第三章 天明四年 春 (四)
康二郎がいつも台所の広い板の間でおたまやその時々に家にいる奉公人と中食を食べていることに、伊兵衛は心底驚いたらしかったが、康二郎が楽しそうなこともあってか、なにも言わなかった。この日からそこに伊兵衛が加わるのだ。
この日の食べながらの会話は、伊兵衛のための皆の自己紹介で、伊兵衛については住まいや恋人の話が中心になった。女達が一番知りたかったことだから、伊兵衛は厳しい追及にあっていた。
康二郎は途中で伊兵衛の十代の頃に話が向いた時には勝手に汗をかいたりしたが、当人は恋人の話同様、さらりと当たり障りのない答えで済ませていた。
――考えてみたら、誰もまさかそんなことがあったなんて思わないよな……そのテのことが盛んだったとかいう、数十年前ならともかく。兄上くらいだろう、深読みできるのは。……というか、そもそも兄上の読みが当たっているのか?
腹ごしらえを終えると、和之助と三人で道場へ向かう。それがこれからの康二郎の日課だ。
この頃の康二郎は、午前中に算術の塾と馬術の稽古に、それぞれ三日に一度くらいの頻度で行き、いったん屋敷に戻って中食を食べてから、ほぼ毎日剣術の道場へ出掛けていた。
康二郎は道中、二人の兄に見守られているような気分だった。
伊兵衛は和之助と康二郎が並んで歩く少し後ろを供らしく歩いていて、時々康二郎が振り向くと、安心させるかのように笑顔を見せた。
半日足らずで康二郎が伊兵衛に兄のような親しみを感じたのは、康二郎が取り乱した時の対応や康二郎を見つめる目の温かさのせいだろう。ふと、和之助にそんな気持ちがばれたら、怒られるかもしれないと思った。
中居道場でも伊兵衛は話題をさらった。
まずは大きさに注目が集まった。中居道場に伊兵衛ほど背の高い者はいなかったから、無理もない。
稽古の間は道場にいなくても良い、好きに過ごせと言う和之助に
「剣術の稽古を見るのは好きでございます。飽きません」
と、伊兵衛は稽古場の隅に座って静かに練習を見守っていたのだが、剣術に打ち込む血気盛んな若者達は、伊兵衛が気になって仕方ないようだった。
そして、稽古が一段落した時、なんと依田満助が伊兵衛に立ち合いを申し込んできた。
伊兵衛は自分は剣客ではないからと恐縮し、依田の申し入れを一度は断ったが、和之助の「向こうから申し込んできたのだから、断るほうが失礼ではないか」の一言に、筆頭師範代である栄之進の「流派を気にすることはない。好きなようにやればよい。遠慮は要らない」の後押しで、木刀による三本勝負に同意した。
稽古場は静まり返り、依田と伊兵衛の立ち合いを見守った。門弟達は興味津々という以上に面白がっていた。
依田の背丈は、この時代としては大柄な方で、五尺三寸ほど(約170㎝)あるのだが、並ぶと伊兵衛の顎の辺りまでしかない。体格からは明らかに伊兵衛が有利だ。
だが依田の動きは素早い。大柄な人物はえてして早い動きが苦手だったりする。
「いくら相手が大きくたって、依田はこの道場一の韋駄天だ。中間風情に負けるものか」
「いやぁ、この伊兵衛という男、大柄だが細くて締まった体つきだ。これはかなり動けるぞ……それに渡り中間には喧嘩という、実戦慣れしている奴が多い」
康二郎の耳に門弟達の小声が色々聞こえてきた。
康二郎は息をつめて二人を見ていた。兄弟子である依田には申し訳ないが、伊兵衛を応援していた。
栄之進が開始の合図をしても、依田も伊兵衛も木刀を青眼に構えたところからなかなか動かなかった。
――伊兵衛は小太刀だけでなく、刀も榊原殿に習ったのではないか?
揺るがない伊兵衛の青眼の構えに、康二郎はそう思った。
伊兵衛は素足に紺看板を尻端折りにしているから、足の筋肉がよくわかる。何をして鍛えたのか、筋肉しかついていないような引き締まった足だった。さっきから足元もびくともしない。
依田の額に汗が浮いてきた。
見ているほうもジリジリと汗が出てきた。
しかし康二郎の驚いたことに、伊兵衛の表情は全く変わらず、汗も見えなかった。そもそも緊張しているように見えない。淡々と青眼の構えを続けているようだった。
――動いたほうが負けか?
