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第二章 天明三年 冬 (十)

 

「康二郎、その顔は……」

 龍三郎と橋蔵は、頭巾を取った康二郎の顔を見ると、康二郎の期待に違わず、見事に声を揃えて言った。

「卑怯な木偶の坊に張り手をくらったんだ」

 康二郎は和之助の命名を採用して答えた。

「相当痛かったろう?」

 そう言った龍三郎の顔と橋蔵の顔は、すっかり青ざめていた。

「痛かったのは痛かったけど、腹が立っていたからか、そのときは地面に叩きつけられても案外平気だった。むしろ今の方がじんじん痛くて辛い……」

 康二郎は友の前では正直だった。

「冷やした方がいいっていうぜ」

「昨夜は冷やしてたさ。いつまでも冷やしているわけにいかないじゃないか。それじゃ何もできない。じつは喋るのもちょっと辛いんだ。口の中を切ってるし……」

「何があったか聞きたいけど、喋るのが辛いのでは無理させられないな」

「みんな好奇心剥き出しでこっちを見ているぞ」

 橋蔵が周りをさりげなく指差しながら、声を落として言った。

 三人はあまり目立たないよう、冬場には人がほとんどいない学舎の庭の一角で話していたのだが、橋蔵の言葉に康二郎が周りを見回すと、目に入った庭にいる六人の少年たちは皆、三人を見ていた。その多くは康二郎の顔に目が釘付けになっている。

 ――まぁ無理ないな。

 少々寒いが、腫れている顔には冷たい風が心地よい。

 三人は地面に座り込んで間食に持ってきた弁当を広げた。

 康二郎のこの日の弁当は、小振りなおにぎり、ほぐした魚の身に漬物と、あまり口を動かせないことに配慮した内容だった。康二郎は嬉しく思った。痕が残らないかと心配しすぎるのは本音でうっとおしかったが、康二郎を心配してくれる気持ちそのものは、心底からありがたいと思っていた。

「しかし頭巾姿も目立ってるぞ」

「わかってる」

 康二郎は短く答えた。

「どちらをとるかだが……まぁ頭巾姿の方がいいな。見る側としては」

 ――だから、被って大人しくしてるんじゃないか!

 康二郎は喋るのが面倒になって橋蔵の言葉にはちらと見返しただけで済ませた。



 塾を出ると、いつものように近くの平川天神の鳥居で和之助が甚五郎を従え、康二郎を待っていた。

 和之助は頭巾から目だけ出して黙々と歩いている康二郎と並んで歩きながら、口入れ屋での成り行きを教えた。

「大和屋の主人は俺の話を聞くと、すぐに適任の中間がいると言ってきた。早く決まるかもしれん。用人の方はさっぱりらしいのだがな。ま、こちらが出した条件が相当高いから仕方ないのだが」


 大和屋とは、野田家が長く使っている口入れ屋で甚五郎も、今いる庄次郎も伊三治も、大和屋の口入れで野田家に勤め始めた渡りの武家奉公人だ。甚五郎は今では野田家が直接雇っている形だが、庄次郎と伊三治は今も大和屋を介して一季ごとに請状を更新している。


  気合いや木刀を打ちならす音が門の外にまで聞こえている中居道場へ、和之助のあとから康二郎が頭巾姿で足を踏み入れると、練習していた門下生が次々に手を止めて康二郎を見つめてきた。それから和之助に目を移し、また康二郎を見つめる。

 佐々栄之進は和之助と康二郎に気づくと、すぐに向こうから近づいてきた。

「誰かと思ったら康二郎か。目だけ出した頭巾姿とはどうしたのだ?」

「……ということは、昨夜のことはお耳に入っていないのですね。中居先生はいらっしゃいますか?お二人にお話しないといけないことが起こってしまいました」

 和之助の言葉に、栄之進は和之助から康二郎にまた目を移した。

「では、奥へ」


 奥の一間に和之助と康二郎が端座して間もなく、道場主の中居九郎右衛門が栄之進と共に現れた。

 二人が着座するのを見届け、和之助は康二郎に頭巾を取るよう言った。

 康二郎は黙って頭巾を取った。

 九郎右衛門も栄之進も目を見開いた。

「その顔は……」

 ――そりゃそうくるよな。

 康二郎は神妙に座り続けていたが、内心では無性に木刀を振るい、暴れだしたい気分になっていた。


「昨夜、この道場からの帰り道に三人の男が襲ってきたのです。私はいきなり後頭部を殴られて気を失い、康二郎はごらんのとおり顔を殴られ、刀まで向けられました。口の中を切っており、喋るのが辛いようです」

