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第二章 天明三年 冬 (八)

 その時、後ろに駆けてくる足音が聞こえた。

「若様、康二郎様!」

 茂吉の声だった。

「茂吉さん!良かった、無事で……」

 康二郎は必死に駆けてくる初老の茂吉を笑顔で迎えた。

 茂吉は手に二刀を持っていた。

「その二刀は俺が差してたもの?」

 元はと言えば、和之助が差していた二刀だから、康二郎には自分の刀という気持ちがない。「使わせてもらっている」という意識だから、どうしても「俺の刀」ではなく、一々「俺が差している刀」となる。

 茂吉は近づくにつれ、表情が曇ってきた。

「康二郎様、そのお顔は……お姿は……」

 目の前まで来たときには、月明かりのせいだけではなく、ひどく青ざめていた。

「へへ、ちょっと転んだんだ。大したことはないよ」

 茂吉は説明を求めるように和之助を見た。

「俺も後頭部を殴られてしばらく気を失ってしまい、康二郎がどんな目に遭ったのか詳しいことは知らないのだ。尋ねるのは屋敷に帰ってからにしようと思ってな。茂吉は何があったんだ?俺と同じかな」

「溜池に出た所でいきなり後ろから頭を殴られまして……お二人を危ない目に遭わせてしまい、なんのお役にも立てず、お詫びのしようもございません……」

 茂吉は声をつまらせていたが、言い終わると和之助と康二郎に向かって土下座した。

「よさないか。お前が無事でなによりだ」

「茂吉さん、さ、早くお屋敷へ帰りましょう」

 康二郎は土下座している茂吉の手を取った。



「康二郎殿、そのお顔は……」

 おたまは康二郎の顔を見るなり、茂吉、門番をしていた伊三治と全く同じことを呟いた。

「なんて酷いことに……痕が残ったら、どうしましょう!すぐに冷やさなくては……」

 ――これくらい、斬られたわけじゃないんだから、痕なんか残らないよ。

 康二郎はおたまの言葉に笑いたかったが、笑おうとしたら存外痛くて、顔をしかめただけになった。


 康二郎はボロボロのうえにドロドロになっていた着物を着替え、おたまが用意した冷たい手拭いを顔の右半分にあてながら、手短に起こったことを話した。

 左側は擦り傷があるので焼酎で消毒され、膏薬をたっぷり塗られている。口の中も切っていて、喋るのも少々辛かった。また夢中だったから、今では覚えていないこともある。言葉足らずなところや、ことの前後は和之助が補足してくれたのが、ありがたかった。

 その和之助もおたまも茂吉も、康二郎が手酷く殴られた直後から刀を振り回されたというくだりには、真っ青になっていた。


「兄上が助けてくださったんです」

「間に合って良かった、本当に……気がついて辺りを見回したら、頭巾を被った男が康二郎に向かって刀をぶん回していたのだ。血の気が一気に引いて、直後には一気に頭に血が昇ったよ。康二郎は見事に刃を交わしていたのだがね」

「佐々師範代に比べたら亀みたいな遅さだったから、避けるのは簡単だったんです。ただ得物が何もなかったから、ひたすら逃げまわるしかなくて……」

 思い出しても悔しい。

「刀があったら、さっさとケリをつけられたのに……」

「佩刀していても咄嗟に人に向けて抜くことができるかという問題があると思うが……。俺は刀を抜くのを躊躇った。重みが違うからな。下手すると御家断絶だ。石の方が良いと思った……康二郎の場合は、木刀を持ち歩いた方が良いかもしれない」

 和之助が痛々しそうに康二郎の顔を見ながら言った。


 殿様への報告は和之助だけで行うかと思ったら、「一緒に来い」と、康二郎は和之助に殿様が待つ座敷へ連れていかれた。

 康二郎は座敷に入る前から平伏し、そのまま座敷の中へも膝行してひたすらうつむいたまま、上座の殿様の近くに座った和之助が要領よく三人の悪党兄弟子の襲撃を話すのを聞いた。

