第二章 天明三年 冬 (十六)
「背丈は六尺三寸(約190㎝)近くあるらしい。間近で見ると、今のお前には山だろうな。細いのに、幅も感じた。不思議な奴だ」
蕎麦屋から道場まではわずかの距離だったため、伊兵衛について康二郎が和之助とじっくり話ができたのは帰り道だった。
この日も杉田が同行していた。杉田の屋敷は野田屋敷の近くなので、基本的には杉田が帰路に同行し、杉田の都合の悪いときに栄之進か松浦がつくということになったらしい。
「道場で腕の方を確かめることも考えていたのだが、あの体格と身のこなしでは不要だ。のんびりしているようで隙がなかった。甚五郎も感心している」
「あんな人が渡りの中間をやっているなんて、不思議だなぁ……相撲取りになったら、大関*にまで出世しそうだけどなぁ……谷風に勝てるかも……」
康二郎の感想だ。
「兄上は、伊兵衛さんが最初に奉公したという、武蔵屋をご存知なのですか?」
問いかけにすぐ返事がなかったので、康二郎が横に並んで歩いている和之助を見上げると、蕎麦屋で伊兵衛に尋ねた時と同様、深刻な顔をしていた。
「五年前につぶれた芝の酒屋、武蔵屋には悪い噂があってな。そもそも芝がどんな所か康二郎は知っているか?」
「増上寺をはじめとして大きなお寺が多く、神明様もあり、大藩の大名屋敷も多いくらいのことは……」
「僧侶と武士が多いと衆道が盛んになりやすい。しかもあの地に上屋敷がある某藩では、昔に変わらず今も盛んだという話だ。そのせいか、七軒町の蔭間茶屋は今も賑わっているそうだ。他の場所では、湯島以外、最近は流行っていないのに」
それが酒屋での奉公とどう結び付くのか。康二郎にはわからない。
「蔭間を買うのは高くつく。すると身分の低い所化や微禄の武家、浪人で衆道に傾倒する輩は己の欲望の発露や慰みに誰を狙うか。寺や屋敷へ空樽集めなどの御用聞きでやってくる丁稚だ」
康二郎は思わず立ち止まった。慌ててまた歩きだす。
「中には蔭間を買うように、丁稚と『交渉』し、金を握らせ、一応は同意させてからことに及ぶ者もいるらしいが、強引な手に出る輩もいるという。あの照之助達のようにな。旗本の端くれとして、そんな獣のような奴のいることが俺は恥ずかしいと思うが、単なる噂であって欲しかったが、残念ながら事実らしい」
身分が高い者、力のある者に身分の低い者、非力な者が逆らえるかという点をあまり考慮せず、とりあえずの同意の有無を重視している和之助の考えは、この時代の旗本のみならず、時代を超えて、身分の高い者、力のある者の思考傾向かもしれない。
「芝の武蔵屋は御用聞きの丁稚が出先で酷い目にあっても、見て見ぬふりをしているという話だった。それどころか、丁稚を目当てに酒を買うような相手なら、むしろ気に入られそうな丁稚を差し向けたとも。そのため器量の良い丁稚はすぐに辞めたという……」
「ま、ま、まさかあの伊兵衛さんが……」
「あの器量だぞ。昔からあの大きさだったわけではないし、十二才くらいの頃の話だ。大柄で年齢より少し上に見えたのも災いしたかもしれない……本人に聞いてみないと、本当のところはわからないが、果たして今さら本当のことを言うかどうか。さすがの俺でも訊くのは気がひける。そうそう、伊兵衛の幼名は伊助だそうだ。ついでにいうと、武蔵屋が潰れたのは主人の使い込みが理由であって、丁稚の扱いの酷さではない」
康二郎には伊兵衛の話を聞いたときに全く思ってもみなかった影だった。辛い目に遭ったというような話しぶりも雰囲気も全くなかった。
「で、でもそれなら、榊原という御旗本は伊兵衛さんを助けてくれたってことですね?」
「うむ……まぁ、獣のような輩や冷酷な商人から助けたということにはなるだろうな」
奥歯に物の挟まったような言い方である。
「思うに、本当に苦境から助けてくれた恩人だと思っているなら、もう少し言い方が違うのではないかな……なんというか、割り切って、取引したような関係だったのではないか……」
「割り切って、取引したような関係?」
「亡くなるまで七年も奉公したのだし、榊原殿は伊兵衛に武術を教え、元服させた後にも同じような勤めをさせ続けたのだから、伊兵衛を心から好いていたろうし、伊兵衛の方にも我慢できる相手だったのだろう。それ以上の感情を伊兵衛が榊原殿に抱いていたとは、あの言い方や表情からは、俺には思えない」
ここまで言われれば、さすがに和之助が何を言わんとしているか、康二郎にもわかった。不思議に思った問いの意図もわかった。
伊兵衛は元服後も「ほぼ同じように」勤めたと、ほんの少し間をあけて答えた。