「なんと……一体何故……目的は……」

 九郎右衛門の問いに和之助は康二郎を見た。

「目的は康二郎です。私が気を失う前に見たのは羽交い締めにされている康二郎でした」

 九郎右衛門は痛ましげに康二郎を見た。

「……ですが、康二郎が大人しく言うことを聞くわけがない。隙を見て反撃した結果、顔を殴られ、相手の一人は刀を抜きました。私が気がついたときには、黒い頭巾を被った大男が刀を振り回して康二郎を追いかけ回していました。今思い出してもゾッとする……」

「襲ったのはひょっとして、ひょっとしなくても、照之助達か?だから、奥で話したいと……」

 あっさりと栄之進は犯人を当てた。和之助が頷いた。

「なんとあやつらが……まさか……確かに素行は良くないが、弟弟子を相手に刀を抜くなど……栄之進、すぐに名前が出るとは、なにか思い当たる節でもあったのか」

 九郎右衛門が栄之進に質してきた。

「は。まさかそのような暴挙に及ぶとは思っておりませんでしたが、少々気になることがあり……」

 栄之進はちらと康二郎を見た。

 康二郎は栄之進の視線に驚いた目を返した。

 ――気になることって?

 その様子にほっとしたらしい栄之進は、和之助に向かって言った。

「普段ならとうに現れて管を巻いているのに、今日は三人ともまだ現れていない。お二人に反撃され、向こうもそれなりに怪我をしたのでしょうな」

「刀を振り回していた松平卓之助(まつだいらたくのすけ)は、私が後頭部を石で殴りました。あとの二人も気を失う程度には康二郎に顔や、その、急所を……」

 和之助の言い方に察したらしい栄之進はニヤリと笑った。それから立ち上がって康二郎の目の前に来ると、見分するように康二郎の顔を見つめた。康二郎は妙に緊張した。

「ふむ。羽交い締めにしている手に噛みついたか引っ掻いたかな?それで頭に来た卓之助は平手打ちを喰らわせ、康二郎は地面に叩きつけられた。その直後に卓之助は刀まで抜いたのだな?」

 康二郎は、昨夜の出来事を怪我の様子から言い当てた栄之進に驚きながら、頷いた。

「驚くことではない。あいつらのやることなら、そんなものだ。刀からはうまく逃げられたようだな」

「佐々師範代のおかげです」

 康二郎は滑舌悪くも、これだけは言っておかないと……と、道場に着いてから初めて口を開いた。

「いつも受けている師範代の木刀の振りに比べたら、何倍も遅かった。避けるだけなら、どうということはなかったんです」

 康二郎は反撃できなかった悔しさを最後の言葉に込めた。

「卓之助の振りはそんなに遅かったか」

「はい」

 こくりと頷いた康二郎に、栄之進は立ち上がりながら、からからと笑った。

 松平卓之助は現門下生五十人を数える中居道場七番手の剣士だ。素行に問題はあっても、大柄で力も強く、剣術の腕は確かなはずだった。そのうえ能美(のうみ)松平の分家という、二千石の旗本の嫡男だから、血筋にも自負がある。自分から言い出したのではないらしいが、「卓之助」ではなく「(すぐる)」と呼ばせていることもその証左だ。

 康二郎は、相手を知って、自分のような者には我慢ならないのだなと納得はした。

 あとの二人は、照之助が千五百石の中山家の三男で、勝蔵が千二百石の小笠原家の嫡男である。


「おそらく仕返しを考えているでしょうな」

 栄之進は元の位置に着座してから、和之助に向かって言った。

「急ぎできることとして、康二郎には木刀を持たせ、いつもは父の供をしている侍の萱島に康二郎の送り迎えをさせることにしました」

 まだ小柄で若衆髷の康二郎が差している二刀は、一応刃はあるものの、和之助や甚五郎が差している刀に比べれば短く玩具のような刀だ。そんな刀よりも、木刀の方が道場で振り慣れている分、康二郎にとって実戦向きだろうと和之助は考えているのだ。


