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第三章 天明四年 春 (七)

 

 この日の最後の御用とは、按針町に新しくできた乾物屋、加賀屋を訪れることだった。

 武士の暮らしは贈答だらけである。贈る品物は鰹節や昆布など日持ちのする食べ物が中心で、野田家はこれまで、そうした乾物の贈答品には本船町の伊勢屋を使っていたのだが、五太夫に勝手にいくつか取引を打ち切られたのを良い機会ととらえ、諸色高の世の中、商家の盛衰も激しいため、取引する店の見直しをしようということになった。


 そこで近所の旗本や奉公人から最近評判の良い店を聞き取り、その中から和之助が十店を今後の野田家御用達候補として選び出し、この日、康二郎はその十店のうちの五店を実際に訪れ、値段や品質、客への対応を見るという、かなり重要な任務を遂行していたのだ。

 他にも殿様が作った句を殿様が師札をとっている宗匠に持っていくことと、それほど高くない、手頃な値段で美味しい料理を出す、小綺麗な料理茶屋を見つけることも、この日の任務に入っていた。

 なにせ便利な通信機器のない時代である。情報の伝播は基本、口コミだ。確かめるには実際に行ってみるしかない。


 実は加賀屋を訪れたのは、この日二度めだった。

 朝のうちに訪れてみたら、あまりに忙しそうで、声をかけづらく、帰りにもう一度来てみようとなった。

 伊勢屋に不満があるわけではないから、もしも加賀屋に伊勢屋以上の利点があれば……程度の冷やかしに近い用では、暇なときでないと、話しづらい。


 そこで藤兵衛長屋を訪ねたりして時を潰し、八つ半頃(午後3時頃)に戻ってみたら、朝早い鮮魚を扱う店はもう店じまいにかかっていて、加賀屋の店先にも人が少なくなっていた。

 これならじっくり店の様子も見れるし、話も聞けると、康二郎は伊兵衛を従え、店に足を踏み入れたのだが、その時点ではもちろん値段交渉までするつもりはなかった。


「見事な策を思いついておいでではありませんか。康二郎様はなかなか油断なりませんな」

 加賀屋を出てしばらく歩いたところで、伊兵衛が言った。

 朝のうちは晴れていたのが、昼前には曇り空になり、加賀屋から出てみたら、強い風が吹いていた。被っている笠が風に煽られる。康二郎は笠を被ったことを後悔し、はずしかけたところだった。


「あそこまで話を進めて良かったのかなとも思うけど、置いている品はしっかりしていたし、丁稚や手代の表情や対応も良かったし、良い店だと思って、それに……」

「それに……なんでございますか?市郎兵衛殿のお人柄ですか?」

「うん。昔、棟割長屋に住んでいた時に助けてもらった人に似てたんだ。一見厳しそうだけど、話せばわかってもらえる気がして……」

「市郎兵衛殿は康二郎様に好感を持ったと思います。それが野田家と商いを進める一番の理由になったようにわたくしには思えました」

「そうなのかな。そうだといいけど」


 康二郎は出すぎたことをしたかもしれないと思い始めていた。久しぶりに町地をあちらこちら歩き、嘗て住んでいた長屋も訪れたことで、棟割長屋に住んでいた幼い頃の感覚が甦り、二本差していることを忘れかけていたようにも思えた。

