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第二章 天明三年 冬 (十五)

 

 康二郎が塾からいつもの待ち合わせ場所、天神様の鳥居前へ行ってみたら、和之助が道場へ行く前に大和屋推薦の腕っぷしの強い中間と急遽顔合わせをすることになったと言ってきた。

「まずは会ってみないとな。主従にも相性というものがある。これから会う者で良ければ、大和屋は季替わりを待たず、閏の睦月の末でこちらに勤めることができるよう取り計らうつもりらしい」

 来年は閏年で睦月が二月ある。そのため季替わりには本来ならまだ四月あるところを三月で勤め替えさせようと言うのだ。

 和之助はこの顔合わせで康二郎の意向を確認するつもりらしかったが、康二郎の方は和之助の人柄を見抜く目に絶大な信頼を置いていたから、和之助の判断に従うつもりでいた。

「頭巾は被ったままで良いですか?」

 念のため、康二郎は尋ねてみた。

「構わない。事情は話してある」


 和之助は道場からは通りを二つ挟んだ所にある、堀に面した蕎麦屋の前で立ち止まり、ここの二階だと言った。道場の行き帰りにたまに立ち寄ることのある店だ。和之助、康二郎、甚五郎と順番に暖簾を潜った。

 蕎麦屋の主は調理場から見張っていたかのように、和之助が店に足を踏み入れるやいなや、すぐに近づいてきて、一行を二階へ案内した。

 康二郎が和之助の後について階段を昇っていくと、昇りきる前に板敷の廊下の向こうに畳が見え、その奥に人の気配を感じた。なにやら大きさを感じる気配だった。


 和之助が座敷へ一歩足を入れたところで「和之助様、わざわざお越しくださり、誠にありがとう存じます」という、いかにもお店者らしい慇懃な物言いの声がした。

 一方、挨拶された和之助は座敷の入り口でいきなり動きを止めたものだから、康二郎は危うくぶつかるところだった。目の前、一寸もないところに和之助の背中がある。

 ――あっぶねぇ……

 康二郎は和之助に頭突きを喰らわし、ちょっと当たっただけでもまだかなり痛い顔に追い討ちをかけるという、二重の悲劇を間一髪で回避できて、大いにホッとした。かなり肝を冷やした。


「この者が……いや、これはなるほど……」

 和之助が珍しく言い淀んでいる。

 康二郎は和之助の横から部屋の中を覗いてみた。

 そこには山があった。

 その山がこちらを見た。

 もとい、山を連想させる男がそこに座っていた。手を膝に置いて畏まって座っているのだが、デカい。体格からつい強面を連想した康二郎だったが、顔を見たら帝釈天辺りに使えそうな涼しい印象の、整った顔立ちをしていた。

 と、男が康二郎ににこっと笑いかけてきた。端正な顔立ちが、人懐こい笑顔に変わった。

「山か。全くだ」

 和之助が笑い出した。

 康二郎は思っただけのつもりだったが、山だと声に出していたらしい。

 ――し、しまった……

 初対面で雇用側の人間がへまをやらかすのはまずい。


「康二郎様でいらっしゃいますな。お初にお目にかかります。大和屋の手代、留治郎(とめじろう)と申します。お見知りおきを願います」

 山のような男の横に座っている、誰が見てもお店者だと思う、三十くらいの顎のとがった男が深々と礼をしてきた。大男の隣にいるから、小柄に見える。

 康二郎は和之助の横から部屋を覗きこんだ状態から慌てて座敷に入り、礼を返した。

 山のような男は、その間ニコニコと康二郎を見ていた。紺の看板を尻端折りにしたまま正座し、その後ろには木刀が置かれていた。男が大きいものだから、脇差のような大きさに見えたが、普通に刀の大きさの木刀なのだろう。

 和之助は「待たせたかな」と言いながら座敷の左手奥へと進み、床の間を背に留治郎と山のような男に対座した。

 康二郎は和之助が座るのを見届けてから、その斜め後ろに座った。ちょうど山のような男が真正面にいた。

 甚五郎は座敷の入り口に端座した。山のような男の斜め後ろになる。用心棒らしい対応だ。


「手前どももつい先程参ったところで」

  留治郎が如才なく言う。

「さっそくですが、こちらがこの度の野田様のご要望に手前どもが自信をもってご紹介する伊兵衛(いへえ)でございます」

 伊兵衛と紹介された山のような男は、手代の言葉に合わせて一礼した。

 礼をして上げた顔は、やはり緊張の感じられない、穏やかな表情だった。

 康二郎の方は「四股名(しこな)はなんですか」と聞きたいのを我慢した。康二郎にはこんなに大きな男は相撲取りにしか見えない。今度は声に出してはいない。そこはしっかり気を引き締めた。


「ただいまは千五百石のお旗本、石井善左衛門様の中間をしており、渡りの中間をして七年になります。この間、一度も途中で欠落したことはなく、誠に信頼のおける者でございます。喧嘩沙汰がなかったわけではございませんが、伊兵衛に落ち度のある喧嘩はわたくしどもの知る限りではございません」

