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第三章 天明四年 春 (十)

 

 その若侍は一度立ち止まり、辺りを見回してから新橋へと歩き始めた。その動きが康二郎におたまの不良息子、佐太郎だと確信させた。前に夜中に見た動きと同じだったのだ。

 ――どこへ行くのだろう?


「伊兵衛、すまないが、今、そこの茶屋から出てきた侍の行く先が知りたい。構わないか?」

「もちろんでございます。あの若侍をつけるのですな」

 康二郎と伊兵衛は四間ほど(約8m)開けて佐太郎の後をつけた。

 佐太郎は茶屋を出た直後は警戒している様子だったのに、その後は一度も振り返らない。尾行は楽だった。


「何者ですか?」

 つけ始めて間もなく伊兵衛が聞いてきた。当然の質問だ。

「おたまさんの息子、佐太郎さんだ……と、思う。おたまさんはここのところ佐太郎さんのことで悩んでるんだよ。今はどこに住んでいるかもわからなくなってるらしいから、突き止められないかなと……おたまさんにはずっと……その、長く野田家にいてもらいたいから、悩んでることはなんとかしたいなと……」

 康二郎は冬の夜中に見聞きした、おたまと佐太郎の言い争いの事を伊兵衛に話した。

「おたまさんにそんな悩みがあったとは……おたまさんは強い方ですな。今のお話だと、佐太郎さんは康二郎様のお顔はご存じないですね」

「うん、知らないはずだ」

「……佐太郎さんの居所や出入りの場所がわかったら、どうなさるおつもりですか?」

「案があるわけではないのだけど、居所や暮らしぶりがわかれば、とっかかりになるかなと……いや、とっかかりになってほしくて。つまるところは奉公先に戻って、少しずつ借金を返してもらいたいんだ。おたまさんを悲しませないようにして欲しいんだ。お節介かもしれないけど、俺にはどうしても放っておけない」

「康二郎様のお気持ち、承知いたしました。居所や暮らしぶりがわかったら、手立ても見つかりましょう」

 伊兵衛は康二郎には頼もしげに見える笑みを見せた。

 康二郎はまだ何もわかってはいないのに、解決の糸口が見えるのはもうすぐだという気がした。



 途中から伊兵衛は康二郎とほとんど並ぶようにして歩いていた。

 康二郎は話をするためだと思っていたのだが、そのうち伊兵衛はこれまでになく康二郎のそばを歩いていることに気づいた。

 佐太郎は新橋からひたすら南下していた。

「もうすぐ芝の神明様ですね」

 伊兵衛が呟くように言った時、やっと康二郎は思い出した。

 ――三千石の穀潰しは『これから神明前の茶屋で宴だ』と言っていたな。まさか今日も……

 思わず伊兵衛の顔を見あげた。

 ――それで警戒しているのか?


 考えてみたら、康二郎は芝の大神明へも増上寺へも来たことがなかった。この辺りは全く初めてだった。

 寛永寺の方は不忍池とあわせて行ったことがあるのだから、面白いものである。野田屋敷が赤坂にあり、上野より芝に近いことが、却って康二郎から行く機会を奪っていた。


 屋敷から近いこともあって、芝の方へは奥様が時々参詣に行く。奥様のお出掛けに和之助はたいてい同道させられるが、康二郎はもちろん留守番である。

 おかげで和之助は奥様無しで出掛ける時、つまり康二郎が一緒に行けるときは、芝以外へ行こうとするのだ。


 佐太郎がとある曲がり角で南下を止めて右へ曲がった。

「どうやら行き先は神明様か、その門前町のようですね」

 伊兵衛はさっと曲がり角まで早足で行き、佐太郎の様子を窺った。康二郎も慌てて後を追った。

 側へ来た康二郎に伊兵衛は前を歩いていると指で示した。

 伊兵衛が生まれ育った長屋は日陰町だというし、「芝の酒屋」で一年近く丁稚奉公し、一年、中間奉公した「三千石の穀潰し」もこの辺りで飲み食いしているということは、芝は伊兵衛に馴染みの土地なのだろう。あまり良い思い出の無い土地かもしれない。

 康二郎は伊兵衛にすまない気持ちが出てきた。だが、今さら引き返せない。


 佐太郎は門前町を通りすぎ、伊兵衛によると神明様の境内へ入っていったらしい。二人は引き続き佐太郎の後を追った。

 噂には聞いていたが、芝神明、正式名称、飯倉神明宮は、木戸と番小屋が備わる惣門を潜った後ろに町があった。

 第一の鳥居を睨むように立つ楼門の向こうに広がる境内には、葦簀張りの店がいくつも立ち、敷地の周囲には家屋が多数建てられていて、人も多く、見通しがあまりよくない。

 これは見失いかねないと、康二郎は焦って佐太郎の姿を探した。


 伊兵衛が康二郎の肩をつついた。

 振り向くと、左を指している。その方向を目で追うと、町屋が並んでいる路地奥の家屋に入る佐太郎が見えた。惣門を入ってすぐの路地だったから、もう少し辿り着くのが遅かったら見失っていただろう。

 二人は佐太郎の跡を追って路地へ入った。


「あれは何の店?旅籠(はたご)?」

 康二郎は、佐太郎が中に消えた、看板のない縦格子のある店のことを、ほんの二軒先にまで近づいた時になって伊兵衛に訊ねた。

「遊女屋です」

 伊兵衛はさらりと言った。

「ええっ?!神明様の境内に?!」

「ここが境内なのか、門前町なのか、微妙な所ではありますが、置屋も揚屋もこの辺りにあります」

 康二郎は軽いめまいを覚えた。

 ――神明様がいくらおおらかだといっても、この場所は……神明様を挑発し過ぎてないか?

「門前町の多くは嘗ては境内だったり、境内から出されたりした町ですので、それほど驚くことではないかもしれませんよ」

 伊兵衛は康二郎の反応を面白がっているようだった。


 大きな寺社周辺に岡場所、非合法の遊廓が多かったのには、参詣参拝の集客力から、周辺が人々の欲望を満たす遊興の場と化していったことが大きかったが、公儀の支配違い、寺社奉行支配と町奉行支配との違いも関係していなくはない。いずれにしても、神明様におおらかさがなければさすがにここまではいかなかったかもしれない。

 また、伊兵衛の言うように、かつて寺社の境内だった一部が遊興の場となり、門前町となり、町奉行支配下になるという流れの途中と言えるかもしれない。


 伊兵衛が立ち止まったので、康二郎も立ち止まった。

 伊兵衛は思案げに康二郎を見下ろした。

「外で待っていただく方が危ないでしょうね……これからこの置屋へ入りますが、見るもの聞くもの、すべてが康二郎様には少々刺激が強すぎるだろうと思います。何を言われようと無視して、わたくしの後ろに隠れていてください」

「隠れる?」

「はい。何年もこの生業(なりわい)で暮らしてきた女達は、だいたいあっけらかんとしております。歯に衣着せぬところがあります。かくいうわたくしも、この中では常日頃の粗っぽい口調になります。そうでないと話がすすみません。驚きになりませぬように」

 伊兵衛はニヤリと、不敵な笑みを見せた。







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