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第三章 天明四年 春 (九)

 

 雨の中、伊兵衛に背負われて戻ってきた康二郎は、よりによって野田屋敷に帰り着く直前に眠りに落ちてしまい、門番をしていた伊三治が気を利かせて、人の行き来では殿様や要人の訪問時にしか開けない門を開けるという、奥様が知ったら苦言、嫌味、小言の山になりそうな「失態」をやらかした。

 目が覚めたときには、半間(約90㎝)ほど門が開いていたのだから、時既に遅かった。しかも伊兵衛の看板に涎をつけるという、オマケ付きだ。


「奥様にはバレませんよ。殿様、和之助様はおわかりになっても何もおっしゃいませんでしょう。門から康二郎様と入るなど、めったにできないことですから、わたくしは楽しゅうございました」

 と、伊兵衛が勝手口に向かいながら茶目っ気のある横顔を見せた時、康二郎は位置的に己が眠っている間に垂らした涎としか思えない伊兵衛の背中寄りの肩の濡れ染みに気づき、慌てて襦袢の袖口を引っ張り出して拭こうとしていた。

 救いは、眠ってしまっても傘を離さなかったことだけだった。伊兵衛にはあまり意味のないことになっていたようではあるが。

 ――最悪だ……

 しまいでの恥ずかしすぎる失態に、開き直りが得意な康二郎もしばらく立ち直れなかった。


 勝手口ですすぎを使う(足を洗う)伊兵衛に、康二郎が小声で涎のことを打ち明けて謝ると、伊兵衛はもちろん

「お気になさらぬよう。当家にご用意していただいた看板ですし、途中で一息入れることができず、わたくしが康二郎様に無理をさせてしまったせいですから」

 と、ひとしきり笑った後で言った。そして、付け加えた。

「和之助様にも内密にいたしましょう。進藤様のことも何とぞご内密に願います。康二郎様やこの御屋敷にご迷惑をかけるようなことにはなりませんし、そのようなことは決してしませんから」

 進藤の名前を出した後は暗い顔つきになっていた。

「わかったよ。しばらくは内緒にしておく。でもまた同じようなことが起こったり、しつこく伊兵衛に絡んでくるようなら、言ってくれ。これはこちらからの頼み……いや『命令』だ」

 眠りこけて涎垂らした後では、命令などと言っても格好つかないと思いながらも、康二郎は言わずにいられなかった。



 康二郎が出すぎた真似をしたかもしれない、武士にあるまじき行為と怒られるかもしれないと不安になっていた加賀屋での値段交渉は、殿様から「よくやった」とお褒めの言葉をいただいた。康二郎はホッとした。

 勘定所に勤めていたことがあり、この時代にはまだ新しかった俳諧を趣味にして、少数ながらも裕福な町人とつき合いのある殿様は、世の中の動きや流れに敏感で、色々起きている変化にも適応できているのかもしれない。

 和之助と鶴三は驚いていた。

「康二郎様は交渉ごとの才がおありのようで……」


 康二郎が確かめてきた深川の料理茶屋についても、殿様は一度行ってみようと即座におっしゃった。

 その料理茶屋は、実は昔、蜆売りをした時に康二郎からよく蜆を買ってくれた料理茶屋だ。

 しまいや所々では失敗をしでかしたが、肝心の御用はそつなくこなせたのだ。


「伊兵衛のおかげです」

 康二郎は感心する殿様にきっぱりと言った。

「伊兵衛は私が迷った時や間違ったことをしそうになるたびに助けてくれました。しかもさりげなく。本当に助かりました」



 雨の中帰ってきた七日後、康二郎は伊兵衛と再び深川へ向かった。

 康二郎が薦めた料理茶屋に予約するためだ。殿様からは料理屋への細かな指示が書付で託された。思っていた以上に大事な客の応対に使うつもりらしい。

 康二郎は少し不安になったが、最終的な判断は殿様がなさったのだからと、双方に良い結果が出ることを願った。


 今まで使ったことがない良い料理茶屋を両国橋か永代橋の近くで見つけて欲しいという殿様の要望を聞いた時、すぐに康二郎は蜆の棒手振りをしていたときに買ってくれた、深川は佐賀町の稲荷小路近くにある料理茶屋「美津濃屋(みづのや)」を思い浮かべた。