 伊兵衛は若干居心地悪そうに見えた。


「伊兵衛、それほどの体躯ならば、さぞ力は強いだろうが、何か武芸を習ったことはあるのか?」

 和之助が伊兵衛に直接質し始めた。

「最初にご奉公した殿様に小太刀と柔術を少々教えていただきました。特に何流を身につけたというほどのことはございません。強いお人の見よう見真似、巻き込まれたり巻き込んだりした喧嘩でいつの間にか身につけたものにございます」

「巻き込んだりした喧嘩」と答えるあたり、なかなか正直な気質のようである。

 渡り中間には荒くれ者が多いと聞いていた康二郎は、伊兵衛の落ち着いた雰囲気のみならず、品の良さすら感じさせる話しぶりも意外だった。

 和之助は自分の履歴を自身で語れと命じた。


「生まれも育ちも江戸でございます。父親は彫師でしたが、わたくしが五つの時に死んだので、よく覚えておりません。四つ下の妹がおりまして、父親が死んでからは母親と三人で棟割長屋で暮らしました」

 棟割長屋で母子で暮らしたと聞いたとたん、康二郎はこの山のような男に親しみを感じた。

「小さい頃はどちらかというと小柄なくらいだったのですが、七つくらいからずんずん大きくなりまして、体の大きさから、酒屋での丁稚奉公を十二で始めました。その酒屋は長屋の差配さんがみつけてくだすった奉公先だったのですが、どうにも肌に合わず、一年足らずで辞めてしまいました。次の奉公先を探さなくてはと思っていたところ、酒屋の空樽集めで存じあげていたお武家様がお声をかけてくださり、その御方の御屋敷で奉公いたしました。その御屋敷で元服して以降、仕える殿様は一季ごとに変わりましたが、ずっと中間奉公をしております」


「どこの酒屋に奉公していたのだ?」

 和之助が妙に深刻な顔で聞いた。

武蔵屋(むさしや)でございます」

「芝の武蔵屋か?五年ほど前に潰れた……」

「はい。よくご存じでいらっしゃる」

 しばし和之助は伊兵衛を真顔で見つめた。

 その間、伊兵衛は畏まりつつも、やはり穏やかな表情で和之助を見返していた。

「その、お主に声をかけた武家というのは?そこでは何年つとめたのだ?その御仁に武術を教わったのだな?」

 伊兵衛は頷いた。

「はい。三百俵の榊原兵庫(さかきばらひょうご)様でございます。お亡くなりになられるまで七年ほど奉公いたしました」

「七年ほど……二十歳までか。元服は何歳で?」

 康二郎は和之助の質問に驚いた。

「満十七でございました」

「……ということは、元服後も榊原殿のところで勤め続けたのだな」

「はい。お亡くなりになるまで勤めました」

「同じように?」

 顔つきは変わらなかったが、伊兵衛が答えるまでにそれまでよりほんの少し間が開いた。

「はい。ほぼ同じように」

 康二郎は質問の意図がわからず、和之助を見た。康二郎に見えた横顔は、深刻な顔つきのままだった。


「大名屋敷でつとめたこともあるのだな?」

「はい。二季勤めました。酒井雅楽守様のお屋敷と柳沢甲斐守様のお屋敷です」

 どちらも十五万石の大藩だ。

「大名屋敷の中間部屋は色々難しいところがあるという。うまく切り抜けられたのか?」

「確かに難しいところもございますが、抜け道もございますね」

 伊兵衛の笑みにほんの少しだが不敵さが加わったように見えた。


「独り身ということだが、近々身を固める予定はあるのか?何もお前の勤め外のことを詮索しようというのではない。もしもそのような予定があるなら、通いで構わぬと思うからだ」

「一緒に暮らしているような女はおりますが、渡り中間ではなかなか落ち着いた暮らしができませんで……自分で選んだ道ですが」

 女のことを口にした伊兵衛は明らかに照れていた。その様子にこれまた康二郎は好感を持った。

 和之助は表情をいくぶん緩めた。

「では通いの方が良いのかな?康二郎の供をきっちりこなす限りにおいては、通いでも住み込みでもこちらは構わぬ」

「あの、和之助様、では伊兵衛でよろしいので?」


「康二郎、伊兵衛に質してみたいことがあるなら、質してみよ」

 和之助は留次郎の問いかけには答えず、いきなり話を振ってきたから、康二郎は慌てた。

「あ、兄上が良いと思われるのであれば、私に異論はございませぬ」

 和之助は繰り返した。

「訊いておきたいことはないのか?」

「伊兵衛殿の母君と妹君は今どうして居られるのかとは思ったのですが……ここで訊ねることでもないなと……」

 康二郎は小声で言った。和之助は伊兵衛に向き直ると、

「……だそうだ。伊兵衛、康二郎の問いは聞こえたであろう?」

「はい。康二郎様にはお優しいことで。おかげさまで母も妹も息災にしております。妹は小間物屋に嫁ぎ、母はその小間物屋が引き取ってくれております。孫の世話を焼いてのんびり暮らしているようです」

 康二郎は伊兵衛の答えにほっとした。二人とも穏やかな幸せを掴んだのだ。


「一月、試しにしてもらえるか?如月の一月を試しとして、双方納得すれば、弥生から一季雇うことにしたい」

 和之助がやっと留次郎に向かって言った。








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