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第二章 天明三年 冬 (十二)

 

 男は塀の間の小道から姿を見せると、一度左右を確認してから坂を早足で下っていった。二十歳くらいの、頭は武士の髷をしていたが、着流しの着こなしが堅気にみえない体格の良い男だった。しかし一瞬月明かりに見えた顔には、そんな風体にそぐわない素朴さが感じられた。


 しばらくしておたまが塀と塀の間から出てきた。袢纏の前をしっかり合わせて震えているように見えた。

 月明かりが照らし出した顔は憔悴していて、震えているのは寒いからだけではないと康二郎は感じた。

 どのみちおたまは康二郎が潜んでいる灯籠の前を通って屋敷に戻る。少し迷ったが、康二郎は思いきって灯籠の影から出て声をかけた。

「おたまさん」

 おたまは飛び上がらないばかりに驚いた。

「こ、康二郎殿……」

「今の男の人は誰ですか?」

「……聞いてらしたんですか?」

「最後の方だけ。言い争っているような声が聞こえたので、気になって……」

「つい声が大きくなっていたんですね……あれは私の息子です。いつの間にあんなふうになってしまったのか……」

「息子さん……」

 康二郎は娘が二人いると聞いた記憶があるだけで、おたまの家族についてほとんど知らないことに気づいた。あまり話したがらないことを訊くのは気が引けていたこともある。


 十代半ばに女中奉公を始めたおたまは、微録の陪臣(大名や旗本の家臣)への嫁入りを機に一度辞めたが、家計を助けるために下の子供が五つの時に義母に世話を託して再び通いで奉公に出たと聞いていた。その後、末の子供も奉公に出た頃に住み込みに変えたという。子供は三人いたのだ。


「末っ子で長男。甘やかして育てたつもりはないのだけど、気がついたら奉公していたお家を飛び出し、博打に手を出していて……」

 おたまはため息をついた。

「名前はなんというのですか?」

佐太郎(さたろう)といいます」

「佐太郎さんは、借金を返すのにおたまさんを頼ってきたのですか?」

「借金を返すためだったら良いのだけど、懲りずに博打をするためのお金をせびりにきたのですよ」

 おたまは南の空を見上げた。そこには望月が輝いていた。

「昔はあんなんじゃなかった……あんな風になるとは思ってもみなかった。親バカですね」

 おたまは月を見上げたまま寂しく笑った。

「佐太郎さんは寂しいんですよ。きっと」

 おたまは驚いて康二郎を見た。康二郎もするりと出た自分の言葉に驚いていた。

「佐太郎さんの借金はどれくらいになってるんですか?」

「あの子が本当のことを言っていたら、今日で三十両。明日になればまた増えますけどね」

「三十両!」

 康二郎には「大金」としかわからない額である。

 おたまはまた月を見上げた。

「このままでは辞めるしかないわね……殿様にご迷惑はかけられない。何かあってからでは遅いから」


 辞めるしかないという、おたまの言葉は康二郎の心に木偶の坊に平手打ちを食らった時よりも強いくらいの衝撃を与えていた。すぐには言葉が出なかった。

 又兵衛が突然亡くなってしまったことだけでも辛くて潰れそうになったのに、茂吉は年明けに去るといい、おたままでも康二郎の元を去るというのか。三人とも康二郎の母、お松を知っていて、お松を好いてくれていて、その縁からか康二郎をも好いてくれていて、この屋敷に足を踏み入れた日から康二郎に寄り添ってきてくれた人たちである。

 ――なにもこんなに一気に去らなくたっていいじゃないか!

