第二章 天明三年 冬 (十四)
道場では、剣術の稽古を半刻ほど(約1時間)行った後に、栄之進の柔術指導が前日から始まっていた。
康二郎の意外だったことにまずは座学で、師範代に強く教え諭されたのは、その危険性だった。
ある程度は康二郎も教わっていたわけだが、柔術の本格的な殺法は、康二郎の予想を越えたものだった。
素手で相手の息の根を止めることができる。それだけに練習にも真剣での練習同様、細心の注意をしなければいけない。
栄之進の注意に、康二郎は一段と気を引き締めた。一方、一緒に教えを受けている左馬介は怯えたようにすら見えた。
金井左馬介は康二郎より数えでは一つ年下ながら、生まれた月は半年も変わらず、この時の背丈は康二郎より少し高かった。そして、康二郎の目から見ても整った顔立ちの、正に「美童」だった。
――こういう子こそ、人形みたいだと言うんだよな。比べて、俺のどこが人形だよ。
一目見て、柔術を急ぎ重点的に習いたいと言い出す理由がわかったと思った康二郎である。挨拶をしたことは何度もあったが、それ以上に口を利いたのは前日に栄之進に引き合わされた時が初めてだった。
二日目からの栄之進は、二人の少年に危険すぎて稽古で突くわけにいかない主だったツボをひとつひとつ丁寧に言葉と指し示して教えつつ、そのツボを押さえるための実践的な対応、すなわち相手が太刀持ち、小太刀持ち、丸腰の場合を想定した形とそれぞれの得物を持つ相手を押さえ込む術を教えた。
実のところ、柔術の形も剣術の形と共通するのだと言う。
聞いている少年二人の半信半疑の気持ちが素直に面に出ていたらしく、そのうちわかってくると請け合った師範代だった。
この日、稽古が終わって今日やったことの感想を言い合いながら、康二郎と左馬介が更衣室兼納戸になっている小部屋で稽古着を着替えていると、左馬介の頬が突然上気した。康二郎が驚く変化だった。
左馬介の視線を追って振り向くと、中居道場二番手の剣士、依田満助が敷居のすぐ外に立っていた。栄之進よりも少し小柄で、軽快な動きが持ち味の剣士である。
依田は康二郎には軽く声をかけ、左馬介の方を笑顔で見つめながら近づいてきた。
康二郎が左馬介を見直すと、依田を見上げる目が輝き且つ潤んでいた。
――龍三郎が言ってたのは、これか……
知識というのは偉大である。一昨日までの康二郎ならば、頬が赤くなるのを見ても、
――暑いのかな?
……くらいで済ませかねなかったが、龍三郎に人間の様々な関わり方やいとなみを教えてもらった今では、ピンときた。龍三郎の言葉をそのまま拝借すると、身体の「つながり」を伴うかどうかはともかく、二人は「できている」。
康二郎も左馬介のように赤面しそうだった。いや、この顔の熱さは赤面しているに違いない。
――じ、邪魔してはいけない。は、早くこの場から去らなければ……
康二郎は脱ぎかけていた稽古着から急いで小袖に着替えて袴を身に付けると、羽織は手に持ち、汗を拭いた手拭いは首にかけて袖頭巾は帯に挟み、「じゃ、俺は急ぐから。また明日」と左馬介に声をかけつつ依田に一礼し、和之助達が待つ稽古場へと戻った。
慌てて着替えたものだから、あちこちに収まりの悪さがある。途中で立ち止まり、片方の衿元が浮いているのを直そうとしたら、焦るあまり違う箇所を掴んだらしく全く直らなかった。
――ええい、もう!帰るだけだから良いや!
