第三章 天明四年 春(二)
翌日から始まった鶴三への用人稼業の引き継ぎは、五太夫の横柄さに辟易した後だったから、康二郎は実に順調、且つ心安く感じた。
鶴三は確かに物覚えが良いとは言えなかったが、ひとつひとつ理解して覚えようという根気強さがあった。そして五太夫とは反対に康二郎を上役扱いで、これには康二郎が面食らった。
その上、康二郎にはいきなりつきつけられた課題がある。
「鶴三さ……いや、鶴三、その冊子をこちらへ持ってきてください……あ、いや、持ってきてもらいたい……」
何度となく名前に「さん」をつけかけては言い直し、語尾も言い直し……と、かつて野田屋敷に引き取られてきた直後の町人言葉を武士らしい言葉使いに変えた時と同じようなことが起こっていた。
鶴三はというと、覚えることに必死なのか、康二郎の言い直しに笑いもせず、「はい、康二郎様」、「承知いたしました、康二郎様」と言われたことをコツコツこなしていた。
伊兵衛が野田屋敷へやって来る前日にも、和之助は康二郎に言い渡した。
「康二郎、伊兵衛も呼び捨てだぞ。顔合わせの時には『殿』をつけていたが、『伊兵衛殿』でも『伊兵衛さん』でもない。『伊兵衛』で良いのだ。伊兵衛はお前の供をするのだからな。お前が伊兵衛の主だ」
「私が主などと……それに伊兵衛さ……伊兵衛は兄上や殿様の御供もするでしょう?」
「いや、あくまでも康二郎の供だ。俺が康二郎と出かける時には俺の供もすることになるが、お前を守るのが優先だ」
康二郎にはあまりに意外な話だった。
「兄上も危ないではありませんか。松平卓之助の頭を石で殴ったのは兄上なのですから、私より兄上を狙っているかも……」
「説明するのは難しいのだが、狙われるのは俺よりお前だと思う」
説明は難しいと前振りされては無駄かもしれないと思ったが、康二郎は聞かないわけにいかなかった。
「何故そう思われるのですか?」
「……」
「私が棟割長屋育ちだから、ですか?」
「……」
「兄上、教えてください!」
和之助は庭の一角を見つめ続け、康二郎の問いには答えなかった。
翌日、康二郎は朝からソワソワしていた。
あの伊兵衛がやって来る。
和之助に「お前は伊兵衛の主なのだ」と言われても、康二郎が伊兵衛の到着を待ちわびる気持ちは、新しい仲間を待つ気持ち以外の何ものでもなかった。
二日前の茂吉との別れには涙でぼろぼろになった康二郎だが、茂吉を迎えにきた娘夫婦が仲睦まじく、娘婿と茂吉が気の合っている様子を見て、これからの茂吉の暮らしの幸せを確信し、流れる涙には途中から嬉し涙も混ざっていた。
「何もないところですが、いつか遊びにいらしてください。近くへ参ったときはこちらも顔を見せます」という茂吉の約束も心の支えになる。
生きていることのありがたさを感じた。
おかげで康二郎はすぐに前を向けた。
――伊兵衛さん……じゃない、伊兵衛と仲良くやっていけるかな。伊兵衛が俺の馬鹿さ加減に呆れないか、だよな……
――伊兵衛さ……伊兵衛が住んでいた棟割長屋はどこだろう?藤兵衛長屋と同じ感じかな?
話したいこと、聞きたいことが色々あった。
伊兵衛がやって来たのは、康二郎が門の見える用人部屋にいた時だった。
思わず迎えに行こうと立ち上がった康二郎を鶴三が止めた。
「康二郎様、どこへ行かれるのですか?」
「伊兵衛さ……伊兵衛が来たものだから、あの……」
「あの方ですか。大きいですねぇ!ここから見えるのですから、ここでお待ちになるのが宜しいのではありませんか?ほら、向こうも気づきましたよ」
鶴三の言う通りだった。
潜り戸を窮屈そうに抜けた伊兵衛が伊三治と笑顔で何か話しながら周りを見回すと、すぐに康二郎を見つけたらしく、康二郎に向かって一礼をしてきた。
「鶴三、よく康二郎を止めてくれた。さすが米問屋で手代として長く務めただけのことはある」
戸を引く音がしたと思ったら、和之助が奥の部屋から現れていた。
「気持ちはわかるが、お前が迎えに出てどうする。放っておいても俺たちに挨拶に来る」
そう言いながら和之助が康二郎を見つめる目は呆れたような、悲しいような、なんとも複雑な色を見せていた。
勝手口に案内された伊兵衛が和之助と康二郎のところへ来るまでに、野田屋敷にいる奉公人の大方と挨拶するだろう。
実のところ、康二郎は皆の伊兵衛を初めて見た時の様子が見たかったのだ。子供じみているが、見たくてたまらなかった。
――どうせ俺はまだ子供だもの。
予想どおり、伊兵衛が勝手口に消えてから、和之助と康二郎のもとへすぐには現れなかった。
康二郎は台所の方へ行きたくてうずうずしたが、和之助に横に居座られてしまった。我慢するしかない。
後で康二郎が聞いた話では、伊兵衛のことは和之助と康二郎がそれなりに野田屋敷にいる全員へ話していたから、いざ伊兵衛を目の前にしてその背の高さに驚いたりする者はいなかった。だが、皆、異口同音に言ったという。
「想像していたより、すらりとした男前で。山みたいに大きいというから、もっとゴツい人を想像してましたよ」
そうして「力士みたいだろ」という康二郎の意見にはあまり賛同を得られなかった。
女中陣のつかみはもちろん万全だ。
ようやく伊兵衛を康二郎達のところへ案内してきたおきぬは頬を赤く染め、どこか楽しげだった。
これから中間である伊兵衛が殿様の住む母屋の座敷に上がることは滅多にないはずだが、この日は初日ということで和之助が指示を出していたらしい。
型通りの挨拶に、伊兵衛が「この三月足らずで一回り大きくなられましたね。前にお会いした時のご様子では、元服はまだ早いのではないかと思えましたが、ぐっと変わるものですな」と、康二郎に微笑みかけながら言った直後、和之助は康二郎に向かって言った。
「俺は伊兵衛と大事な話がある。終わったら呼ぶから、ここで鶴三と庶務を片付けていてくれ」
話が自分に全く関わりがないとは到底思えない康二郎はムッとした。
――茂吉さんのときといい、なんで兄上はいつも俺に関わることを俺を除け者にして話し合うんだろう?
