第三章 天明四年 春 (六)
懐かしい長屋での一時は、康二郎に功罪をもたらした。
藤兵衛やおきわばあさんとの再会は康二郎の気持ちを明るくし、末吉も左官修行を頑張っているのだと思うと自分もしっかりしなければと励みになる。だがおきみのことを考えると気分が沈む。考えずにもいられない。
宇兵衛かその妻、おこんに直に話を聞きたかったが、宇兵衛一家は長屋の店にも周辺にもおらず、藤兵衛もあの後は詳しいことは知らないの一点張りで、中途半端な気持ちで藤兵衛長屋を後にしたせいもある。
長屋へ立ち寄ったあとにまだもう一仕事あるのに、康二郎の気持ちは定まらなかった。
伊兵衛にはそんな康二郎の心が丸見えらしく、両国橋を越えたところで
「康二郎様、次は元老舗の番頭が相手でございましょう。この辺りで一息入れて心を落ち着けたほうが良いと存じます」
と提案してきた。
そうだねと相槌をうった康二郎を、伊兵衛は葦簀張りの間口の狭い茶屋へ案内した。
茶屋に向かいながら、「二十五両は、俺には大金だけど、なんとかなる額じゃないのかな……」
と、思わず呟いた康二郎に、「宇兵衛一家をよく知らないわたくしがこんなことを申し上げるのはなんですが……」
と前置きし、伊兵衛は告げた。
「宇兵衛さんも藤兵衛さんも本当のことを言っていないと思います」
康二郎は驚いて伊兵衛の顔を見上げた。
「宇兵衛さんの借金は、おそらく、いえ、まず間違いなく、博奕に手を出したからでしょう。きっかけは酒や暮らしの費えのためだったのでしょうけどもね。借金の金額も全くの嘘ではないにしても、ごまかしていると思います」
言われてみれば、昔から宇兵衛に小さな嘘をつく傾向が無いことはなかった。
会ったこともない伊兵衛がそんな宇兵衛の気性を見抜いたことに驚いたが、さらには……
「藤兵衛さんも俺に嘘をついたというのか?」
「藤兵衛殿が康二郎様に嘘をついたのは、博奕でこしらえた借金ということだけだと思います。守られていないことが周知とはいえ、博奕は御法度です。奥御右筆の御子息である康二郎様に御法度を破っての借金と言うのは憚られたのでしょう」
伊兵衛の言うとおり、藤兵衛が自分に本当のことを言わなかったとしたら、康二郎は寂しいと思った。康二郎の方は変わらず接してほしくても、中身は変わっていなくても、旗本の子息として現れれば、藤兵衛や長屋の住人は、以前のように接することはできないのか。ただ、ただ再会を懐かしがっていた自分は、以前と変わらないつもりでいた自分は、間抜けだったことになる。
伊兵衛が康二郎を連れてきた茶屋は、表からは狭く見えたが、中へ入ると案外広くて、緋毛氈を敷いた縁台が九つも並んでいた。客は二組だけだった。
川べりに置かれた縁台のひとつに二人は大川を向いて座った。
伊兵衛が茶店の小女に団子とお茶を二人前頼んだのだが、その気さくな様子からすると、小女は伊兵衛の知り合いらしかった。
すぐに小女はお茶と団子を持ってきた。「ごゆっくり」と言いながら、小女がさりげなく康二郎を品定めしたのがわかった。
知り合いなんだねと康二郎が尋ねようとしたら、先に伊兵衛が話しかけてきた。
「おきみさんは康二郎様の初恋のお相手ですか?」
康二郎は水面を見つめた。
「わからない。大好きだったけど、恋だったかな……末吉とおきみは年が近いからよく一緒に遊んでいたんだ。でも俺が一番年下で身体も小さかったから、おきみには世話を焼かれてたところもある……」
「康二郎様は女子に好かれますからね」
伊兵衛の顔を見上げると、笑ってはいなかった。からかっている風もない。
「伊兵衛こそ女子に好かれるだろう」
康二郎はここぞとばかりに言い返した。
