絡みあったような、不思議な目で康二郎を見ていた。
――もうひとつの頼みとは、やっぱり俺のこと?
「じゃ、頼んだぞ。若様、参りましょう」
伊兵衛が康二郎の背中を軽く押して促した。
康二郎は最後に定九郎に一言言いたかった。口をきくなと伊兵衛に言われたが、佐太郎の件の依頼主は自分なのだ。
康二郎は立ち止まり、定九郎と振袖の少年にきっちりと対峙した。
「定九郎さん、佐太郎さんの身辺のこと、くれぐれも頼む。伊兵衛が言ったように私が世話になった大事な人に関わりがあるのだ」
康二郎は軽く頭を下げた。
伊兵衛は康二郎を止めようとして、途中でやめた。
「任せておくんなさい。必ずつきとめてみせますよ」
定九郎はにんまりと笑みを浮かべ、恭しく康二郎に礼を返した。
康二郎は定九郎の隣に立つ桃色の振袖を着た少年にも軽く頭を下げた。
少年は驚いたようだったが、一瞬後にはまたそれまでと同じ目で康二郎を睨みつけていた。
睨みあったまま別れるのは後味悪かったが、康二郎にはかける言葉が何も思い浮かばなかった。
自分と変わらない年齢のこの少年が自ら好んで蔭間になったとは思えない。やむを得ない事情があってのことだろう。少女のような格好を好きでやっているのか、嫌々やっているのかもわからない。わからないことだらけだ。
睨みつけてきたのは、立派な供を連れ、外を自由に歩き回っている康二郎が羨ましくて仕方ないからかもしれない。
――さわらぬなんとかになんとやら、だ……