そう康二郎が思った時、風が起こった。依田が一気の攻めを見せたのだ。
依田の打ち込みに伊兵衛はほんの少し身体をひねり、木刀をわずかに降ろしただけだった。そう康二郎には見えた。
それなのに、次の瞬間には依田が悔しそうに木刀を持つ右手を左手で押さえていた。
「伊兵衛の勝ちだ。見事だ」
栄之進の淡々とした声が響いた一瞬後に、道場に爆発したような大きなどよめきが起こった。門弟達は皆、たった今、目の前で起こったことに愕然としていた。
「な、何が起こったんだ?」
「早くてよくわからなかった……」
「依田さんの突きを交わすだけでなく、小手を奪うとは……信じられない…」
「満助、油断したんじゃ……」
「こら、滅多なことをいうな。油断して負けるなど、一番の恥ではないか」
康二郎はふぅと息をついた。康二郎も動きが早くて依田がどう打ち込み、伊兵衛がいつ依田の小手を打ったのかわからなかった。
「満助、あと二本どうする?」
栄之進が右手の甲を擦っている依田に声をかけた。
伊兵衛は一言も発せず、そんな依田を見ていた。
「もちろんやります。俺から申し込んだ立ち合いだ。三本やりますよ」
さすが、中居道場二番手の剣士である。相手が予想外に強くとも、途中で投げ出すことをよしとしない。
依田は状態を確かめるように右手で木刀を撫でた。甲が赤くなっている。
と、栄之進が伊兵衛に小声で何か言った。
伊兵衛は少し驚いていたが、栄之進に「はい」と一言答えて頷いた。
二本目も素早い動きで瞬く間に決着がついた。
今度は康二郎に二人の動きが見えた。
依田は八相から打ち込むと見せかけ、素早く返して下から木刀を突き上げた。伊兵衛は依田の作戦を読んでいたかのように、上からの打ち込みを軽く反転して交わしながら木刀を上段に移すと、直後に伊兵衛めがけて下から空気を切り裂いてきた木刀を、後ろへ一跳びしながら上から叩きおとした。ガッと依田の木刀が床に当たる音がした時には、伊兵衛の木刀は依田の喉元に突きつけられていた。
「伊兵衛の勝ちだ。動きに無駄がない。素晴らしいな……どこで剣術を習ったのだ?」
栄之進は感嘆している顔つきだった。康二郎が初めて見た表情だ。
三本目も伊兵衛の勝利だった。立ち合いとしては一番時間がかかった。何度か激しい木刀の打ち合う音が響き、空気を切り裂く音が鳴った。伊達に二番手を張ってはいない。依田は短い間に対策を立てていた。
伊兵衛も先の二本より必死の応戦をして見えたが、一瞬の隙をついて依田の胴をとった。その一薙ぎした動きを康二郎は綺麗だと思った。
――す、すごい……すごいよ……
康二郎も他の門弟達も最後には、ひたすら「すごい」しか言葉が出なくなっていた。
立ち合いが終わった後、栄之進は改めてどのようにして剣術の腕を磨いてきたのか伊兵衛に訊ねてきた。
「中間としてお武家様にお仕えしている間に少しずつ鍛えられたのだと思います。日中には暇なことが多いですから、お屋敷内に道場がありますと、お侍の方々が剣術の稽古をなさるので、そこで教えていただいたり、見よう見まねで練習したり……」
「それにしてもあまりに見事だ。誰か特に手解きを受けた御仁はいないのか?」
「剣術に関しては特には……小太刀と柔術は、もう何年も前にお亡くなりになりましたが、榊原兵庫様に一から教えていただきました。剣術も触り程度は教えていただいたのですが、ほとんど素振りだけで終わってしまいまして……」
答える伊兵衛に、勝手に汗が出てきた康二郎だったが、栄之進の応えに驚いた。
「榊原兵庫殿?大御番組の?」
「はい。ご存知でしたか」
「直接には存じ上げないが、榊原殿といえば、当道場の流派である一刀流のかなりの使い手だったと聞いている。入門された道場は、確か日影町の方だったな。若くして家督を弟君に譲られ、その後は道場にも一切顔を出さなかったと聞いているが、そうか……」
なにやら納得したらしい。
榊原兵庫が栄之進も名前を聞いたことがあるくらい名の通った剣士だとは思ってもみなかった康二郎である。
しかし「榊原殿にはいつ頃からどのような奉公を?」と、栄之進から更に突っ込んだ質問が出てくるのではないかと康二郎はハラハラした。そんな質問をされるのは伊兵衛にとって辛いのではないか、少なくとも気分良くはなかろうと思ってのハラハラだ。
栄之進はそれ以上聞いてこなかった。
康二郎はホッとした。
帰り道に康二郎は立ち合いを見て気になっていたことを伊兵衛に訊ねた。
「二本目の前に佐々さんは伊兵衛になにか言ったよね。何と申されたの?」
「手を抜くなとおっしゃいました。わざと負けられて喜ぶような依田様ではないからと」
「……伊兵衛は手を抜くことを考えていたのか?」
「はい。わたくしのような者がお旗本をあのような立ち合いで倒しても益はありませんから」
康二郎には伊兵衛の言葉の意味することがわからなかった。
――どうして益がないのだ?
