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第二章 天明三年 冬 (十一)

 

 翌日も紫の袖頭巾から目だけ出して塾へ現れた康二郎は、なぜか前の日以上に注目を集めた。

 いつものように挨拶したら、いつものように挨拶そのものは返ってきたものの、皆、康二郎をチラチラ見てはひそひそ話している。

 龍三郎と橋蔵がいるところへ行くと、龍三郎は康二郎の肩に手を回して庭へ連れ出した。


「一体何が……」と言いかけた康二郎より、龍三郎の勢いが勝った。

「道場の兄弟子に襲われ、裸にされたってのは本当か?」

「は?」

 康二郎は龍三郎が言ったことを理解するのに時間がかかってしまった。

「誰が裸にされたって?羽織も脱がされてないぞ!」

 康二郎はつい声が大きくなった。

「誰だよ、そんな話をでっちあげたのは!」

「そうか。でっちあげか。良かったよ」

 でっちあげとわかって、龍三郎は心底ホッとしていた。

「すると刀に追いかけられたっていうのは?」

 今度は橋蔵だ。

「刀がひとりでに追いかけてきたら怪談じゃないか」

「いや、もちろん人が刀を持ってだよ」

「それはまぁ……本当だよ」

 龍三郎も橋蔵も震え上がった。

「よく斬られなかったなぁ!……すると、相手の刀をどうやって奪ったんだ?」

「へ?」

 康二郎はだんだん腹が立ってきた。

「刀なんか奪ってない!誰がまたそんなでっちあげを!俺は逃げ回っただけだ。大男にあんなふうに刀を振り回されたら避けるだけで精一杯で、奪うなんてできるものか。最後は兄上が後ろから石でやっつけてくれたんだ」

「刀を避けるのに木の上に一蹴りで飛び上がったとか噂されてるぞ」

「天狗か!残念だが、俺は天狗ではない。そんな技、俺も見てみたいよ」

 ――なんなんだ、いったい……

 康二郎はめまいがした。

 その時、先生の姿が見えたため、三人は慌てて席についた。


 講義を受けながら康二郎はムカムカしていた。いったい誰があんな嘘を広げたのか。他にも色々な嘘が広まっていそうで、ゾッとした。

 休憩時にはまた三人で外へ出て食べた。


「噂に尾鰭(おひれ)がつくのはよくあることさ」

 龍三郎が知った口をきく。

「襲った理由が康二郎をものにするためだっていうから、いろんな尾鰭がつくんだよ。あ、それもでっちあげなのか?」

「俺を『ものにする』って?」

 龍三郎が康二郎を信じられないという顔で見つめた。

「お前を色子にするってことだ」

「……『いろこ』って何だ?」

 康二郎の無邪気な問いに龍三郎も橋蔵もしばらく呆気にとられていた。そうしてそのあとは休み時間一杯を使っての、龍三郎による各種性教育を受けることになった康二郎であった。


 康二郎は龍三郎の「講義」を拝聴している間、ただでさえ熱を持っている頬が更に熱くなり、耳まで熱くなった。途中では、こんなことをはっきり教えられるのも同い年の友達だからなのかと、教えるに教えられなかったと思われる和之助を思い浮かべたりもした。

 そして、でたらめが多いのに、落ち着いて振り返れば振り返るほど、康二郎を「ものにする」つもりで襲ったという点だけは、噂を否定できない。あのねっとりした「かわいい顔をしている」という照之助の言い方に、思わず変な声が出た股間の触り方。あの蹴りあげた時の違和感……

 思い出すだけで康二郎の身体に強い悪寒が走った。

 和之助はあの三人の思惑に気づいていたから、道場でも、行き帰りにも康二郎を一人にしなかったのだ。その結果、相手は手荒い行動に出て、あわやの危機に陥ったが、やはり和之助がいたからこそ、康二郎は最悪の事態を免れた。

 兄の人の性根を見抜く力と気遣いに、改めて感謝の気持ちが湧いた。と同時に、自分一人、知らぬがなんとかの大間抜けだったことに、昨夕に道場で持ち直した気分はまた深く落ち込んだ。


「それにしても龍三郎はなんでそんなに詳しいんだ?」

 橋蔵が感心して言った。

「康二郎を襲った手合ほどのワルではないと思うが、俺には二人もワルで好色な兄がいるからな。昨夜も嬉しげに枕絵を眺めて『寸評』していたよ。狭い家なんだから、聞きたくなくても、小声でも、兄達の会話は耳に入ってくる。あ、俺の兄はどちらも女子にしか興味はないようだし、ワルといっても無理やり手篭めにするようなワル中のワルではないから、安心しろ」