白々しい気がしながら、康二郎は訊ねた。
「お話とは、私に関係ないことですか?もしも私に関係のあることなら、私も兄上のお話をお聞きしたいのですが……」
和之助は、康二郎の問いかけをふふんと鼻で笑ってあしらうと、伊兵衛を呼び寄せ、奥の座敷へと消えた。
伊兵衛が襖を閉めるときに「康二郎様、また後ほどお会いいたします」と康二郎に笑顔で言い残したのは、康二郎が不機嫌になっているのを見てのことだろう。
康二郎は和之助の対応にムカムカしながら、鶴三が黙々と過去の贈答帳から分類分けしながら名前を書き出している文机の側へ大股に戻った。
鶴三と並んで別の名簿作りに取りかかった康二郎だが、どうにも気がのらない。
和之助と伊兵衛が奥の座敷、正確には二つ奥の座敷へ消えてから、ずいぶん時間がたったように思うのに、まだ何も言ってこない。
落ち着かない自分を持て余していると、うまいこと来客があった。
今では康二郎も顔見知りの、近くの武田という五千石寄合席の旗本の奉公人だ。いったいどうしたことか、高い練り切り菓子を二箱も野田家にくれるという。予定していた茶会が急遽中止になったから、とのことだった。練り切り菓子は日もちしないから、日頃なにかとつきあいのある近所へ配っているらしい。
――それにしても二箱も!
康二郎は、この下り菓子を謳う、とみ屋の菓子を前に一度口にしたことがあったが、とてつもなく美味しかった。
奥様へお見せすれば、一箱は奥様がお取りになり、もう一箱は奉公人たちで分けなさいとおっしゃるはずである。康二郎は急いでおたまに二箱を渡し、一箱が戻ってくるのを待った。和之助と伊兵衛の密談の邪魔をする絶好のネタだ。
康二郎はおたまから箱を受けとると、茶の用意をしたおきぬを従え、濡れ縁を歩いて奥の座敷へと向かった。
閉じた腰高障子の向こうからは、笑い声が聞こえた。
――気が合ってるようで……って、俺の話で盛り上がってるのか?
康二郎は軽く咳払いし、障子越しに和之助へ声をかけた。
「兄上、武田様の奥様がとみ屋の練り切りをくださいましたので、お持ちしました。入ってもよいでしょうか」
「良いぞ。俺の話は終わった。ちょうどお前を呼びにやろうと思っていたところだ」
失礼しますと康二郎が礼儀正しく障子を開けると、和之助と伊兵衛が一斉に康二郎を見つめてきた。そうして一瞬間をおいて二人ともくすりと笑った。
――どうせ、俺の失敗談で盛り上がってたんだろう。そんな話なら隠すことないじゃないか。
内心むっとしながら、康二郎はまずは和之助に箱を差し出した。
「母上には?」
「二箱もくださったのです。奥様におたまさんがお知らせしたところ、この一箱は皆で食べろと……」
「ならば俺には母上から回ってくるな。康二郎から好きなのを取って食べるが良い」
康二郎は一旦差し出した箱を手元に引き寄せ、少し考えた。その間におきぬはお茶を三人に配り終え、部屋を出ていった。
――俺はどれでもいいもんな。やっぱり……
康二郎は伊兵衛に振り向いた。
「伊兵衛さ……伊兵衛は練り切りは好きか?とみ屋のは食べたことあるかい?」
伊兵衛は驚いた顔つきで康二郎を見た。
「あまり食べたことはございませんが、これまでにいただいた練り切りはどれも美味しゅうございました。とみ屋の練り切りをいただいたことは、たぶんございませんね……」
「では、まず伊兵衛が好きなのを選んでくれ。俺はどれも大好きだから」
迷いなく箱を伊兵衛の前に置いた康二郎に、伊兵衛は戸惑ったように和之助の顔をちらりと見た。
「相変わらずこれだ……康二郎、お前がまず選ばないと、伊兵衛は選べない。そんなこともわからないのか?」
和之助の苛立った声が後ろから康二郎に降ってきた。
いきなり苛立った声を出されたのにどきりとしたが、こんなことでどうして苛立つのか、康二郎は理解できなかった。




