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第二章 天明三年 冬 (九)

 

 顔が左右とも熱を持っていたが、眠りを妨げるほどではなく、ぐっすり眠って目覚めたときには、昨夜の出来事がすっかり康二郎の頭から抜けていた。つい寝返りをうって顔を横に向けると、枕に軽く当たっただけなのに痛みで唸った。

 ――くそっ。思い出した……

 長屋の外にある水場で顔を洗うと、普段なら凍るように冷たくて嫌な水が気持ち良かった。長屋の同居人である甚五郎と庄次郎は、殴られて一夜たった康二郎の顔を見ると一瞬目を見張ったが、そこは二刀佩刀の矜持か思いやりか、顔のことには触れず、よく眠れたかとだけ聞いてきた。


 ところで、この庄次郎は康二郎が野田家にやって来た時の庄次郎ではない。あの時にいた庄次郎は三年後の季代わりで野田家を辞めた。兄が急死したため、故郷にもどって家を継ぐことになったのが理由だった。

 先の庄次郎も若様の次に康二郎に近い年齢だったが、康二郎にとっての二代目庄次郎は、さらに康二郎の年齢に近い。五歳上なだけだ。そして、名主の四男ながら、剣術や柔術を先の庄次郎より身につけていて、和之助いわく、若党として理想的だそうだ。

 旗本や大名家によっては呼びやすさからか、家士や奉公人のほとんどの名前を使い回ししていたり、呼びやすいように、或いは好みで名前を変えたりしているが、野田家では百姓や町人を二刀佩刀させる若党に雇った時だけ、代々「信田庄次郎」を名乗らせていた。

 康二郎がそのことを知ったのは新たに「庄次郎」が雇われた時だったのだが、その時ふっと音の近さから、おっかさんは「康二郎」という名前を代々野田家が使っている「庄次郎」からつけたのではないかと思った。今となっては命名の本当の理由はわからない。


 一方、俊三を引き連れ、長屋の侍組のための朝食を持って現れたおたまは、康二郎の顔を見ると「まぁ……」と声をあげた後に言葉が続かず、目頭を抑えた。

 康二郎は鏡を見ていないから、自分がどんな面相になっているかわかっていない。このままわからないでいる方がいい気がした。


 食べ終わる頃におたまが布を手に再び長屋へ現れた。

「康二郎殿、お出掛けになる時にはしばらくこれをお被りなさいませ」

 なにかと思ったら、紫の袖頭巾だった。名前のとおり袖の形をしていて、身頃につける方から頭をいれ、手を出すところから顔を出すという頭巾だ。被っただけですっぽり頭を包めるし、顔の隠れ具合も調整できる便利な代物である。

 康二郎は一々面倒くさいと思ったが、おたまが康二郎の顔を見ていられないのだろうし、道行く人を驚かせてもいけないなと、素直におたまの言うことを聞くことにした。

 おたまが目に涙をにじませながら、康二郎に頭巾を被せて、なるべく色が変わっている箇所が見えないよう形を整えるのを、萱島甚五郎が側で眺めていた。

 ――そろそろ殿様がお出掛けになる頃なのに、今日はのんびりしておられる……どうしたんだろう?

 不思議に思って康二郎は甚五郎を見た。

 康二郎の視線に甚五郎は何を思ったのか、

「似合っておいでだ。かえって人目を引くかもしれませんな」

 と笑顔を見せて言った。

「康二郎殿は目が綺麗ですものね。お松ゆずりの目。目は隠すわけにいかないし」

 ――目が綺麗?初めて言われた……と思う……

 康二郎は少し照れた。


 間もなく殿様がお出掛けになった。

 康二郎はいつものように長屋の小窓から見送ったのだが、驚いたことに甚五郎も康二郎と並んで長屋の小窓から殿様を見送った。殿様の御供は庄次郎、伊佐治と俊三だった。

「甚五郎さん、どうしたのですか?なぜ今日は殿様の御供ではないのですか?」

「今日からはしばらく若様と康二郎殿の御供をすることになりもうした」

「ええっ?!」

 驚きのあまり大きな声が出た康二郎だった。

 甚五郎は屋敷で一番武術に長けた侍だ。だからこそ、殿様の供をしている。

 ――甚五郎さんを若様の御供にするのはともかく、俺の供までさせるとは、なんと言う無駄遣いだろう。

 康二郎はすぐにまた襲われるとは考えていなかった。そのうち仕返しがあるかもしれないとは思うが、今後は用心するし、木刀を持ち歩いていれば、襲われたとてあの三人ならばどうということはないと思っていた。