 龍三郎は康二郎を見て言った。

「そんな心配してないよ」

「でもひょっとしたら、頭巾を被ってる康二郎には興味を持つかもしれないぞ」

 頭巾を被り直していた康二郎は何を言ってるんだと橋蔵を見た。

 龍三郎も橋蔵の言うことがわからなかったらしい。

「なんだって?」

「だって頭巾を被ると、女の子に見えるわけじゃないけど、男じゃないみたいに見えるから……」

「……それで?」

 龍三郎はなにかと追及せずにいられない性質(たち)なのかもしれない。

「いや、なんというか……ちょっと気になる。……というか、見ててちょっと楽しい」

 康二郎は頭巾を被るのをやめようと思った。


 頭巾を被るのはもうやめようと思った康二郎だが、腫れている上に青から紫へと斑に変わりつつある色が毒々しいと、龍三郎と橋蔵が二人がかりで被り続けるよう、説得というよりも懇願してきたので、折れた。昼休み後も大人しく頭巾を被って勉強をした。


 静かに講義を聞いていたら、視線を感じてそちらを見た。挨拶くらいしかしたことのない少年が康二郎を見ていた。康二郎と視線が合うと、慌ててうつむいた。ふと反対側を向いてみたら、やはり数名の少年が慌ててうつむくのが見えた。

 暴漢に裸にされただの、刀を避けるのに一蹴りで木に飛び上がっただのと、嘘が広がっているからだろうなと康二郎はうんざりした。


 自習の時間になったとき、康二郎の回りに妙に人だかりがした。

 康二郎はでっち上げの噂の真偽を問う詰問を受けるのかと身構えた。隣に座っていた龍三郎と橋蔵も身構えたのがわかった。


「今月下旬の塾が休みの日はちょうど(とり)の市だから、皆で浅草の(おおとり)神社へ行こうという話が出ているのだが、康二郎殿に龍三郎、橋蔵殿もどうだ?一緒に行かないか」

 口を開いたのは、塾生の中でも優秀で面倒見が良いと評判の野田家と同じく三百石の旗本の家の嫡男、板倉源八郎(いたくらげんぱちろう)という少年だった。数えでは同い年だが、春の生まれで、今では康二郎よりかなり背が高い。見た目も中身も背筋の延びている源八郎に、以前、康二郎はつい敬語で話してしまい、大笑いされたことがある。このときも康二郎はつい丁寧語で喋りそうになるのをなんとかギリギリで踏みとどまった。

「鷲神社へ?」

「康二郎殿は年内でここを辞めるのだろう。せっかくだから、それまでに皆で楽しい思い出を作ろうではないか」

 思わぬ申し出に康二郎は目をぱちくりさせた。

 そんな康二郎を眩しそうに源八郎は見ていた。

「あ、ありがとう。でも俺は金があまりないのだけど……」

「金のことは心配しなくていい。全く持っていないのは困るが、一銭でも一文でも構わない。もっと出せる奴がもっと出すのだ」

 源八郎は周りにいる少年たちをそうだろうと言うように見回した。少年たちからは頷きが返ってきた。

「それならば……」

 康二郎は龍三郎と橋蔵を見た。二人も頷き返した。

「もちろん俺たちも行く。そんな話が持ち上がってるとは知らなかったぞ、源八郎」

「思わぬ方向に話が広がったのだ。最初に誘ったのは、こいつとこいつだけで、俺もまさかこうなるとは思わなかった」

 源八郎は龍三郎に笑いかけた。


 こんなに大勢の同年代の少年達と一緒に出かけるなど、これまでになかったことである。最後に良い思い出ができるのかもしれないと、重たかった康二郎の気持ちは少し軽くなった。



 この夜は昼間の龍三郎の性教育のおかげで、康二郎はなかなか寝付けなかった。女の人を見る目が変わりそうで怖い。もちろんそうしたことを全く知らなかったわけではなく、それなりに知っていたつもりだったのだけれども、初めて知ったことも多かった。この年まで大して知らなかったことが振り返ると恥ずかしい。

 ――元服前に知ることができて良かった……

 昔々、長屋でチラと目にしたり、耳にしたことのある不思議な光景を思いだし、何が行われていたかが今になってはっきりわかって赤面する。長屋であのまま暮らしていた方がそのテのことは早く知ったに違いない。なんという皮肉だろう。