 料理茶屋なのだから、仲買いからまとめて仕入れていて、子供の棒手振りから蜆を買う必要はなかったろうに、女将は売りに行くと必ず買ってくれた。

 康二郎が母親が病気で寝込んでいるから棒手振りをしているのだと女将に打ち明けたのは、買ってくれるようになってから四、五日後だった。

 女将も板前も女中も、康二郎が言葉を交わした店の人たちは皆さっぱりした、話して気持ちが明るくなるような人ばかりだった。味の評判も地元で良かった。

 あれから六年ほど経ち、すっかり変わっているかもしれないが、一度様子を確かめよう、そうしてもしもまだあの女将が店を仕切っているのなら、一言礼が言いたいと、康二郎は思ったのだ。


 記憶を頼りに行ってみると、美津濃屋は昔と変わらずそこにあった。

「御免」と康二郎が引戸を開けたら、「いらっしゃいませ」と声だけはすぐに返ってきたが、使用人達が盆や膳に銚子や皿を載せ、あっちへ行き、こっちへ来と、忙しなく立ち働いていた。

「お食事でございましょうか?申し訳ございませんが、少々お待ちを」

 膳を捧げ持った、四十くらいの女中が康二郎に一声かけて、二階へ上がっていった。

 中食で賑わう前に訪ねたつもりだったが、早くも忙しそうだった。

  「この忙しさでは何か食べないと、女将と話できそうにないな」

 康二郎は伊兵衛に振り向いて言った。


 しばらく入り口で待った後に伊兵衛を連れて二階の座敷へ案内された康二郎は、値段を確かめてから煮物と飯を二人前注文し、手が開いたら来てほしいと女将への言伝てを頼んだ。

 料理を持ってきた女中は康二郎の前に膳を起きながら、顔をじっと見てきた。

「失礼とは存じますが、お武家様とは前にお会いしたことがありますでしょうか?」

 康二郎は頷いた。その女中こそ、初めてここへ蜆を売りに来た康二郎を女将に知らせてくれた人物だ。

 ――名前は確か……

「おぬいさん、でしたね?私は六年ほど前にこちらに蜆を売りに来ていた子供の棒手振りです」

 康二郎は自分を覚えてくれていたのが嬉しくて、ほころんだ顔で答えたのだが、おぬいは顎が外れたのではないかと心配になるくらい大きく口を開けたまま、しばらく固まってしまった。

 その後は怒涛の展開だった。


 次から次へと棒手振りの康二郎を覚えている奉公人が仕事を抜けて二階へやって来ては「あの小さな可愛らしい棒手振りがお旗本の若様だったとは!これは驚いた!」を様々な言い方で繰り返しては仕事に戻っていった。

 女将は康二郎の成長した姿に、涙を浮かべて喜んだ。

 康二郎があのときは本当に助かった、ありがたかったと礼を言うと、女将は大したことはしていないと笑った。どうして自分から蜆を買ってくれたのかと訊ねると、

「あそこまで幼い棒手振はあまりいないし、天秤桶を引きずりそうになりながら、明るく呼び込む姿があまりに健気で、放っておけなくて……」と答えた。

「今度、この店を殿様の御用に使いたいのだが、構わぬか」と申し入れると、「手前どもの店で宜しければ、喜んで勤めさせていただきます。ご推挙いただきありがとうございます」と返ってきた。

「康二郎様、これからもお気軽にお越しくださいね」

 そう言いおいて階下へ降りた女将が、「ほんと、情けは人のためならずだよ」と奉公人達に言ったのが康二郎にも聞こえた。



 具体的な指示を手に再び美津濃屋を訪れた康二郎と伊兵衛を女将は奥座敷へ通し、新しい料理の試食という形でもてなした。

 打ち合わせは順調に進み、半刻(約1時間)ほどで康二郎は美津濃屋を後にした。


 七日前は佐賀町から北へ向かい、藤兵衛長屋へ立ち寄ったが、この日は佐賀町から北西へ、永代橋を超えて日本橋北側の按針町の加賀屋へ向かった。

 この日も加賀屋が最後の御用で、あとは日本橋を南へ渡って芝口まで南下し、そこから久保町にある中居道場へ向かうつもりだった。


 加賀屋での用を済ませて南下し、新橋が見えてきたときだった。橋の手前の茶屋から出てきた若侍に康二郎は見覚えがあった。

 ――佐太郎さんではないか?








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