第三章 天明四年 春 (三)
「どうしてですか?たかが練り切りのことではないですか」
「たかが練り切り、されど練り切りだ。お前は伊兵衛の主だと言ったろう。主が奉公人に譲ってどうするんだ。好きにさせるにも、させかたというものがある」
康二郎はぽかんと口を開けて和之助の顔を見た。
「伊兵衛が戸惑っているだろう。それもわからないのか?」
「好きなものを選べというのがいけないのですか?」
畳み掛けるように言われて、康二郎も苛立ってきた。
「選べとは言わなかったろう」
「え、偉そうに言うのが武士なのですか?旗本なのですか?それなら、私は町人で良い。武士でなくて良い!」
「偉そうに言えとは言っていない。違う。人を使う時の気の使い方と人に使われている時の気の使い方は違うのに、お前は全く同じなのが問題なのだ。伊兵衛みたいに良い奉公人は戸惑い、五太夫みたいにあつかましい輩にはつけこまれる。それで良いのか?」
「私にはよくわかりません。そもそも私が伊兵衛の主というのが、わかりません。伊兵衛を雇ったのは殿様であり、兄上ではありませんか。伊兵衛の主は殿様と兄上でしょう。私の供をしてくれるのも兄上の指図……」
「『供をしてくれる』……そうきたか……」
和之助もまた康二郎の言葉を聞いて愕然としたように見えた。なにかを振り払うように軽く頭を降った。
「いくらここへ来たときに又兵衛に言われたからといって、お前はいったいいつまで自分を野田の家士だと思っているのだ?禄の少ない旗本がわざわざ家士の子に供をつけて塾や道場へ通わせるか?父上はお前に俺とほぼ同じ習い事をさせているだろう?お前は野田家の次男だ。俺が死ねばお前が野田家の嫡男だ!この家を背負うのだ!」
和之助の最後の言葉に康二郎の全身に鳥肌が立った。
「あ、兄上!なんてことを……じ、自分が死んだら……なんて、なんてことを言うんですか!兄上がそう簡単に死ぬものですか!俺が嫡男になるわけがない!兄上のいないこの屋敷にいられるわけがない!」
康二郎はぶるぶる震えていた。とてつもない恐怖感に襲われていた。母と又兵衛の死顔が頭に浮かんでいる。
「……例えばの話だ」
康二郎の様子にさすがに言い過ぎたと思ったか、和之助は声を落とした。
「兄上のことは私も……いえ、私がお守りします。兄上を死なせたりはしません!今はまだ役立たずですが、今にきっとお役に立ちます!」
叫んだ声はひっくり返りそうだった。震えは止まらない。呼吸も乱れている。康二郎は自分を抑えられなくなっていた。
すると、爪が食い込むほど強く握りしめていた右の拳に誰かがそっと手を添え、背中を優しく擦り始めた。
「康二郎様、落ち着いてください。もちろん和之助様は大丈夫です。お元気で、長生きなさいますよ」
伊兵衛の声だ。この場に伊兵衛もいることを康二郎は一瞬忘れていた。
震えが少しずつ治まってきた。
いきなり兄弟の怒鳴りあいを見せられ、伊兵衛はさぞかし面食らっていることだろう。
「ありがとう、伊兵衛さ……いや、あの……」
「伊兵衛とお呼びください。それが一番なのです」
あくまでも穏やかに伊兵衛は康二郎に語りかけてきた。
康二郎の方は、自分の取り乱し方が恥ずかしく、すぐ横にいる伊兵衛の顔を見ることができなかった。
「これまで見過ごしてきた俺も悪いが、一番の原因は父上だよな……長屋門の二階に住まわせているのも良くない」
和之助は康二郎ではなく、庭に目を向けて言った。
「あの部屋は気に入っています。窓から見える景色が良いのです。第一、他に私が部屋にできる場所は無いではありませんか。母家は奥様がお許しにならないし」
まだ少し声が震えたが、康二郎はなんとか自分を取り戻せた。