 康二郎は大好きな人達がこれ以上自分の元から去っていくのに耐えられないと思った。いつかは別れがくるとしても、それがなぜ揃って「今」なのか。


「佐太郎さんは野田の御家に迷惑かけないかもしれないじゃないですか」

 康二郎がやっと口を開くことができて言ったのは、心の中の嵐とは裏腹に、冷静な言葉だった。

「慌てて辞めることはないですよ」

 言葉そのものは冷静でも、声が震えてきて康二郎は無意識におたまの両手をつかんでいた。年齢のわりには小柄な方とはいえ、今では康二郎はおたまとほとんど変わらない背丈になっている。目の前にあるおたまの目を必死の思いで見つめた。

 ――お願いだから、辞めないで。辞めるなんて言わないでよ。少なくとも今は。今しばらくは……

 おたまは康二郎の声に出していない思いが通じたかのように、

「そうですね。もうしばらく様子をみてみましょうか」

 優しい笑顔で康二郎の手を握り返すと、その手を軽く挙げてみせた。


 潜り戸へ向かいながら、康二郎は思いきって尋ねた。

「おたまさんは、何年か前にもこうして夜中に門を出たことがありました?」

 おたまは康二郎の問いに不思議そうな顔を見せた。

「いいえ。佐太郎が訪ねてくるようになった、ここ三月くらいですよ。頻度は月に一度くらいで……」

 ――やはりあれはおたまさんではなかったんだ。すると、残るは……

「へ……へっくしょん!」

 康二郎はくしゃみが出た。思ったより冷えてきていた。

「あらあら。風邪をひかないようにしませんと」

 おたまは康二郎を後ろから抱えるようにして自身の袢纏で包んだ。

 昼間なら「子供扱いして」とおたまの腕を振り解いたろうが、大人しくおたまの温もりにくるまれて、康二郎は長屋へ戻った。



 ある程度予想していたことだが、翌日塾へ行くと、和之助が康二郎を助けんと暴漢にぶつけた石は、実際の一尺弱(約30㎝)から三尺(約90㎝)近くに巨大化していた。

「兄上も天狗になったか」

 ここまでくると、もはや感慨深い。

 また、昨日の時点では康二郎だけが裸にされたことになっていたのが、一日経てば襲ってきた相手も裸になっていた。

「冬の最中(さなか)に風邪をひくではないか」


 ここへ来て暴漢三人のその後の噂も流れてきた。

 一人は「男」でなくなり、半狂乱になった挙げ句に復讐に執念を燃やしているとか、一人は顎が砕けて面構えが大きく変わってしまい、やはり復讐に燃えているとか、頭を殴られた一人は記憶喪失になっていて、ひとりぼんやり過ごしているとか、なかなかの激しさである。

 自分側の噂の尾鰭のつきようや、逆に鱗を剥がされて三枚におろされたりしている様子からは、三人が生きていること以外は当てにならないと康二郎は思った。


 前日とはうって変わった康二郎の淡々とした反応に、噂の進展を集めて報告に来た龍三郎は肩透かしをくらったらしい。

「なんだ。達観しているな」

「人の口に戸は立てられぬ、だからな。躍起になって否定してまわったら、却って嘘を煽る気がするし」

「昨日とはガラリと変わって大人の対応ではないか、康二郎」

「龍三郎に比べたら子供っぽいのは認めるが、いつまでも子供ではない」

「俺のおかげかな」

 龍三郎が茶目っ気たっぷりの顔つきで偉そうに胸を張って言った。

「はいはい、今度からわからないことがあったら、まずは龍三郎先生にお聞きします」

 康二郎は頭巾から目しか出ていない状態で、龍三郎ににっこり笑いかけながら答えた。

 ――目と言葉で龍三郎に皮肉がどれだけ伝わっただろうか?

 そう思いつつ、すぐ横にいるはずの橋蔵が気になった。静かすぎる。三人の中では一番無口とはいえ、こんな康二郎と龍三郎の会話には、日頃なら笑うなり、一言茶々をいれてくるものだ。今日は一段と無口なだけでなく、心ここにあらずに見えていた。

「噂の千変万化より、そもそもの出所の方が気になってる。全くのでたらめでもないからさ」

 橋蔵の気配が薄すぎることが気になりつつも、康二郎は龍三郎の方を向いたまま言葉を続けた。

「確かにな。康二郎はあの日何も言わなかったのに、翌朝には盛大に噂が広がっていたものな」

「早すぎるよ」

「突き止められるかどうかわからないけれど、ちょっと探ってみるか」

 妙に楽しげな龍三郎だった。

 その様子に、康二郎はほとんど期待していなかったが、「頼むぜ」とたきつけるような言葉をかけた。

 橋蔵はというと、結局この日は「おはよう」と「また明日」しか言わなかった。




 


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