そんなこんなで身頃の片方が妙に膨らみ、まるで背負い投げを何本かくらったかのような片衿の抜きように加え、袴は若干横へずらして帯を締めてしまっている状態で現れた康二郎に、和之助は一瞬目を見張ったが、いつものように淡々とした口調で言った。
「今日は早かったな。しかしその格好では、ここでやり直しではないか?」
甚五郎はクスリと笑い、今夜の警護担当の兄弟子、杉田伝七郎はぶっと吹き出した。その直後からはしばらく「あーっはっはっは!」と大笑いする杉田の声が道場に響いた。
幸い門弟達のほとんどが帰っていて、杉田の大笑いに何事かと集まってきたのは、ほんの数名だった。しかしその中に栄之進がいた。
康二郎は失態を栄之進に見られてまた顔が熱くなったが、栄之進は笑いながらも慰めるように康二郎の背中をぽんと叩き、「笑い過ぎだ」と杉田を嗜めて奥へと戻っていった。
稽古場の隅で和之助の監督のもと、甚五郎の助太刀で着替えをやり直しさせられながら、康二郎はどうして今日はそんなに着替えを急いだのかと和之助にも、どうにも笑いが止まらない杉田にも問い詰められた。だが依田と左馬介の間柄のことを口にしていいものかわからず、うまく答えられなかった。
「きょ、今日は一段と遅くなったかなと思って……」
嘘をつくのは大の苦手な康二郎である。じっと見つめられると、目は泳ぐ。
「ああ、満助のせいか」
腹を抱え、涙まで流しながら笑い転げていた杉田がやっと笑い止んで言った。
康二郎が杉田の視線を追って振り向くと、庭の方から戻ってきたらしい依田と左馬介の姿が見えた。
確か杉田と依田は同い年である。見た目も気性も正反対に近いが、仲は良いということだ。
「康二郎は気にしなくて良いのに」
――俺は、気にしなくて良い?どういうことだ?
「しかし、本当に康二郎は面白い奴だなぁ。見ていて飽きぬ」
福笑いのようなことを言われては、馬鹿にされているとしか思えなかったが、反論できる材料が康二郎にはなかった。
杉田の言葉に康二郎の視界にいた誰も不思議そうな顔をしなかったので、二人のことを知らなかったのは康二郎だけだったらしい。
康二郎は和之助と並び、後ろに甚五郎と杉田が並ぶ隊列で、一行は帰路についた。
――それにしても、依田さんなら無理やり手……にするようなことはもちろんなく、 当然、こんな風に人を巻き込むこともなく……
歩きながら、康二郎は左馬介の上気した顔を思い出していた。翻って、己の身に起きたことが思い返されてしまう。
二人の関係が羨ましいわけではなかったが、引き比べてみるに、よりによってあんな三人組に「懸想」され、実力行使に及ばれた自分に、ガックリくるものがあった。
おそらくあの三人組も一番気になったのは左馬介だろうが、依田がついているから手を出せなかったに違いないと、康二郎は思った。しかしその結果、まさか自分に災いが降りかかろうとは。
――己の不徳のいたすところ……か?
人の好みは千差万別で、左馬介に惹かれる人が多数にしても、康二郎の方が好みだという人もそれなりにいるものだということには思い至っていない康二郎である。あんな三人組の一番の好みだったのなら、やはり「己の不徳の……」と思うかもしれないが。
「仕方ないや。棟割長屋育ちだもんな。へっ。そうさ、棟割長屋育ちは元気いいんだ。しぶといんだ。あんな卑怯な奴らに負けるもんか」
あの夜、卓之助が言った「棟割長屋育ちは……」の台詞までも思い出した康二郎は、開き直って頭巾の下で呟いた。
翌日、翌々日と、橋蔵は塾に現れなかった。
康二郎は龍三郎と三枝の屋敷へ様子を見に行こうかと考えたが、公儀に届けも出されていない三百石の家の次男坊と届けは出されているものの二百俵の三男坊が五百石の御家の嫡男に会いに行ったのでは、門前払いを食らいそうな気がして止めた。
もしも明日も塾を休んだら、例え門前払いを食らうことになったとしても、様子を尋ねるため三枝の御屋敷へ行こうと二人で決めた。