「二軒隣の屋敷と相対替えすることが決まったぞ」
「えっ?」
相対替えとは字の通り、大名や旗本が互いに屋敷を交換することを言う。幕臣が住んでいる屋敷地は幕府から拝領しているため、勝手に売買はできない。その代わり、相対替えでの交換は盛んに行われていた。
「実のところ、又兵衛はその話をまとめるのと御公儀への書面提出にかなりの時間を割いていたのだ」
「そんな……何もそんな無理をしなくても……」
そんなことで又兵衛が疲労を蓄積させていたのなら、更に康二郎はやるせない。自分が疫病神にしか思えなくなる。
「お前のことだけでなく、甚五郎が所帯を持つので、長屋の戸数が足りなくなるのだ。敷地の広さはほとんど変わらないが、二軒隣の長屋門はここと違って店が六つあるから、ちょうど良いとなったのだ。一つ一つの部屋は狭いが、一人で一店を使えるのだから、皆もその方が良いだろう」
「甚五郎さんが所帯を?本当ですか?それはめでたい!同じ長屋の店に住んでるのに、全然知らなかった……水くさいなぁ……」
康二郎の心は一気に晴れた。
「お相手はどなたですか?」
康二郎の問いに、和之助は呆れた顔つきになった。
「見当がついてないのか?本当に?」
――……ということは、俺の知ってる人……
康二郎は、焦って記憶を手繰った。しかし、焦ると余計に頭は働かない。
「おきぬだ。言われてもピンとこないか?」
「ええ~っ!い、い、いや、そ、それは、一段とめでたいし、ずっとおきぬさんがここにいてくれるんだから、嬉しいけど……」
康二郎は全く気づいていなかった。康二郎の前で二人が仲睦まじく喋っていたことも、並んで歩いていたことも、なかったからだ。
――俺には隠してたってこと?
「奉公人同士が夫婦になることを認めない家もあるようだが、甚五郎はまず父上に申告し、許可を得たからな。相思相愛ならば、何も問題は起こらない。二年前のことだ。おきぬに子ができれば、今のようには勤められなくなるが、その時には下女をもう一人雇えばなんとかなるだろう……」
和之助の説明に、康二郎は己の鈍さをまたも思い知らされ、またも落ち込んだ。思わず、伊兵衛を見た。伊兵衛に驚いた様子はない。
さっき、伊兵衛を先導していた時におきぬが赤くなっていたのは、伊兵衛に甚五郎との婚姻をおめでとうと言われたからだったのかもしれない。
そんな康二郎の様子は気に止めず、和之助は続けた。
「又兵衛の急死で頓挫したが、卯月に引っ越しだ」
――俺の鈍さはみんな知ってるもんな。
康二郎は気を取り直して言った。
「でも、私一人で長屋の店をひとつ使うのはもったいないなぁ」
「ひとつひとつは狭いと言ったろ。二店は広めで、そのうちのひとつに甚五郎夫婦を割り当てるんだが、あとの四店はお前が前に住んでいたという棟割長屋くらいだ。そうは言っても入り口を入ってすぐのところには一畳程の板の間があるから、必要に応じて伊兵衛が泊まることはできる」
「一畳では伊兵衛に狭いですよ……」
「めったにないだろうから、伊佐治の店に泊まっても問題はないだろう」
「伊佐治さんの店に?そのときは……あ、いや、なんでもないです」
そのときは伊兵衛に自分の長屋の四畳半で寝てもらい、自分が一畳の板の間に……と康二郎は言いかけたのだが、そんなことを言っては、さっきの言い合いが再燃してしまう。
この時代は後の時代に比べると荷物は少ないが、それでも引っ越しは大変である。
敷地の広さはあまり変わらない相対替えだと和之助は言ったが、二軒隣の屋敷は康二郎の目には今の野田屋敷より少し広く見えていた。長屋の数が多いのも、もう少し高禄の旗本向けに建てた屋敷だからだろう。ただの交換ではなく、差額を金銭で払うのではないかと思われた。