 ――やはり俺は武士に向いていないのではないかな……町屋を歩き回るにつれ、へとへとになるどころか、元気になってきた気がするものな……

 そんなことを考えているうちに日本橋の袂に着いた。

 この辺りは相変わらずの賑わいだ。

 反り橋の上は更に風が強い。

 橋を渡る人々は上りでは強風で一段と前屈みになり、下りでは風に押されて後ろへ仰け反りぎみになっている。


 康二郎は笠を飛ばされないよう手に持ち、橋を渡り始めたのだが、この日の盛り沢山な出来事を思い返していくぶんぼんやりしていたかもしれない。

 突然、前を歩いていた手代風の男が倒れてきたのだ。  

 康二郎は咄嗟にその倒れてきた男の背中を両手で支えた。

 だが倒れてきたのは一人ではなかった。手代らしき男はどこかの丁稚に鳩尾の辺りに頭突きを喰らっていたのだ。

 さすがに二人は支えきれないかも……と思った時、康二郎の後ろから伊兵衛の手が伸びてきて、倒れてきた二人をまとめて支えてのけた。さすがである。


 何事が起きたのかと思ったら、橋を勢いよく駆け上ってきた粗忽者(そこつもの)の丁稚が下りに変わっての体勢変えに失敗し、転びかけたところで、反対側から上ってきていた手代風体に頭からぶつかったらしい。


「お侍さま、お供の方、本当にありがとうございました」と二人に礼を言われた後で、康二郎はやっと気がついた。

「あれ?笠……」

 真上も雲が覆っているが、これから向かう(ひつじさる)(南西)の方角には更に重たく暗い雲が広がっている。

「笠なら、先ほどあの手代を支えようとなさった時に放り投げていらっしゃいましたよ。川に落ちたのではないかと思います」

 放り投げてしまっては、伊兵衛にはどうしようもなかっただろう。

 咄嗟に、しかも全く自分では気づかずににそんなことをやってしまっていたとは、康二郎は自分に笑えてきた。


 伊兵衛が相も変わらず落ち着いた声で言ってきた。

「わたくしが傘を持っておりますから、なんとかなりましょう」

 伊兵衛も南西の空を覆う濃灰色の雲を見ていた。

「俺は雨に濡れるのは平気だ。傘は伊兵衛が差せば良い」

 康二郎なりに伊兵衛に気を使わせまいと「主らしく」言ったつもりで歩き出したのに、左の草履が足についてこなかった。

「なんでこんなときに鼻緒が切れるんだよ!」

 伊兵衛がクスリと笑った。


 朝から歩き回って草履がかなりくたびれてきていた上に、さっきの騒動で強く踏ん張ったせいだろうが、腹立たしいやら、情けないやら、である。

「鼻緒くらいすぐ直せるさ」

 気を取り直し、懐から手拭いを出して裂こうとした康二郎の手を伊兵衛が止めた。

「すぐに雨が落ちてまいります」

「でも……」

「傘をお持ちください」

 伊兵衛はさっさと履いていた草履を脱いで懐に入れた。木刀と一緒に帯の後ろに差していた傘を康二郎に渡して木刀は左腰に差すと、康二郎の前に背を向けてしゃがんだ。

「これで全て解決いたします。わたくしが康二郎様を背負いますから、雨が降ってきたら傘をさしていただけますか」

「お、おぶされというのか」

 康二郎は思わず周りを見回した。

 二十歳くらいの女が供の女中と共にクスクス笑いながら通りすぎた。伊兵衛との会話を聞いていたとは思えないが、康二郎は顔がカーッと熱くなった。


「康二郎様、これをおかぶりになりますか?」

 動かない康二郎に実は業を煮やしているのかもしれないが、変わらぬ穏やかな声と表情で伊兵衛は康二郎に向き直り、懐から紺色の布を出してきた。

 ――袖頭巾だ。おたまさんだな。

 康二郎はおたまと伊兵衛の手回しの良さに感心と不満が混ざり合い、うんともすんとも言えなかったが、伊兵衛はさっさと頭巾を康二郎の頭に被せてきた。

「急ぎませぬと日が暮れてしまいます。それから康二郎様のお刀はしばらく伊兵衛が手に持たせていただきます」

 穏やかに言っているのに有無を言わせない、強い何かが伊兵衛にあった。

 伊兵衛が袖頭巾を整えたところで、康二郎はおとなしく刀を渡した。



 そうではないかと思っていたが、康二郎を背負ってさっさと歩く伊兵衛の早さは、康二郎の軽い駆け足の早さに匹敵した。大きな荷物無しで普通に歩けば康二郎の倍以上の歩幅で、康二郎の後ろを歩いている時の四倍以上早く歩けるのだろう。