「康二郎殿が出掛ける前に若様がお話になるそうです。そろそろ母屋へ参りましょう」


 和之助は玄関脇の又兵衛の仕事部屋だった座敷で康二郎を待ち構えていた。

「頭巾を持っていくおたまと一緒に長屋へ行くつもりが、母上に捕まってしまった。しつこくて参った……」

 和之助はげんなりした表情で言った。

 奥様がどんなことを言ったか、聞かなくても今の康二郎にはだいたい見当がつく。

 和之助の怪我の具合を何度も確認し、涙を流しながら「あんな者のためにお前が怪我をさせられたなど、なんという疫病神!許せぬ!なぜお前はあれを庇ったのです?そのまま放っておけばよかったのです。そうすれば、この家に災いがかかることもなかった……」くらいのことは、口から泡を吹かんばかりに激しくおっしゃったはずである。

 今回のことは奥様に疫病神と言われても仕方ないと思う康二郎だった。


 和之助は頭巾を被った康二郎に目を細めた。

「うまく隠したものだな。せっかくきれいに隠したところを悪いが、一夜明けてどうなったか見せてくれるか」

 康二郎は一度はずしたら、さっきのようには被れないと思ったが、自分でできるようになるに越したことはないと、おたまの工夫をなるべく記憶に留める努力をしながら、はずしてみた。

 頭巾をはずすにつれて、和之助の顔は曇っていった。

「鏡はもちろん見ていないな?」

 康二郎は頷いた。

「あんな木偶(でく)の坊に本気で平手打ちくったら、こうなるよな……」

 和之助はため息をついた。

「そんなに酷いですか?」

「顔の半分以上が青くなっている。頬は両方とも腫れあがっているし、右は擦り傷付きだ。明後日辺りには青から紫に変わっているのだろうな。痛みはどうだ?」

「当たらなければ大丈夫です」

「当たらなければ、か」

「甚五郎さんが若様の御供はともかく、私の供をするというのは、一体どういうことですか?まさか、すぐに仕返しにくることはないでしょう?向こうも怪我しているし」

 和之助は康二郎を悲しげに見つめた。

「あの三人が自ら仕返しにくることはないと思う。だが人を使ってくることは、大いにあり得る」

「人を使う……」

 康二郎は唖然とした。人を雇ってまで襲わせるなど、全く考えが及んでいなかった。


「あちらには金だけなら我が家よりあるからな。こんな目に遭いながら、なんの用心もせず、もしもまたお前が襲われたとしたら、それこそ野田家の恥だ。父上は腕の立つ足軽か中間を雇うと申された。これから俺が口入れ屋に頼みに行くのだが、思うような人物がみつかるまで、甚五郎がお前の塾と道場の送り迎えをする。はっきり言ってしまえば、用心棒としてつく。わかったな」

 頷きかけて、康二郎は言った。

「人を増やせるのですか?腕の立つ足軽となると、給金も高くなるでしょう?又兵衛様は色々苦労してらしたようなのに……」

「さすが又兵衛の仕事を手伝っていただけのことはある。我が家の台所事情をよくわかっている」

 そこで和之助は少し間を置いた。

「茂吉が暇を取って、娘夫婦のもとで暮らすのだ」


 康二郎はすぐに言葉が出なかった。

「……ど、どうして?ついこの間まで死ぬまでここで勤めたいって言っていたのに……」

 康二郎には信じられなかった。

「お前がこんな目に遭ってしまったことに責任を感じているのだ。若い頃にはそれなりに腕にも自信があったが、今ではもう無理だと。自分が辞めて、その分の給金に少し足せばもっと若くて腕の立つ中間を雇える。昨夜は涙ながらに父上と俺にそう訴えた……」

 康二郎の目に涙が滲んできた。

 ――又兵衛様に続いて茂吉さんもいなくなるなんて、嫌だ……嫌だよ……

 和之助は康二郎の肩に手を置いた。

「すぐに辞めるわけではない。代わりが見つかるまではいるし、早く見つかった場合にも、お前の元服が済むまではここにいたいと言っていた」

 ――俺の元服が済むまでは……

 康二郎の目からとうとう涙がこぼれた。慌てて涙を手で拭ったら、顔が痛かった。思わず顔をしかめた。

 和之助は懐から手拭いを出すと、康二郎の頬にそっと当てた。

「この屋敷を去った後にも茂吉とは逢えるさ。それに、もうかなりの年なのだから、娘夫婦のところでゆっくりするのは茂吉にとって良いことのはずだ」

 手拭いを和之助から受け取ると、康二郎はそのまま顔を覆った。顔を手拭いで隠したまま、和之助の言葉に頷いてみせた。

 ――俺がもっと強かったなら、大きかったなら、茂吉さんは辞めなくて良かったのに……

 悔しさが更に涙をこぼれさせた。





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