この引っ越しが単純に自分や甚五郎のためだけとは思わなかった康二郎だが、和之助が告げた配慮は嬉しかった。
気持ちがすっかり落ち着いたところで、この前から引っかかっていることを和之助に訊ねた。
「兄上、又兵衛様が私は兄上に仕えることになるとおっしゃっていたのは嘘だったのですか?」
「あの時点では嘘ではなかっただろう。父上、母上、又兵衛の間でどういう話があったのか俺は知らない。ひとつには母上を納得させるため、もうひとつにはお前のことがわかっていなかったからではないかな」
「私のことがわかっていなかったから?」
「簡単にいうと、武士として生きていくのに向いているかどうかわからなかったから、ひとまずそういうことにした。ところで、康二郎、お前はさっきからずっと伊兵衛の手を握りしめているのだが、自覚しているのか?」
「へっ?!」
和之助の指摘に、康二郎は己の両の手を見た。握り拳になっていたはずの右手がいつの間にか伊兵衛の手を握りしめていた。
「い、いつの間に……」
慌てて手を離した。頬が熱い。
「す、すまない。痛くなかったか?」
「こんな手ですから、どうということはありません」
伊兵衛は康二郎に見せるように、握りしめられていた右手を開いた。確かにさほど赤くはなっていなかった。
「伊兵衛にはいきなり恥ずかしいところばかり見せてしまったね……俺は武士として生きていくのに向いてないんだ。だから、兄上を苛立たせる」
「またそのようなことを……」と言いかけた和之助の言葉に被さって、伊兵衛の声がした。
「康二郎様は立派な、お侍の中のお侍になられますよ」
その時、康二郎がようやくまともに見た伊兵衛の顔は真顔だった。
伊兵衛は康二郎に大きく頷いてみせた。それから表情を緩めた。
「練り切りは康二郎様が選んでくださいませんか。わたくしはどれも食べたことがありませんし、特に好き嫌いもありませんから、選ぶのは難しいのです」
――ああ、そうか……
康二郎は納得した。
「じゃあ、伊兵衛にはこれを」
康二郎が選んで手渡したのは、菓子箱の中でも一番大きく値段の高そうな、花を模した練り切りだった。伊兵衛はまた少し驚いたようだった。
「伊兵衛は身体が大きいのだから、一番大きいのを。この前食べたらとても美味しかったよ。今日は俺はこれを食べてみる」
康二郎は扇を模した菓子をつまみあげ、ぱくりと口に入れた。
「これも美味しいや」
この時代は国内での砂糖の生産がようやく始まったところで、まだまだ大量の砂糖をポルトガルや中国からの輸入に頼っていた。特に白砂糖は高価で贅沢品だ。
白砂糖をたっぷり使った上菓子は康二郎もめったに食べられない。
康二郎は口に広がる強い甘味に幸せな気分になった。
伊兵衛は練り切りを手に乗せたまま、そんな康二郎を見ていた。
「康二郎はそういう奴なのだ。伊兵衛、先ほども言ったように気長にやってくれ。くれぐれも康二郎のことを頼む」
「重々承知いたしております、和之助様。わたくしにできる限りのことをいたします。必ずお守りいたします」
そんなやり取りに驚いて和之助と伊兵衛を交互に見た康二郎の目に入ったのは、早くも互いに相手を主従として信頼したらしい二人の様子だった。
茶と練り切りで一服した後、和之助の前ではお互い言いづらいこともあるだろうし、康二郎は飾ることのできない自分を知ってもらうためにも、話に出た寝起きしている長屋の二階を伊兵衛に見てもらう気になった。あそこが話しやすいと思えた。天井が低くて伊兵衛は立つことができないだろうけども。