 そうして、いつもより高い位置から見る景色は新鮮だった。

 これは楽しいと康二郎は思ったが、外に出さないようにした。伊兵衛は腕がさぞかし痛くなることだろう。

 こういう時には話しかけたほうがいいのか、黙って背負われているほうがいいのか、あまり背負われ慣れていない康二郎は迷った。

 考えてみれば、長屋に住んでいた幼い頃に母のお松と、足を挫いた時に今も同じ長屋に住んでいる振売りの駒蔵(こまぞう)に背負われて店へ帰った記憶があるくらいだ。


 歩き出してまもなく、京橋の手前で上から雫がポツリポツリと落ちてきた。

 康二郎は傘を開いて右手に持ったが、柄を伊兵衛の右肩に置いているようなものだった。そうしないと、伊兵衛の顔や頭が濡れてしまう。

 伊兵衛はすぐに「うまい手を考えてくださいました。それで結構です」と言ってきた。


 ポツリポツリと降り始めた雨は、間もなくしとしと降りに変わった。

 雨が降ると、土の道はあっという間に泥道になる。

 先を読んで裸足で歩いていた伊兵衛だが、すぐにぴちゃぴちゃと下から水の跳ねる音が聞こえ始めた。

 道の両側に続く、犬走(いぬばしり)と呼ばれる三尺もある店先の庇の下は、雨を避けて歩く人々でごった返している。

 開き直ったように裸足で道の中程を歩いているのは男ばかりだ。

 元々男の方が多い江戸だが、それにしても見事に男ばかりだった。

 伊兵衛のように大柄で犬走の下は低くて狭いというような人物だけでなく、小柄な初老の番頭らしい人物も犬走の外を裸足で傘を差しながら歩いていた。


 康二郎はなるべく伊兵衛の邪魔にならないようにと思い、左手を伊兵衛の首に回し、頭でも傘を支えて安定させながら、流れていく景色を眺めていた。

 康二郎の直さないといけない癖の一つは頭そのものを、比喩ではなく物理的に、使うことを躊躇わないことだと、前に和之助が言ったことがある。

 屋敷に帰りついたら、あちこちほつれていたり形の崩れた康二郎の髷や髱を見て、和之助はまた呆れるかもしれない。


 伊兵衛はあっという間に新橋を越えた。とはいえ、野田屋敷まではまだまだ遠い。

 康二郎はだんだん眠くなってきた。

 ――いかん。寝ては傘を落としてしまう。寝るんじゃない……

 と、思っている間に意識が遠退く。


 突然、伊兵衛の身体が強ばった。立ち止まりはしなかったが、急に歩く早さを落とした。

 おかげで康二郎はうつら……としかけたところを引き戻された。慌てて傘の位置を確認した。変わっていない。

 ホッとしたのと伊兵衛のとてつもない緊張が伝わってきたのは同時だった。


「伊兵衛、どうしたのだ?」

 顔を上げて前方を見たら、十間くらい離れたところを五人の供を連れた侍がこちらに向かって歩いていた。

 それなりに人通りはあったのだが、その一団の異様な雰囲気が康二郎の目についた。ちょっと当たっただけで、無礼打ちをくらいそうな、時代錯誤の剣呑な雰囲気を纏っていたのだ。

 六人のうち、剣呑な雰囲気でないのは、先頭を歩く侍のために後ろから傘を差している小者一人だけだった。

 それにしても、裃姿の登城、下城ならともかく、どう見ても私用の羽織袴での外出に、今時五人も供を連れ歩いているというのは、相当な高禄ということだ。

 ――あのお侍、伊兵衛を見ている……

 辺りは雨雲のせいでかなり暗くなっていたが、康二郎にはそう見えた。

 康二郎には伊兵衛の後頭しか見えないから、剣呑な雰囲気を纏う侍を見ているのかどうかわからなかったが、意識はしていると感じた。


「康二郎様、これから何が起ころうと、決して口を開いてはなりません。急に走り出すかもしれませんから、気を抜かず、しっかりわたくしに捕まっていてください」

 伊兵衛が少し横を向いて、康二郎に囁いてきた。







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