衆道は若衆の元服で終わると竜三郎から聞いて、そのまま信じこんでいた康二郎は、このときになって伊兵衛の答えの意味することに驚いた。しかし、真に好き合った者同士なら、元服で終わりにする方が理不尽な気がした。死が分かつまで一緒にいたというのは、むしろ美談になるんじゃないかと思った。
だが、和之助に少なくとも伊兵衛に相手を好きな気持があるとは思えなかったということは、そうなんだろうと、兄の他人の気持ちや性根を見抜く力を信じる康二郎は思った。そうなると、美談ではなく、辛苦の延長だ。
「目には人柄の良さが出ていたよ。お前を見る目は穏やかでさっぱりしていた。一緒に暮らしている女のことを照れながら嬉しそうに話したくらいだから、伊兵衛自身は男色を好まず、俺の読みが当たっているなら、昔の己の経験からも、この度の騒動から康二郎を真剣に守ってくれるだろう。だから雇うことにした。あの様子だと『一緒に暮らしているような女』とは近々所帯を持つと思うな」
康二郎は何も言えなかった。少なくとも榊原兵庫は少年の伊兵衛、伊助に優しく接したと、嫌がることはしなかったと思いたかった。
卓之助達といい、世の中にはひとの気持ちを蔑ろにする、酷いことが色々起こっていて、しかも酷いことをした奴が責を追わずにのうのうと生きているのだということに、改めて怒りを覚え、また悲しくもなった。
翌日、塾に現れた橋蔵は目が腫れて赤かった。どう見ても泣き腫らした顔だ。
龍三郎と康二郎はさっそく橋蔵を囲んだ。
「どうした?何があったんだ?」
「具合が悪いのか?」
橋蔵は何も言わず、首を横に振った。聞いてくれるなということらしい。
龍三郎と康二郎は、落ち着いて問い質し、話をじっくり聞ける休み時間を待つことにした。
講義を受けながら康二郎がチラチラと橋蔵の様子を窺うと、ぼんやり前を見ていたかと思うと、次にはうつむいていた。涙をこらえているように見えた。
少し前に又兵衛の急死で泣きに泣いた康二郎である。その辺りの仕草や様子には敏感だった。
――誰か親しい人が亡くなったのだろうか?
休み時間には再び龍三郎と康二郎で橋蔵を囲んだ。
「大丈夫か?つらそうだぞ?」
康二郎は橋蔵の顔を見上げながら言った。橋蔵は元々三人の中では一番大柄だったが、この一年の間にあとの二人の倍も背が伸び、今では龍三郎も康二郎も傍で橋蔵の顔を見ようとすると、見上げることになっている。
「俺たちに話してみろよ。話すと楽になるもんだよ。秘密にしておきたいことなら誰にも言わない。絶対に言わないよ」
康二郎の言葉に龍三郎も頷いた。
「黙っているなんて、水くさいぞ」
橋蔵の二人を見下ろしている目にみるみる涙が溢れてきた。
「しろが……しろが死んだんだ……。三枝の家に来たときからずっと一緒だったしろが……」
しろとは橋蔵が五歳の時から飼っていた犬の名だ。
「ど、どうして?」
「寿命だって……犬は人のように長生きはしないから……覚悟はしてたつもりだけど……つもりだったけど……」
橋蔵は腕で顔を覆うと、いきなりしゃがみこんだ。
見上げていたのが一瞬で今度は低くなり、龍三郎と康二郎も慌ててしゃがんだ。
「犬が死んだくらいでいつまでも泣くな、だよな。馬鹿みたいだよな。でも……」
「そんなこと思うものか。しろは橋蔵の大切な……大切な……」
康二郎は言葉に詰まった。橋蔵の肩にそっと手を置いた。
話題にすることは少なかったが、橋蔵がしろのことを話すときはいつも目が輝き、優しい顔をしていて、康二郎も龍三郎も橋蔵のしろへの愛情を、しろが橋蔵の三枝家での暮らしの心の支えになっていることを感じていたから、橋蔵の悲しみがよくわかった。馬鹿にする気持ちなど微塵もない。だが三枝家の人たちにはそんなことを言われたのかもしれない。
康二郎も龍三郎も慰めの言葉が浮かばなかった。二人はそれぞれ橋蔵の肩に手を置き、泣き続ける橋蔵を見守ることしかできなかった。
ほどなく康二郎はつられて涙が出てきた。母や又兵衛のことが思い浮かんだ。
「康二郎は強いな……」
橋蔵が腕で顔を隠したまま、泣きじゃくりながら言った。
「つられて泣いてるのに、どこが強いんだよ」
康二郎は鼻声になっているから、顔をあげなくても橋蔵に泣いているのがわかったはずだ。
「母君と又兵衛殿と、大事な人を二人も亡くして、ちゃんと立ち直っている……しろが死んでこんなに辛いんだよ。もしも母が亡くなったら、俺はきっと延々泣き続けて立ち直れない……」
康二郎は橋蔵の言う「母」が産みの母のことなのか、育ての母のことなのか分からず、すぐに返答できなかった。二人ともなら、「母達」とか「二人の母が……」とか言いそうだし……と、思わず龍三郎を見たら、龍三郎も康二郎を見ていた。二人はしばらく顔を見合わせた後で、同時に首を傾げた。