「古いし、布団とおっかさんの位牌しか置いてない部屋だけど、窓から江戸の町を見下ろせるんだ。さっき兄上に言ったけど、その眺めが俺は大好きだ。ここへ来てからずっとそこで寝起きしてるから愛着もある」
康二郎は長屋門へ向かいながら伊兵衛に説明した。
背は高いがほっそりしているので、易々と二階へ上がった伊兵衛が最初にしたことは、お松の位牌へ手を合わせることだった。
康二郎は嬉しかった。
「ほら、こっちへ来て。今日はよく晴れてるから、遠くに見える海が綺麗だよ」
敷地の外へ向いた小窓の前から康二郎は伊兵衛を呼んだ。
伊兵衛は位牌の前からよつん這いで窓際へやって来た。
「ほう、これは本当に良い眺めだ。気持ちが大きく、清々しくなりますね」
「だろう?お屋敷から勝手に出ることはできないから、ここへ来て間もない頃はよくここから外を眺めたんだ。兄上がお元気な時はお堀や町へ出かけることができたけど、その頃はあまり丈夫ではなかったから、出かけられないことも多くて……」
視線を感じて康二郎が横にいる伊兵衛に顔を向けたら、伊兵衛は景色ではなく、包み込むような優しい目で康二郎を見ていた。
「僭越ながら、康二郎様のその頃のお気持ち、伊兵衛は少し分かるかと思います」
康二郎は、伊兵衛が榊原兵庫の屋敷にいた頃のことを思い出しているのだと思った。
――そうか。やはり勝手に出かけることはできなかったんだ。俺以上に出かけることができなかったのでは……
「囲われ者」という言葉が頭に浮かんだ。慌てて振り払う。
「反対側の窓からは母家が見えるし、ここは便利だよ」
「康二郎様、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん良いよ」
「お父上を『殿様』とお呼びになるのは何故でございますか?」
その質問がくるとは全く思っていなかった康二郎だった。
「……何故って……」
すぐには答えられなかった。
「だって、最初に『あのお方が殿様だ』と言われたから……誰も『父上』と呼べとは言わないし……」
一番大きな要因が最後に出てきた。
「殿様にお前は私の子だと言われたことが無いよ。今でも半信半疑だ」
康二郎は昔よくやっていたように窓縁に頬杖をついた。
「俺がここにいられるのは兄上のおかげだ。ここへ来た日のことは今でもよく覚えてる。殿様も奥様も冷たくて、針のむしろに座っているようで、兄上だけが優しかった。あ、又兵衛様やおたまさん達は優しかったよ。でも肝心のこのお屋敷の……そもそも兄上が俺は弟なのだと言ったことだけが……」
康二郎は今更ながら愕然とした。
「その一言だけだよ……」
「康二郎様は今のご自分があるのは『兄上のおかげだ』と思っていらっしゃるのですね。和之助様は少し違うことをおっしゃっていましたよ。口止めされましたので、今は申し上げることができませんが、いつか和之助様がご自身で康二郎様にお話になることでしょう」
康二郎にとっては大きな謎を残して伊兵衛は話をこの日の予定へと変えた。
殿様に挨拶しないといけないから、今日は康二郎を道場から屋敷へ送り届けてもすぐには帰らないという。
「それなら、夜食もここで食べるね?その、長屋で伊兵衛を待ってる人の作った食事のほうがいいかもしれないけど……」
「そうですね、差し障りないようでしたら、今夜はこちらでいただければと思います」
「もちろん差し障りあるわけない。おたまさんに言っておく」
――兄上が選んだのだし、殿様もきっと伊兵衛を気に入ってくれる。……気に入って、伊兵衛をご自身の御供にされるかも?
その想像は少し淋しいが、楽しく嬉しい気持ちの方が大きい。康二郎は早くも伊兵衛が長く野田家に勤めてくれることを切に願っていた。




