第二章 天明三年 冬 (十三)
投げた石が巨大化していることを和之助に言うべきか否か、襲ってきた三人の当てにならない噂を耳に入れるべきか、康二郎は悩んだ。
道場へ向かう道すがら、悩んだ末に言ってみたら、和之助は驚きもせず、「噂というのは面白いな」と全く面白くなさそうに言った。
「誇張されてはいるが、あの三人のことはだいたい合ってるぞ。俺たちほどには誇張されていない」
康二郎は頭巾の下で顔から血の気が引くのを感じた。
「ま、まさか!あんな頭突きで顎の骨は砕けないでしょう?」
「小笠原勝蔵は頭突きよりも倒れた時に後頭部を強打したのが不味かったらしい。頻発する頭痛やめまいに悩まされているそうだ。お前に蹴りをくらった中山照之助は、半狂乱になってるかどうかはしらないが、片方のタマがつぶれて死にかけたのに、どうやら死にぞこなったという」
「ええっ?!つ、つぶれて死にかけたって……」
康二郎は自分のしたことに震えあがった。思わず立ち止まり、自分の股間を手で覆った。
――ちょっとやり過ぎたかなとは思ったけど、そんなこと、まさかのまさかだよ……
和之助はそんな康二郎に気づかないのか、気づかない振りをしているのか、立ち止まりはしたが、口調を変えずに話を続けた。
「そうして俺が石で後頭部を殴った松平卓之助は、気がついたときは本当に何が起きたか覚えていなかったらしい。残念ながら今でははっきり思い出しているそうだがな。全くもって残念だ。残念極まりない」
淡々と話す和之助に康二郎の方が面食らった。
「そんなに残念がらなくても……」
「なにを呑気なことを言っている?ひとが良すぎるぞ、康二郎。……ということで、二人だけじゃなく、三人とも俺たちへの仕返しに燃えているのだ。向こうから仕掛けてきたのにな。全く理不尽な話だ」
そういうことかと、康二郎は淡々と語る和之助に納得した。
二人は再び歩き始めた。後ろにはもちろん甚五郎が従っている。
「今度はお前を手篭……」
和之助は言いかけたのを途中で止めて、康二郎を見た。
「今は、何をどうしようとしていたかくらいは、わかっています」
康二郎は血の気が引いたところから今度は顔を火照らせながら言った。この時ほど頭巾を被っていて良かったと思ったことはない。
「……そうか。友達に入れ知恵してもらったか」
簡単に言い当てられたことで康二郎は確信した。
――兄上も友達に教えてもらったんだ。
「今度は手篭めではなく、ただひたすら痛め付け、大怪我をさせるだけが目的になるだろう。手段を選ばず、油断もしないだろう。しかも自分達の手を汚す必要がない。喧嘩や刃傷沙汰に慣れたのにやらせる。怪我したせいもあるが。くれぐれも油断するなよ、康二郎。この前はあいつらが俺たちをなめていたから、きりぬけられたんだ。あいつらには前科があるらしいんだ。同情無用だ」
「前科?喧嘩の、ですか?」
「違う。手篭めの方だ」
康二郎は驚きすぎてまた足が止まった。
「単なる噂で片付けられないのが二件あってな。一人はとある職人の娘で、もう一人は御家人の三男坊だ。どちらも十代半ばでずいぶん器量が良かったらしい。他にもまだ数件、噂にはあがっている」
「『良かったらしい』?」
「三男の方はまもなく溺死し、娘の方は頭がおかしくなっているということだ。だから奴らに怪我させたことは何も気にすることはないぞ。俺は三人ともタマを全部潰してやれば良かったと思っているくらいだ」
――兄上がそんな過激なことを言おうとは!
「そんなことしたら、死んでしまうじゃないですか」
「必ずしも死ぬわけではない。運悪く死んだとしても自業自得だから、これくらい願うことに良心の呵責はない」
「もしそれが本当なら、罪に問われるのでは……いくら大身のお旗本の子息でも……」
「お前を襲って返り討ちにあったことも噂にはなっているが、表立った動きは何もないのだぞ。町人の娘と扶持米どりの御家人の三男坊では泣き寝入りするしかなかっただろう。小判は少々動いたかもしれないがな」
康二郎はその噂が事実無根であることを心から願った。本人の辛さもさることながら、泣き寝入りするしかなかった家族の無念さを思うと、涙が出てきそうになる。
「腕の立つ中間の目星はついているが、如月の末まで今の勤め口を辞めるわけにいかないらしい」
和之助が話を変えてきた。
「当人は暇だから、今すぐにでもこちらに来たいらしいのだがな」
「兄上、どうして向こうの様子をそんなにご存知なのですか?」
康二郎は和之助の話を引き戻した。
「大和屋に頼んだのさ」
「大和屋に?大和屋は探索も請け負うのですか?」
「頼みに来た相手によりけりだが、懇意にしている岡っ引きやその下っ引きに口をきいてくれる。腕の立つ中間を雇う話のついでに、あの三人の様子を探ってくれと頼んだのだ。それによってこちらの備えも変えないといけないし、奴らのヤバい話はいざというとき役に立つ。掴んでおくに越したことはない。向こうも同じようなことをやっているだろうしな」
康二郎はまるで戦だと思った。お互いに相手方の情報を入手しあい、様子を窺う。隙を見せたら終わりらしい。
康二郎は、ふと甚五郎を振り返った。
甚五郎は振り向いた康二郎に笑顔を返してきた。のんびり歩いているようで、辺りの気配を窺い、いつでも刀を抜けるよう構えている。甚五郎の剣術の腕前は、佐々師範代も高く評価していた。
「甚五郎さんは、兄上の申される通りだと思うのですか?」
「向こうもこちらの様子を窺っているかどうか、ですか?今朝も町人姿の男が康二郎殿と私の後をつけてましたな」
「えっ?」
康二郎は立ちどまって甚五郎に身体を向けた。
和之助と甚五郎も康二郎に合わせて足を止めた。
「全然気がつかなかった……教えてくれれば良かったのに」
「こちらが承知していることを向こうに見せるのもひとつの手ではありますが、気づかない振りをするのも良い手です。どちらの手を使うか、和之助様のお考えを確かめた方が良いと存じまして」
康二郎は今朝の甚五郎との会話を思い返した。
又兵衛が亡くなって以降、和之助はあまり出かけなくなり、朝は康二郎と甚五郎の二人だけで塾へ向かうから、今朝はとうとう気になっていたこと甚五郎に訊ねていた。
「兄上の御供ならともかく、私一人の供はつまらないでしょう?」
「そんなことは全くござらぬ。今は康二郎殿が一番供を必要としているし、康二郎殿の御供はなかなか楽しい」
「楽しい?」
「紫の袖頭巾を被った若衆は人目を引きますから、ぼんやりしている間などありませぬ。康二郎殿のことだから面と向かって言われても気になさらないと思うが、余計な気は使わなくて良いので、ただ用心棒に徹するのみ」
そんなことを笑顔で康二郎と話しながら、甚五郎はつけてくる男に気を配っていたのだ。
――一体どうしたらそんなことができるようになるのだろう?
今の康二郎には不思議でならない。




