第三章 天明四年 春 (五)
康二郎は長屋の木戸の上に掲げてある札を一つ一つ確認していった。
――呑んだくれの熊蔵じいさん、まだ生きてるんだ。政吉さん……って、いたっけな?喜平次?……ああ、おきわ婆さんのお孫さんだ。駒蔵さんもまだここに住んでる……
中には札を揚げていない店もあったが、康二郎が母のお松とこの本所亀沢町にある藤兵衛長屋の棟割長屋の一角に住んでいた、およそ五年半前から、それほど住人は入れ替わっていないようだった。知った名前が半分以上ある。
札を確認し終えて木戸を潜ろうとした康二郎に後ろから声がかかった。
「いきなり中に入っていくよりも、まずは差配の藤兵衛さんにお会いなさるのが良いのではないですか。今では康二郎様は立派なお侍です。長屋の住人は驚きますよ」
相変わらず穏やかな伊兵衛の声だ。
朝からずっとこの調子だった。
殿様の御用をこなすために江戸の町を歩き回っているのだが、康二郎が不味いことをやらかしそうになる度、伊兵衛があるときはさりげなく、あるときははっきりと、どちらにしても口調は穏やかに、康二郎を制したり助太刀したりで、正しい方へ導いてくれていた。
殿様の御用はそれで仕方がないにしても、かつて暮らした裏店の近くを通りかかったらどうにも我慢できずに急遽立ち寄ることにしたという、自分で作った自分のための用ですら、伊兵衛に諭されようとは。
――これじゃあ伊兵衛は俺の用心棒というより先生だ。子守り役だ。こんなことが続いたら、伊兵衛は俺と歩き回るのが嫌になるのではないか。
康二郎は自分が情けなくなった。
――そんな失敗続きなのに「立派なお侍」だなどと、煽てるにもほどがある。
失敗がなくても、背丈およそ六尺三寸の伊兵衛に「立派なお侍」と言われては、五尺少々の康二郎はむずむずして仕方ないところだ。
康二郎はむすっとして後ろを振り向いた……つもりだったのだが、伊兵衛がプッと吹いた。
「あ、申し訳ありませぬ。どうしてそのような恨めしそうな顔をなさるので?」
一応は謝っておきながら、ふふふ…と伊兵衛の笑いは続いている。
「俺のことを『立派なお侍』だなんて、滑稽本のネタにしかならないよ」
少し離れたところにいた伊兵衛は、ここで康二郎の目の前にやって来た。かかった歩数は二歩である。そして康二郎と目線を合わせるようにしゃがんでから言った。
「康二郎様はまだ十五才なのですから、小柄で顔つきもあどけなくて当たり前。失敗しても当たり前。大事なのは立ち居振る舞いです。康二郎様の立ち居振る舞いは、堂々としておいでだ。立派なお侍です。自信をお持ちなさいませ」
和之助の言うように、伊兵衛の目は人柄を現しているのだろう。暖かみがある。大男にそんな目で見つめられながら世辞を言われると、そうなのかなと思えてくるから恐ろしい。
伊兵衛が野田屋敷にやって来て、五日が過ぎていた。
前髪を落としてまだ一月半ほどしか経っていない康二郎は、元服に際して太左衛門から贈られた、それまでより二寸長い刀にまだ馴れず、落し差しにしたら引きずりそうだ。
前に和之助が言っていたように人は急に変われないし、自分はまだまだ子供だと康二郎は思うのだった。
――今日の失態続きが何よりの証しだ……
康二郎は伊兵衛の助言に素直に従い、まずは差配の藤兵衛を訪ねることにした。
実のところ、照れくささもあって藤兵衛に会うのを避けたかったのだが、伊兵衛の言うとおり、まずは差配に挨拶するのが筋である。それに人の出入りも今の長屋のことも、藤兵衛に聞くのが一番手っ取り早い。
しかし、いざ通りに面した藤兵衛の営む漬物屋の前に立つと、康二郎は動けなくなった。
前々から藤兵衛は商売を内儀と丁稚に任せて奥に引っ込んでいたが、この時は内儀も丁稚も店表にいなかった。
「訪いを入れるのはわたくしがいたしましょう。康二郎様はそのままで」