「そうでもございませんよ。大男は怖がられることも多いのです。それにわたくしは少々変り者ですので」
伊兵衛はどこか茶目っ気と不敵さの両方を感じる不思議な笑みを見せた。
「そうなのか?伊兵衛のどこが変り者なのか俺には全然わからないよ……って、俺の方がもっと変わり者だからか」
自問自答してしまった康二郎に伊兵衛は吹き出し、そのまましばらく俯いて肩を震わせ、笑い続けていた。
その横で康二郎がすまして団子とお茶を喫し続けたのは、得意の開き直りである。伊兵衛が野田屋敷にやってきた初日に和之助と珍しく言い合いをする羽目になったことが、この開き直りの元だ。
それほど腹はすいていないと思ったのに、いざ食べ始めたら、いける、いける。
「団子をもう一皿たのむ」
あっという間に一皿平らげ、康二郎は茶店の小女に追加を頼んだ。
伊兵衛は小女が追加の団子を持ってきた後にようやく康二郎に顔を向けた。
「康二郎様には全く裏表がございませぬな。わたくしなどにはまぶしいくらい素直でいらっしゃる」
「頭が悪いだけだよ。策なんか思い付かない」
「策を思い付くのが頭の良い証しには必ずしもなりませんね。渡りの中間をやっているとよくわかることです。おきみさんが売られたという室生屋ですが……」
康二郎は団子を食べる手を止め、伊兵衛の顔を見た。伊兵衛は康二郎の目を見ている。
「わたくしの耳に聞こえてきた限りでは、遊女屋としては評判の良いところです。お抱えの遊女を使い捨てるように雑に扱う店が多いのですが、室生屋では揚がりの良い遊女は大切に扱っているといいます。より稼いでもらおうという魂胆ですが、店側が相応に配慮するというのは、残念ながら多くはありませんので。あそこから請け出せるのはしっかりした人物だけらしいですし、器量がよければ、すぐに請け出されますよ」
「……請け出される相手は選べるのか?嫌な相手なら断ることができるのか?金持ちが変な人じゃないとは限らないし、表の評判と裏では違うこともあるし……」
康二郎の心配は尽きない。
「相手を選んでいてはなかなか請け出してもらえないでしょうね。どちらを取るかでしょう。どの遊女屋も相手の身上は確認するようですよ。後々面倒に巻き込まれたくはないですから」
康二郎は長屋で暮らしていた間に、女房達のお喋りで遊女がらみの噂話をいくつか耳にしていた。好きでもない人に請け出されての妾奉公から、うまく旦那をだまして間夫とずらかったとか、請け出されたものの、すぐに飽きられ、ろくに手切れ金ももらえずにお払い箱になった話など、一癖も二癖もある話だ。
癖のある話だから、噂として広まったのだろうが、事実無根とは思えないだけに、康二郎は気になる。
そもそも好きでもない人と「雲雨の交わり」して暮らすというのが、康二郎には辛苦にしか思えない。
――おきみは毎日つらくて泣いているのではないだろうか?
もしもあの時、照之助達に辱しめられていたら、康二郎は自害したかもしれないと思うのだ。
――突然の襲撃ではなく、覚悟した上でのこととはいえ……
隣でゆっくり茶を飲んでいる伊兵衛の横顔を見たら、康二郎は和之助が言ったことを思い出した。思わず「酒屋での奉公でつらい目に遭ったのか?榊原殿と暮らしていた時もつらくなかったか?」と聞きそうになった。そんな自分に一気に全身から汗が吹き出るくらい焦った。
――俺はなんて無礼な奴だ!伊兵衛はただ榊原殿の屋敷で奉公したとしか言っていないのに、いきなりそんなことを聞こうとするなんて……
康二郎は焦りと動揺をごまかそうとして団子に手を伸ばした……つもりが、湯飲みに手が勢いよく当たってしまった。手が痛かったくらいの強さだ。湯飲みは斜め前方に吹っ飛んだ。
――しまった!割れてしまう!
