第三章 天明四年 春 (八)
「分かった。あそこにいる、五人の供をつれたお侍だね?あの先頭を歩くお侍は伊兵衛を見てるよね?」
伊兵衛は答えなかったが、ぐいと康二郎を背負い直した。
五人の供を引き連れた侍は、道の反対側を歩いていたのに、近づくにつれ、伊兵衛が歩いている側へ徐々に移動してきた。
伊兵衛が大きく息を吸い込むのがわかった。
「俺をおろしたほうがよくないか?」
康二郎は伊兵衛の耳元で囁いた。
伊兵衛は返事としてわずかに首を横に振った。
二間ほどの距離に近づいたとき、
「久しぶりだな、伊兵衛。元気そうで何よりだ」
先頭の侍は馴れ馴れしく、薄ら笑いまで浮かべて声をかけてきた。
かなり大柄なことは遠くから見てわかっていたが、近づいてみると、下駄をはいているにしても、背丈は伊兵衛とほぼ同じだった。体躯はがっちりしていて、伊兵衛より幅も厚みもあるから、一見しただけではこの侍の方が大きく見えるかもしれない。年の頃は三十から三十半ばに見えた。顔立ちそのものは整っている方の気がした康二郎だが、顔つきが頗る悪い。いわゆる悪党面だ。
侍は伊兵衛の返事を待たず、更に続けて言った。
「かわいらしいのを背負っているではないか。お前の色子か?それともお前は今はまわしをしているのか?」
――まわし?
この時の康二郎は知らなかったが、また、知らなくてよかったと言えるのだが、「まわし」とは、金剛とも呼ばれる、遊女や蔭間の付人のことである。
伊兵衛が怖気をふるったように康二郎は思った。
康二郎はというと、頭にきてもう少しで言い返すところだった。言った内容も無礼極まりないが、何より侍の伊兵衛を見る目つきと言い方に康二郎はぶちきれそうなほど腹が立った。
――いくら相手が中間でも町人でも、あそこまで馬鹿にしたような、嘲った言い方をしてよいものか!
「三千石の進藤様でもご無体な。背負っているのは、わたくしが今ご奉公している御旗本の若様です。録高は違っても、進藤様と同じ御旗本でございますよ」
伊兵衛はつとめて冷静に答えようとしていると、康二郎は思った。
――三千石!
康二郎は伊兵衛が口を開くなというわけだと納得した。
悔しいことこの上ないが、三千石が相手では迂闊なことは言えない、できない。そうしていくら大身の旗本でも、あの言い方はやっぱり許せないと思った。
「どうだ、わしについて来ぬか?これから神明前の茶屋で宴だ」
まさか誘ってくると思わなかった康二郎は、呆気にとられた。もちろん、こんな連中の酒の肴にされるのは真っ平ごめんである。
「申し訳ありませぬが、一刻も早く若様をお屋敷にお連れしなければなりません。これにて……」
伊兵衛は一礼して主従一団の横を通り過ぎようとした。
いきなり侍が手を伸ばして伊兵衛の肩をつかもうとした。
伊兵衛は素早く飛び退いてその手に空を切らせた。
もう少しで別の通りがかりの町人にぶつかるところだったが、伊兵衛に慌てた様子がなかったところを見ると、計算済みだったようだ。
背中に康二郎という大きな荷物を背負いながら見事な動きを見せた伊兵衛だが、康二郎が驚いたことに、その両肩は震えていた。
「ずいぶん嫌われたものだな」
進藤という侍は三千石の旗本らしからぬ下卑た笑いを浮かべた。
その顔を見たとき、反吐がでるとはこのことだと康二郎は思った。思い返すと、あの抜き身を振り回された夜にも、松平卓之助や中山照之助に、ここまでの嫌悪は感じなかった。
――何なんだ、この人物は?
とにかく言動が悉く不快だった。
よく見たら、供も四人は薄ら笑いを浮かべて主と伊兵衛のやり取りを眺めている。傘を差している小者だけが心配そうに主と伊兵衛を見比べていた。
「ふっ。お前の『若様』がわしを睨み付けておる。よく仕込んでおるな」
――「仕込む」たぁ、なんだ!