伊兵衛は「藤兵衛殿はおられますか」と、店の奥に向かってよくとおる声で呼び掛けた。奥で人が動く気配がした。
「はい、はい。わたくしが藤兵衛でございますが、ご用はなんでございましょう?」
そう言いながら店表へ出てきた藤兵衛は、伊兵衛と康二郎の姿を目にした途端、ポカンと口が開き、その顔つきのまま上がり框から足を土間へ下ろした。
「わたくしは野田康二郎様の供をしております、伊兵衛と申す者。あちらにおられる康二郎様が藤兵衛殿に訊ねたいことがおありです。少し時間をいただきたい。よろしいですかな」
小柄な藤兵衛は伊兵衛の体格に圧倒されたらしく、口を開けたまま伊兵衛の顔を見上げて口上を聞いていたが、聞き終えた時に呟いたのは「康二郎様?」だった。それから伊兵衛の斜め後ろに立つ康二郎に改めて顔を向けた。
「藤兵衛さん、お久しぶりです。覚えてますか?お松の息子の康二郎です」
康二郎はいざ藤兵衛の顔を見たら、それまで感じていた照れくささも気まずさも吹っ飛んで、ただ、ただ懐かしさだけが込み上げ、言葉はするりと出た。
藤兵衛は目を見開き、何度も頷いた。
「おお、おお、康二郎だ!ますますお松に似てきた!あの小さかった康二郎がこんな立派なお侍に……」
「立派なお侍に」には照れくささが戻ってきた康二郎である。
「いや、俺は全然立派ではないので……」
康二郎はぼそぼそ呟いた。
藤兵衛は康二郎と伊兵衛を店奥に招き入れると、いそいそと自ら茶を入れて出してきた。
「やはり康二郎は……いや、康二郎様は野田の殿様のお子であったか。そうではないかと思っておったのだが、あの御用人様が若様の遊び相手になるとおっしゃったものだから。お松のような女御に惚れない殿様はおるまいよ。そりゃあ顔も良し、気立ても良しだったからねぇ」
康二郎は藤兵衛の回顧に懐かしさと寂しさが募っていた。
――おっかさんも又兵衛様も、もうこの世にいない……
「こんな立派なお供を連れて、康二郎様はお屋敷で大事にされているのだね。お松がこの姿を見たら、どんなに喜んだろう……」
言いながら、藤兵衛は目頭を押さえた。
「うん、供は立派なんだけど、これにはちょっと事情があって……」
――本当に、伊兵衛は俺には勿体無い立派な供だ。伊兵衛が侍姿、俺が小者姿で歩いた方がずっと収まりが良い。
康二郎は、上がり框に腰掛けて茶を喫している伊兵衛をちらと見やった。
こっそり見たつもりなのに、伊兵衛は康二郎に視線を合わせてきた。
――どうなさったので?早くお話を進めなさいませ。
と、その目が穏やかに催促している。
――そうだ。のんびりしていられない。
「近くまで来たのを、懐かしくて急に思い立って立ち寄ったものだから、残念だけど今日はあまりゆっくりできないんです。俺のことはまた今度にして、おっかさんと俺に親切にしてくれてた人達のことを教えてください。おきわばあさんは元気ですか?それから、末吉におきみちゃん……」
「おきわばあさんは元気ですよ。今の康二郎様を見たら、腰を抜かすかもしれない」
藤兵衛はおきわばあさんの驚きぶりを想像したらしく、ニヤニヤしながら言った。
「末吉は二年前から近くの左官屋に奉公しておりましてな。一応は住み込みなものの、近いからちょくちょくここへ顔を見せております。あそこは大所帯だから、左官屋でたまに菜や飯が余ると、家の足しにと持って来ているらしい」
これで子供は最後だと「末」のつく名前を付けたが、まだ後に続いた……というのは、よく聞く話だが、末吉の家もご多分に漏れず、康二郎が棟割長屋を出る時には、五番目の子供である末吉に二人の妹がいた。
「今は何人兄弟ですか?」
「三年前に男の子が生まれて今では八人兄弟です。名前はどうするのかと思ったら、終わる意味の、『了』を使っての了吉で」
康二郎はつい吹いた。
――まだ続きそうな気がする。
「おきみちゃんは?」
末吉の家族のことで吹いた笑顔のまま訊ねた康二郎だったが、藤兵衛は視線を避けるようにさっと俯いた。