「相手が高禄の旗本とは厄介だな……」

 話を聞き終わると、殿様は苦々しげに呟いた。

「夜分ですが、念のため甲山先生に来てもらってもいいでしょうか?康二郎は医者は要らないというのですが、かなりひどく殴られ、口の中も切っています」

「あ。わ、わたくしは甲山先生に診ていただく必要はありません。……が、若様と茂吉さんは後頭部を気を失うほど殴られたのですから、診ていただいたほうがいいと……」

 畳に目を落としたまま言った康二郎の視界に、白足袋と鼠色の着流しが入ってきた。

 着流しは目の前で膝をついた。

「康二郎、顔をあげなさい」

 ほぼ真上から声がした。驚きのあまりすぐに顔を上げられずにいたら、手が延びてきて顎を持ち上げられた。

 呆然と康二郎はされるがままになった。目の前に殿様の顔がある。こんなに近くで見るのは初めてのことだ。

 ――息しちゃいけない……

 何故かそう思った。

 びっくりし過ぎて全身がかちんこちんに緊張し、何も考えられなかった。

 殿様はしばらく康二郎の顔を、殴られた痕を中心に見つめていた。相変わらず表情からは感情が読めない。

「甲山先生を迎えに行け。三人ともしっかり診てもらうようにな。痕が残らねば良いが……」

 最後の言葉を口にしながら、殿様は康二郎の頬にそっと触れた。康二郎は予想外の展開に心の臓が止まるのではないかと思った。


 殿様は康二郎の顔から手を離すと、ゆっくり立ちあがり、元の上座に戻った。

 康二郎はというと、殿様の手が離れても呆然と固まったままだった。

 和之助は、父親に何か言おうとして止めると、康二郎を二度見した。

「康二郎?」

 側へ来ると、声をかけながら背中をパン!と叩いた。

「おい、しっかりしろ!」

 げほっと康二郎は息を吐くと、今度は慌てて息を吸い込んだ。胸を押さえながら喘いで言った。

「く、苦しかった……」

「緊張して固まるのは、まぁ、わかるが、なぜ息まで止めないといけないんだ?わけのわからん」

 康二郎は瞬きも忘れていたらしい。目は乾いて痛かった。慌てて何度も瞬いた。

 和之助が笑い出した。

「さっきの姿は、お前があんなに厭がっていた『お人形さん』だったぞ」


 間違いなく、この日康二郎が一番衝撃を受けた出来事だった。いきなり羽交い締めされることよりも、抜き身を向けられることよりも、殿様の大接近をあり得ないことだと思っていたらしい。



  夜遅かったにもかかわらず、甲山先生は快く康二郎達、三人を診察するために野田屋敷へやって来てくれた。

 康二郎は転びながら刀から逃げた時に何ヵ所か掠り傷を負い、しばらく強い力で羽交い締めされていたために、首や二の腕には赤く痕がついていた。一番酷いのはもちろん頭部である。張り手で地面に叩きつけられた衝撃で、軽いむち打ちも起こしたらしく、首も少し痛かった。

「先生、康二郎殿のお顔、痕が残ったりしませんでしょうか?」

 やたらと顔に痕が残るのを気にするおたまに、康二郎は言わずにいられなかった。

「痕が残ったって、どうということはないですよ」

 甲山先生は二人を見比べ、笑いを漏らした。

「少なくとも目立つような痕は残らないと思うが、明日は腫れて色も青くなるだろうな。ここ数日は毎日色が変わる。顔だけに目立ちすぎることにはなる。(さらし)でも巻いて隠すかね?」

「別に私は気になりません」

「この場合はお主が気になるかどうかよりも、周りが気になるかどうかだろうな。なかなか迫力のある顔になる」

 ――迫力のある顔。結構だ。

 康二郎は暴漢兄弟子に「なかなか愛嬌のあるかわいい顔をしている」とねっとり言われたことを思い出し、今ごろになってゾッとしていた。……とはいっても、この時はまだ連中の真の狙いがわかってはいなかった。


 康二郎は息を吹き返してすぐに殿様の座敷を辞した。そうしておたまが冷たい水と手拭いを用意して待ち受けている板の間へ行き、お粥をすすりながら甲山先生の到着を待ったのだが、和之助はそのまま座敷に残り、そこへ茂吉も庭から現れ、なにやら話し合いが行われたらしかった。康二郎は自分も関わっていることだから、話の中身が知りたいと思っていた。


 康二郎が甲山先生に玄関脇の部屋で診てもらっていると、終わりごろに和之助と茂吉が現れた。しかし康二郎がどんな話があったのか聞こうとしたら、和之助は先を制し、さっさと寝床に入れと言ってきた。

 康二郎は不満たらたらだったが、甲山先生にもおたまにも促され、しぶしぶ長屋へ引き上げた。

 長屋の戸を開けようとした時、ちょうど萱島甚五郎が戸をガラリと開けた。

「康二郎殿、そのお顔は……」

 誰も彼も同じことを言う。今度、屋敷内で誰かに会うときは、先に自分で言ってやろうかと茶目っ気が出たが、同時に甲山先生の言葉を思い出した。自分が気になるかどうかよりも周りが気になるかどうかが問題だという言葉だ。

「甚五郎さん、こんな時刻にどちらへ?」

「殿様に呼ばれましてな。なるほど……」

 何がなるほどなのかは言わず、甚五郎は屋敷の勝手口へと歩いていった。





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