 衆道*については言葉くらいは耳にしたことがあったが、具体的なことは何も知らずにいた。気にしていなかった。自分には関係ないと思っていた。

 木偶の坊達が三人がかりで目論んでいたことをズケッと龍三郎から聞かされた時には恐怖と嫌悪に身震いしたが、衆道そのものには戦国時代の武士の習わしが天下泰平の今でも、下火になりつつも、それなりに続いているということで、人によっては平気だったり何か良いことがあるのだろうと、龍三郎や橋蔵同様、頭から否定する気は起こらなかった。ただし、あくまでも自分は関わりがないという条件付きで。


 それにしても、龍三郎の知識の源泉が二人の兄で、昨夜も枕絵を広げて喜んでいたというのには、翻って「我が兄上はどうなんだろう?」と思わずにいられない。康二郎と同様、同年代の友人から知識を得たのだとしたら、よく開かれている勉強会とやらが怪しく見えてくる。大っぴらに言える勉強もしているだろうけども、時々枕絵や枕本を広げて「寸評」していて不思議はない気がした。なんといっても十七、八才の、血気盛んな若者の集まりである。……と、康二郎は聞いている。


 嘘だらけの噂が広がっていることにも悶々とした。微妙に事実が入っているところをみると、康二郎の顔の怪我から妄想しただけではないだろう。いったいどこから漏れたのか。誰が漏らしたのか。康二郎の物思いは続いた。


  この一月ほどは康二郎にとって悲しいことや辛いこと、腹の立つことが次から次へと起こっている。

「良いことも続かないけど、悪いことも続かないんだよ」

 亡き母の言葉が浮かんだ。

 三人の悪党に襲われても誰も大怪我はしなかったし、仕返しへの対策も道場が助太刀してくれ、前々からもっと習いたかった柔術も教えてもらえることになった。それなら、茂吉がやめる必要はなくなるのではないかと思ったりした。今まであまり話す機会のなかった塾生と交流する機会も最後に得られそうだ。

 悪いことが続くのは終わったと思いたかった。


 気がつけば、なにやら微かに音が聞こえている。康二郎は耳をすました。どうやら人の声だ。

 野田屋敷へやって来てまもない頃の夜に見た女の後ろ姿を思い出した。しばらく夜中に動く人の気配などなかったから、すっかり忘れていたことだった。

 窓から外を見たが、声だけで姿は見えなかった。なにやら言い争っている声に聞こえる。

 康二郎は袢纏(はんてん)を引っ掛け、木刀を手に階段をそっと降りた。


 静かに門脇の潜戸を開けて外へ出た。潜戸の(かんぬき)ははずされていた。誰かが屋敷を出たのだ。

 上から聞いたより声が少し大きくなっている。

 声のする方に足音を忍ばせ歩いていった。女と男が言い争っているようだ。

 ――こんな真夜中に、こんな武家屋敷が立ち並ぶ道で言い争っているなんて、いったいどういう争いだ?


 野田屋敷を囲む塀と隣の武家屋敷を囲む塀の間に人一人通れるくらいの細い道がある。声はその道の奥から聞こえていた。

「これで終わりになんかできるかよ。また来るぜ」

「お屋敷に来るなと言ってるでしょう。何度言ったらわかるの!」

 おたまの声だった。こんなに怒りを込めた声は初めて聞いた。康二郎は心の臓にくるくらい驚いた。

「姉上に言伝てしろと言っても、あいつがちゃんと伝えないんだから、来るしかないさ」

 男の声はまだ若く、短い言葉の吐き出し方からも自堕落なふうが感じられた。

「これが最後ですよ。お前にあげられる金子はもうないから、今度来たら門前払いしますよ。お願いだから、このお屋敷に迷惑かけるようなことだけはしないでおくれ」

「さぁ、どうだろな。借金取りがそんな頼みを聞いてくれるかはわからないな」

 男が小道から出てくる気配があった。

 康二郎は慌てて少し戻り、門脇に置いてある火の消えた灯籠の影に潜んだ。













* 念のための注: 現代の先進諸国の法律に照らすと、「衆道」は元服済の「成人」が元服前という「未成年」を対象としている感情及び行為なので、STK行為があった場合、児童SG待という犯罪になります。わずかに例外となる、或いは情状酌量できるケースが中にはあるでしょうが、基本的にはすべて犯罪です。しかも江戸時代以前は主に数え年を使っていた上に、現代より子供の成長が遅かったと考えるられるので、残虐性がいっそう高まります。そもそも女性のKわり的に戦国時代に広まった面がありますし、STK行為があった場合、現代の視点からは、成人側のS向には、同S愛よりもS児S愛に分類した方が良いような傾向が多かったと考えられます。

(後々、作品内でも簡単に当時の慣習とだけで片付けられない問題性に言及していますが、初出のココではスルーしているので、「念のための注」です)



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