と言葉になる前に、康二郎は立ちあがりながら手を伸ばし、湯飲みを追いかけていた。
目の前に川があるということは、前方に平らな地は少ない。湯飲みには手が届いたが、その時、康二郎が前に出していた足の前半分には地面がなかった。
――落ちる!
康二郎は川へ落ちるのを覚悟して湯飲みを咄嗟に胸元に抱えた。
その瞬間、後ろから胴を大きな両手につかまれ、ぐいと強い力で平らな所へ引き戻された。
「康二郎様、湯飲みより康二郎様の御身の方が遥かに大事です。湯飲みなど捨て置かれなされませ」
頭の上から相も変わらず落ち着いた伊兵衛の声がした。
「お若いお武家様なのに、商いのことをよくご存知で」
元老舗雑穀問屋の番頭である加賀屋の主人、市郎兵衛は、康二郎の提案に口もとだけほころばせて言った。目は笑っていない。
「いや、知らぬがなんとやら……です。しかし、市郎兵衛殿ほどの商人ならば、そういう仕入れを遅かれ早かれするでしょう?野田家の御用達になれば、この店の宣伝にもなる。そちらの大きな儲けに繋がる……」
――そういう仕入れをしていないわけがない。
そう思いながらも、康二郎は相手に話を合わせておいた。
午前中に訪れた四店では先方の言う価格や条件をただ持って帰ることにした康二郎だが、この加賀屋では思いきって商談に入った。
早めに大量の注文を入れるから、少し割り引いてもらえないかと持ちかけてみた。
康二郎は一月ほど蜆売りをした間に、仲買同士の会話や仲買と問屋との会話を何度も耳にしていた。
仲買はこれだけ大量に仕入れるのだから、或いは残りを全部買い取るから、いくらか割り引けということをよく言っていたものだ。そうして問屋は初めは断っても最終的には折れていた。
どれだけ利を得ようとするかだが、近々組頭に出世するのではないかと言われている奥祐筆の御用達となれば、かなりの宣伝効果があるのだから、少々利が薄くなっても、店を開けてまもない加賀屋にとって受ける価値があるはずだと康二郎は踏んでいた。
いきなり駆け引きをしようと思ったのには、理由があった。
加賀屋の主人を見たとき、康二郎は藤兵衛長屋の近くにあった豆腐屋の主、嘉助を思い出したのだ。一見頑固なように見えて、柔軟さを持っていた。気難しそうで、いざ話してみると、色々融通をつけてくれる優しさがあった。
康二郎は嘉助と掛け合った記憶を手繰り寄せながら、市郎兵衛に話を切り出したのだった。
「今回は双方試しとなるのだし、この辺りで折り合えるのではないか」
康二郎は番頭が持ってきた算盤をはじいて額を提示した。
市郎兵衛はしばらく黙って算盤を見ていた。
「誠に失礼とは存じますが、康二郎様はどのようなお育ちで?」
嘗ては棟割長屋に住んでいて、蜆の棒手振りをしたこともあり……というのはさすがに不味いと、康二郎が答えにつまったら、挨拶した後はこのときまで一言も発せず市郎兵衛と康二郎のやり取りを後ろで見守っていた伊兵衛が口を開いた。
「康二郎様はお母上様がお武家のご出身でないこともあり、ご幼少のころ、町屋で暮らしていた時期がおありです。それから今は亡き野田家の御用人様が康二郎様のご養育を担当されたことから、お小さい頃から、家宰に関してのお話を色々お聞きになったそうです。市郎兵衛殿が驚かれるのも無理ないかもしれませぬ」
――なるほど。そういう言い逃れ……じゃない、まとめ方があったか。
康二郎は伊兵衛の「まとめ」を覚えておこうと思った。
市郎兵衛は伊兵衛から目を康二郎に戻すと、初めて目に柔らかな光を浮かべた。
「よろしゅうございます、康二郎様。わざわざお越しいただきましたし、御提示の額にてお引き受けいたします。覚え書を用意いたしますので、しばしお待ちを」
「かたじけない」
康二郎はにっこり笑ってみせた。本音ではホッと大きく息をつきたいところだった。