「まぁ、そう肩をいからせるな、伊兵衛。『若様』を屋敷へ届けたら、佐野屋へ来い。場所は知っておるだろう。楽しもうではないか。どうせ短い人生だ」
康二郎には伊兵衛が叫ぶか泣き出すかするのではないかとまで思えた一瞬があった。
――それほどまでに伊兵衛はこの進藤という旗本を嫌っている……
背負われているからこそ、康二郎にわかった短い間の驚くほど激しい感情の動きだった。
「……今度、もしもまたこのようにお会いすることがありましたら、その時に考えてみます。今日はこれにて」
内心の激情を見事に圧し殺し、伊兵衛は淡々とした口調でそう言うと、さっと駆け出した。直後には通りかかった駕籠の後ろを横切り、盾にした。
しばらく走った後で、後ろを気にしながら伊兵衛が言った。
「康二郎様、早く帰らねばなりませんが、今日は少し遠回りさせてください。申し訳ありませぬ……」
「伊兵衛に任せるよ。大変なのは伊兵衛だ。無理だけはしないでくれ。お願いだから」
お願いだからが思わず口をついて出ていた。
伊兵衛は答えず、複雑な道を取りはじめた。
「伊兵衛、あの進藤とかいう旗本のこと、少し聞いていいか?」
しばらく我慢したが、やはりどうにも気になるので、康二郎なりに言葉を選んで言った。
「進藤様は前に一季ご奉公したお武家様です」
「それで妙に馴れ馴れしかったのか。進藤……なんていうんだ?」
伊兵衛が答えるまでに少し間が空いた。
「進藤修理亮様です」
「進藤修理亮……」
康二郎には名前に覚えがなかった。
良くても悪くても、噂は広がるるものだ。先ほど目の当たりにした言動からは信じられないが、悪い噂は流れていないということになる。
「それにしても嫌なヤツだ。何があったか知らないけど、伊兵衛が嫌うのは当たり前だ。殿様がああだと、奉公人も似たようなのでないと続かないんだろうな」
「……そうですね。私も一季が我慢の限界でした。あのお屋敷に勤めた間に良い思い出は一つもごさいません」
「よく一年も我慢できたな。あんなのに仕えるなんて、俺ならたぶん二月も持たないよ。欠落を考えたりはしなかったのか?」
「一季奉公をはじめてまだ二季目でしたから、欠落しては人宿に次の仕事を紹介してもらえないのではないかと恐れたのです。母と妹に迷惑をかけるのではないかとも……当時は本当に世間知らずでした。どこへ行ってもあまり変わらないと脅され……ふふっ。良い思い出はありませんが、わたくしが喧嘩に強くなったのは、あのお屋敷で揉まれたことが大きいですね」
「お屋敷内で喧嘩がしょっちゅうあったってことか?」
喋り過ぎたと思ったか、伊兵衛は黙りこんだ。それ以上詳しいことを話す気はないようだった。
中間や小者の数が多い大名や大身の旗本の屋敷では、よく新入りが虐められるという話を康二郎は耳にしていた。中間や小者だけではない。幕府の各役所でも新入り虐めはよく起こっているらしい。時々いたぶりに耐えかねて、刃傷沙汰が起こっている。
――どうして人が人を虐めるのだろう?
ふっと野田の奥様とおみつが康二郎の頭に浮かんだ。そう、野田屋敷にはこの二人がいた。
だが二人が目の敵にしているのは康二郎であって、まさか伊兵衛を標的にすることはないだろう。そう康二郎は思った。
――まぁ万が一、伊兵衛に何か仕掛けたところで、あの進藤とかいう殿様よりはかわいいものに違いない……
康二郎はとにかく伊兵衛に気分よく、嫌な思いをすることなく野田家で勤めてもらいたかった。
「野田の屋敷ではそんなことは起こっていないし、これからも起こらないと思うんだけど、もしも、もしも、何か困ったことや嫌なことがあったら、遠慮なく言ってくれ。俺は頼りないけど、兄上が改善してくれると思う。あの三千石の穀潰しみたいな奴のことも、しつこいようなら、兄上に相談してみようよ。策か人か、何か対策を見つけてくれると思うんだ」
伊兵衛は康二郎が「三千石の穀潰し」と言った直後にくすりと笑ったようだった。
「お気遣いありがとうございます。痛み入ります。ですが、進藤様のことはわたくしだけでケリをつけます。大丈夫です。前にご奉公していただけのことですから」
伊兵衛は一体どんな表情をして言っているのかと、康二郎は思った。
伊兵衛が野田屋敷にやって来た初日、道場からの帰り道に口にしたことが、康二郎はずっと気になっていた。
――進藤屋敷で奉公していたときのことなのだろうか?
伊兵衛は黙々と歩いていく。途中で右に行ったり左に戻ったりしながら、溜め池の側へ出た。
野田屋敷まではあと少しだが、登り坂が続く。康二郎は伊兵衛の疲労が心配で仕方ない。
――いくら鍛えていて、丈夫だっていっても、かれこれ一刻近くも俺を背負い続けている……
「伊兵衛、腕がだるいだろう?一息入れよう。あとをつけてくる奴もいないみたいだし。俺は腹が減って仕方ない」
腹が減って仕方ないのは本当だ。最近は食べても食べても、すぐに腹が減る。
「当初は新橋を越えた辺りで一息つくつもりでいたのですが……ここまで来たら御屋敷に戻ってしまいましょう。空腹がお辛いかもしれませんが、今しばらく我慢なさってください」
伊兵衛は申し訳なさそうな横顔を康二郎に見せた。
「いや、俺の腹具合より、伊兵衛の腕や肩の方が問題なんだよ。無理しないでくれって言ったろう。真剣に言ってるんだから!」
早足になった伊兵衛に思わず最後は声が大きくなった。
雨が横殴りになってきた。