普通に考えたら産みの母の気がするが、橋蔵が産みの母との思い出や、産みの母に抱いている感情を口にしたことがないのだ。育ての母のことは口煩いと愚痴を含めて色々口にするのに、である。では、育ての母に延々泣いて立ち直れないに違いないと思うまで心を寄せているのだろうか。
――……わからない……
泣きじゃくる橋蔵に「『母』って、どっちの?」と聞くわけにもいかず、康二郎は頭の中でその事に触れずに済む返しを必死に探した。顔つきからは龍三郎も同じことをしている。
「俺は駄目だ……」
結果的には、康二郎と龍三郎の悩みを橋蔵が自ら解決した。
「駄目なことがあるものか!誰だって大事な何かを失ったときはつぶれそうに辛いさ。今は辛いだろうけど、そのうち気持ちが落ち着いてくるんだ。焦ることはないんだ」
康二郎自身が言われたことだ。
「俺も妹が亡くなった時には立ち直れないかと思ったよ。俺だけじゃなく家族全員が。特に両親がね……」
康二郎が初めて聞く話だった。
「妹さんが亡くなったのか?いつのことだ?」
橋蔵も顔を上げて龍三郎を見た。
「俺が八歳のときだ。妹は三歳になったばかりで……兄の俺が言うのもなんだが、もう本当に可愛らしくてさ。両親もやっと生まれた娘だから、それはもう大事にして……二人の兄も俺も、珍しいのと可愛らしいのとで、寝ている所を覗きに行っては母上に邪魔するなと追い払われてた。歩くようになってからは、年が一番近いからか、俺の後をよくついてきてさ……」
龍三郎の目にも涙が溢れてきた。
「あまりに器量が良すぎたから神様が早く連れに来たんだ、なんて親戚には言われた。皮肉だよな。世間では男の子の方が育てにくいっていうのに、我が家では男は三人とも元気に育って、たった一人生まれた女の子があっさり逝ってしまったんだ」
康二郎は今度は龍三郎の涙に貰い泣きした。
――我ながら泣き虫にもほどがある!
「両親の嘆き悲しむ様子は見てるのも辛かった。お前がちゃんと見ていないからだの、殿様があのときこうしなかったからだの、お互いに責めたり悔やんだりしてさ。変われるものなら俺が変わりたかったよ……」
「龍三郎、なんてことを言うんだ!」
「そんな両親も今では妹のことは悲しい思い出として抱えながら、言うことを聞かない息子三人を怒鳴りつけて元気にやってる。だからさ、橋蔵、直後には耐えられないと思えても、大抵の悲しいことは乗り越えられるんだよ」
この時の橋蔵にかける言葉に、これ以上ふさわしいものは無いだろうと康二郎に思えた龍三郎の語りだった。
そうしてしばらく三人がしんみりと黙りこんでいると、康二郎の腹がぐうと鳴った。
「いかん、いかん。急いで食べないと食いっぱぐれるぞ」
龍三郎が快活に言った。
橋蔵もやっと少し笑って頷いた。
康二郎は盛大に鳴った腹を恨めしく押さえた。
――なんでこんなときに俺の腹は……
康二郎は杉田の康二郎は面白い、見ていて飽きない評を思い出し、自分に対して苦々しい気分になった。
――けど、俺の腹の虫のせいで橋蔵が少し笑うことができたのだ。良しとしよう。
開き直りも切り替えも得意な康二郎である。それがまた杉田の康二郎は面白い評に繋がっていることに康二郎は気づいていない。
もうすぐこの塾ともお別れだと、魚のほぐし身が入った握り飯を頬張りながら、もうすぐやってくる別れに康二郎は思いを馳せた。周りを見回した。
――こうやって三人で休み時間を過ごせるのもあと何回だろう?塾をやめても龍三郎、橋蔵とは時々会いたい。会って真面目な話ももちろんだが、馬鹿な話をして笑いたい。
康二郎は改めて塾がもたらした出会いに感謝した。塾そのものには最後まで馴染めないまま終わりそうだったが、康二郎に貴重な友をくれた。
――先のことはわからないが、この二人とはずっと友でいたい。いつまでも友でいられますように……
そう思いながら、先のことにも考えは向いた。
来年早々に、元服と茂吉との別れが康二郎を待ち受けているのだ。そして、茂吉と入れ替わりで、あの伊兵衛がやって来る。
考える度に康二郎の胸の内に寂しさと期待が交差する。
なかなか見つからない用人の問題もある。
このまま、二人の友と話している「今」で、時が止まってほしい気がした。
「良いことも続かないけど、悪いことも続かないんだよ」
母、お松がよく言っていた言葉が、また頭に浮かんだ。
―― 第二章 終わり ――
* 江戸時代の相撲に「横綱」はなく、「大関」が最高ランク。
第三章の始まりは、第二章の終わりから約1ヶ月半後、年明けです。