「……おきみ坊は……」
康二郎は藤兵衛の言葉を待った。
「今年の初めに回向院近くの室生屋という遊女屋に、父親の借金のかたに売られていきましたのですよ……」
康二郎は呆然とした。頭には九つの頃のおきみがはしゃいでいた。
「……い、いったい、いくらの借金の……」
「宇兵衛の話だと二十五両ですが、本当かどうかわかったものじゃない」
おきみの父親、宇兵衛は確かによく飲んだくれている困った手合だったが、大きな借金を拵える程の遊び人ではなかった。幼い康二郎の記憶だから少々怪しい処はあるが、それが康二郎の記憶にある長屋での宇兵衛の評判だった。
「いったい、なぜ、宇兵衛さんはそんな借金を……」
藤兵衛は首を横に振った。
「本当のところはわかりません。宇兵衛は酒だと言うのですが、二十五両にまで借金が膨らむほど飲んだなら、宇兵衛はとうに仏さんになっとるでしょう。といって、女につぎ込んだようにも見えません。吉原へでも繰り出したのか……あそこなら一晩で十両、二十両が飛んでいく遊び方はできるけれども……しかし吉原へ行って豪勢な遊びをするような知り合いがいるとも、これまた思えんのですよ」
この時代は性に対して良くも悪くもおおらかな傾向があり、また不作続きと諸色高の世に、借金のかたに娘や女房が遊女屋へ売られるのも下層階級では珍しいことではなくなっていたが、わずか数えの十五才で自分の幼なじみが売られたとなると、衝撃は大きい。
康二郎は今すぐにでも室生屋とかいう遊女屋へ行って、おきみをここへ連れ戻したい衝動にかられた。
もちろんできるわけがない。
そんなことをしたら、野田のお家にも面倒をかけるが、何よりおきみ自身とその家族に面倒をかけることになる。
康二郎も藤兵衛同様にうつむき、拳を握りしめた。
「あまり時間がないのでしたら、さっそくおきわばあさんにお引き合わせしましょう」
気分を変えるように藤兵衛が言った。
藤兵衛について木戸を入って目にした、かつて暮らした長屋は、古びるどころかむしろ新しくなったようだった。
康二郎が去ってから火事があり、すべて同じ間取りで建て直されていたのだ。
康二郎が母と暮らした棟割長屋の店には、今は独り者の浪人が住んでいるという。その店の前で康二郎はしばらくの間佇んだ。
記憶が次々に甦ってきた。忘れていたと思っていた小さな出来事が、次から次へと頭に浮かんでくる。
路地を駆けていたら、どぶ板の隙間に草鞋のほつれが引っかかり勢いよく前に倒れこんで、すぐ前を走っていたおきみの腰に咄嗟に抱きつき、「きゃーっ」と大きな悲鳴を上げさせてしまったこと。その康二郎の背中には末吉が顔面からぶつかってきたこと。そのことで、しばらくおませなおきみに、さんざんからかわれたこと。
末吉一家の住む店の壁には小さな穴があいていたのだが、その穴が気になった末吉と二人でパリパリバリバリと板を割って大きくしてしまい、藤兵衛にこっぴどく怒られたこと。
長屋の中にあるお稲荷さんの祠に蛇や虫の死骸を隠しておいて、祠の掃除に来た長屋の女房達の腰を抜かさせたことなどなど……
――ろくなことしてなかったな……
汗が出てきた康二郎である。
「こ、康ちゃんかい?」
震える声で呼び掛けられた。
声だけで康二郎はその主がわかった。声のする方を向くやいなや「おきわおばあさん!」と答えた。
正面に見える店の前に、おきわばあさんが信じられないという顔で立っていた。思わず康二郎は駆け寄り昔のように抱きついた。
「懐しい!会いたかったよ!」
おきわばあさんは記憶の中よりずいぶん小柄だった。昔は見上げていたのに、今では康二郎の方が大きい。
「あの小さかった康ちゃんがこんな立派なお侍様に……」
涙ぐんでおきわばあさんが言った。
――もういい加減にしてくれ!
「立派なお侍」に虫酸が走るようになってきた康二郎だった。