「昼間はそれで良いとして、大胆な仕掛をしやすいここからの帰りには、門下生の誰かをつけましょう。暇なやつも多いし、この事態を放っておいては、当道場の恥になることです」

「ありがたいお申し出ですが、皆さまのご負担になるのでは……」

「交代でやれば、それほど負担になりますまい。ひとまず私と松浦、杉田で始めてみますかな。杉田には帰り道になるから、負担ということでは一番少ない」

 康二郎は話がどんどん大事になってきているのに焦り始めた。

 ――家の恥だの、道場の恥だの……

 自分が襲撃の目的と言われて納得されてのこの展開は黙っていられない。

「あ、あのぉ……昨夜襲ってきた目的が私だったとしたら、仕返しがあるにしても、どうしてこんなにたくさんの人を巻き込まないといけないのでしょう?」

 康二郎の素朴な疑問だった。

 最初に口を開いたのは和之助だった。

「相手は二千石の旗本だぞ。仕返しの規模もどれだけ大がかりになるかわからん」

「どうして私なんかにそんなに躍起にならないといけないんですか?」

 和之助は呆気にとられたらしい。何か言いかけたが、康二郎を見つめ返しただけだった。

「いい問いだ」

 答えたのは栄之進だった。


「元々は康二郎が気に入ったからであっても、襲撃という行動を取らせたのは、単なる恋慕だけではない。他にそうさせるものがあったからだ。そこにはこの道場への不満や私への反感もあったのだと思う」

「れんぼ」が漢字にならなかった康二郎だが、後半には「ああ……」と納得した。

「そういえば、照之助という人が佐々師範代のお名前を出しました。私が師範代のお気に入りだとかなんとか……」

「やはりな」

 栄之進は苦笑いした。

「つまり、この件は康二郎や野田家だけの問題ではないのだ。むしろ中心はこの道場にあると言ってもいい」

 中居九郎右衛門が栄之進の言葉に頷いた。

「栄之進の言うとおりだ。だから、当道場を挙げてそなた達を守る必要があるのだよ。彼奴らはもちろん破門だ」

「康二郎は他に通っている道場はないのだな?」

 栄之進が康二郎に尋ねた。康二郎はそろりとかぶりを振った。

「私が当道場以外に通うのを嫌がったものだから、康二郎も通っているのはここだけなのですが……」

 和之助が事情を付け加えた。

「柔術を主としている流派はどんどん変わってきていますね。一刀流にももちろん柔術はありますが、あくまでも剣術を補う柔術です。そのため康二郎にはまだあまり教えてはいなかったのですが、一刀流柔術をもっと教えておくべきだったと、今、後悔しています。コツを知っているのと知らないのでは全く違いますからな」

 栄之進は九郎右衛門へ向いた。

「先生、しばらくは柔術に重きを置いて、康二郎と先だってから話のあった左馬之介を指導したいと思うのですが、お許しいただけますでしょうか」

 康二郎は信じられない気持ちで栄之進を見た。目は輝いていたに違いない。康二郎の視線に気づいた栄之進が、康二郎に笑みを返した。

「さすれば康二郎のことですから、剣術の腕も伸びることでしょう」

 康二郎は思わず祈るような気持ちで九郎右衛門の顔を見た。九郎右衛門は栄之進ではなく康二郎を見ていて、もう笑っていた。

「よかろう。お前がこなせるのならばな」

「ありがとうございます。康二郎、どうだ。やってみるか?」

「はい!」

 この日一番大きな声が出た。

 道場からの帰り道を強い兄弟子達が交代で同道してくれる上に、佐々師範代が柔術を教えてくれるなど、康二郎は嬉しいやら心苦しいやら、楽しみすぎるやら。なんにしても、とんでもないことになってしまった。





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