「佐々様は恐ろしいほどの遣い手でございますね。佐々様相手ではわたくしはあっさり三本とられたことでしょう。依田様は中居道場の二番手ということでしたが、失礼ながら、佐々様と依田様ではかなり差があるようで。佐々様が強すぎるといえば、強すぎるのですが」
「佐々師範代の方は、町中でもしも伊兵衛と一戦交えることになったら、たぶん負けると申されていたぞ」
この日も帰路に同道していた杉田が面白そうに言ってきた。
「そんなことをおっしゃっていましたか?なんでもありの『喧嘩』となれば、わたくしにもいくらか分があるかもしれません。ですが、剣術の試合では、とうてい敵いますまい」
「確かに佐々さんは我が道場で圧倒的に強い。俺は五番手だが、二番手の依田との打ち合いなら、三本に一本……は言い過ぎだな。まぁ、五本に一本はとれる。二番手から六、七番手までは団栗の背比べだ。そこから抜けてくる奴がいないと、少し前に師の九郎右衛門様が嘆いておられた……おい、伊兵衛が中居道場に入門したら、いきなり三番手に溝を開けた二番手だぞ。考えてみぬか?ははは」
杉田らしい、本気か冗談かわからない軽い調子だった。
「とんでもございません。わたくしなぞが入門しては中居道場の傷になりましょう」
伊兵衛はそう言いながら笑っていたのだが、入門したら中居道場の「傷」になると本気で思っていると康二郎は感じた。
――どうして?手解きを受けたのは同じ一刀流ではないか。きちんと道場で習ったことがないから?町人だから?
中居道場には少数だが町人もいる。町人であることが傷になるとは思えなかった。康二郎だとて母は武士の出ではない。しかも今となっては素性がもう一つよくわからない。
――かつて、い、い、色子として囲われていたから?
しかし今ではかなり廃れているとはいえ、そもそも僧侶についで武士の間で盛んだったという慣わしである。それが剣術道場の「傷」になるとは康二郎には思えなかった。
――渡り中間として生きてきたこの数年間に危ない橋を渡ったから?
それが一番理由としてありそうだが、果たして本当に傷になるほどの邪なことだったのかどうか。渡り中間の中にはかなり悪どいことをしている者もいるとは聞く。だが伊兵衛を見る限り、少なくとも自分から進んで悪事に荷担するとは思えない。
――もしも悪事に絡んだ過去があったとしても、きっと何かやむを得ないことがあって……
康二郎としては伊兵衛が中居道場に入門してくれたら、こんなに嬉しいことはない。康二郎達が稽古をしているのをただ眺めて過ごすより、伊兵衛にとっても身体を動かすのは良いことのはずだ。周りにも良い刺激になるだろう。
依田を寄せつけなかった強さに、康二郎は伊兵衛からも剣術や柔術を教えてもらいたいと思っていた。
伊兵衛が傷になると思っていることが、中居道場にとって大したことでないならば、その遠慮や不安を取り除き、伊兵衛の剣術の道を拓きたいと思うのだった。
――あんなに素早く綺麗に木刀を振れるのだから、もったいないよ。




