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第二章 天明三年 冬 (五)

 

 これまでは又兵衛が書いた書状の清書だったが、今度は殿様が口述した内容の清書である。これまで以上に気を引き締めて取り組まなければと、康二郎は又兵衛の文机に道具を揃えて正座した。他の場所も考えたのだが、そんなに広い屋敷でもないので、落ち着いて取り組めるのは、結局この部屋しかなかった。

 だが殿様の文面に目を通したら、そこからもう苦行だった。

 〈この度、当家の用人、浅倉又兵衛急死せるにつき、向後は……〉

「浅倉又兵衛急死」の文字に胸がつまる。

 ――感情を殺して清書する……

 そうしようとするが、文字が色々な思い出を呼び起こしてくる。やや下を向いているから、涙は簡単にこぼれる。紙を汚してはいけない。文字がにじんでしまう。

 とっさに小袖の下に着込んでいる襦袢の袖を引っ張り出し、涙をぬぐった。

 綿入れの小袖は洗うのが大変だ。涙で汚してはいけない。又兵衛が亡くなった日に思わず和之助の小袖にすがって大泣きしたことで、おみつにずいぶん嫌みを言われて懲りていた。


 そのうち慣れて涙も出なくなるだろうと思いながら書きつづけたが、涙が溢れてくる度に襦袢の袖口で拭っていたら、作業が捗らない。鼻もぐすぐすだ。(はなみず)が紙に垂れたら、涙以上に大変である。一滴を拭おうとすることから被害が一枚ですまなくなるかもしれない。洟のついた文を送るなんて、それこそ失礼にもほどがある。なにより又兵衛様に申し訳ない。

 仕方なく文鎮を複数使って紙が動かないようにしてなるべく背筋を伸ばし、左手で襦袢の袖口を使って鼻の辺りを抑えて涙や鼻水を受け止めつつ、右手で筆を走らせることにした。微調整しながら書き続けていたら、慣れもあってだんだん早く書けるようになっていった。

 うぐうぐ言いながらも、なんとか必要な枚数を清書し終えたときには、ホッとしたと同時に一気に疲れを感じた康二郎だった。そのとき、

「終ったようだな」

 笑いをふくんだ声がした。


 濡れ縁の方へ振り向くと、和之助が手拭いを片手に、腰高障子にもたれ掛かるようにして立っていた。

「おたまとおきぬが康二郎の姿に台所で泣き笑いしていると聞いて、様子を見に来たら……」

 おもむろに手拭いを女形風に頭に乗せると、和之助は片方の袖口から襦袢を引っ張り出し、しなをつくりながらそれで目元を拭い、次に口元を隠して言った。

「ぬしさま、あんまりぞえ……」

 そこまで言ったところで、和之助は我慢できずに吹き出した。康二郎もつい吹いた。……が、笑っている場合ではない。

 ――あんな感じだったのか?

「二人が泣き笑いするのも無理はない。康二郎も罪な男だぜ。俺までも泣き笑いしそうになったよ」

 和之助は声をあげて笑った。

「小袖を汚してはいけないと思うから!文に涙や洟が落ちたらいけないし、早く書き上げないといけないし……」

 言いながら、また涙が溢れてきた。いざ始めてみたら、予想以上の苦行だった。鼻からは油断すると今も洟が垂れてくるし、頭も痛くなってきていた。

 和之助が手拭いを投げてきた。

「それはいくら汚しても構わないぞ」

 康二郎は手拭いで顔を拭くと、ビーンと盛大に音を立てて鼻をかんだ。

 いつの間におたまやおきぬが来たのか。

 ――来たなら、声をかけてくれればいいのに。


「そうですよね。手拭いを用意すればよかったんだ。俺は泣き虫なんだから」

 康二郎は手拭いを畳み直しながら己の迂闊さを悔いた。しかしそのすぐあとには

「笑い者になるのは慣れてます。笑い泣きするくらい面白がってくれたなら、本望です」

 と開き直った。

「違うぞ。『笑い泣き』ではなくて、『泣き笑い』だ。お前が涙をこらえて健気に清書し続けているのは見ているこちらも涙が出てくるんだが、格好が格好なので、ついぷぷぷ……と吹いてしまうんだよ。あんまり可愛らしくてね」

 康二郎は和之助を睨んだ。

「もうすぐ元服です」

「そうだな。前髪を落としたところで、さっきの格好を見せられたら、やっぱり泣き笑いすると思うがな。清書した文を父上の部屋へ運ぶのだろう。手伝うよ」

 むくれて文机に向き直り筆や文鎮を片付け始めた康二郎の側へ、和之助がやってきた。

「今度からはこうします」

 側へきた和之助に、康二郎は真顔で手拭いで顔半分を覆い、手拭いの両端を顎の下ではなく鼻の下で括ってみせた。

 和之助は笑いもせず、手拭いをほどく康二郎の左の袖を掴んだ。

「表まで濡れているじゃないか。襦袢が耐えきれなかったとみえる。あとは俺がやるから、早く着替えてこい。風邪をひくぞ」

 康二郎は驚いて自分で左袖を触ってみた。広い範囲が湿っていて、袖口近くにいたってはぐっしょり濡れていた。絞れそうだ。残念ながら、工夫は無駄だった。


「なんでこんなに泣き虫で弱いんだろう……」

「弱いものか。康二郎は強いよ」

 その言葉に康二郎は和之助の顔を見た。真顔だった。

「ほら、早く着替えてこないか」

「若様に片付けさせたなんて、奥様にばれたら、ここを追い出されます」

 康二郎は和之助が集めた文鎮をひったくった。

「ばれないよ」

 和之助が文鎮をひったくり返した。

「おみつさんもいるんですよ」

 康二郎がまた文鎮をひったくり返した。

「だから早く着替えてこいと言ってる」

 和之助は言うなり、康二郎を両腕で抱えあげた。最近では康二郎が一番嫌がることと承知の上での所業だ。

「若様!……じゃない兄上!下ろしてください!お願いします!あ、ありが……ちくしょー!背が伸びたらお返ししてやる!」

 後ろから幼児のように胴体を抱えられたまま、康二郎が和之助に座敷から濡れ縁に連れ出されると、必死に笑いをこらえているおたまとおきぬがそこにいた。

「お片付けはわたくし達がいたしますから、お二人とも居間へどうぞ。干菓子とお茶を用意しましたよ。康二郎殿のお着替えも居間脇の小部屋に用意してあります」

 さすが、おたまである。

 ――しかし、どうして最後にこうなったんだ?

 和之助を蹴るわけにいかず、なんとか穏便にその手を胴体からはがそうとしながら、康二郎は首を傾げた。



 八日ぶりに中居道場に出かけた康二郎は、落ちついているつもりだったのだが、佐々師範代に言わせると、浮わついているとのことだった。

「大事な御仁が亡くなったのだから、気持ちが荒れても無理ないところだが、浮わついてはいかん。一番の怪我の元だ」

 おかげでその日は佐々師範代との稽古はなかった。

「焦ることはない。気持ちをじっくり整理することだ。しばらく稽古は素振り中心にしておけ」

 佐々師範代は、康二郎を穏やかに諭した。


 康二郎は思っているよりずっと自分のことが見えていないらしいと、和之助と佐々師範代の言葉や対応に落ち込んだ。

 龍三郎にそのことを打ち明けると、「康二郎は理解のある、良い人達に囲まれているってことだな」と、返ってきた。

「俺が気にしてるのは、そこじゃない……」

「俺たちはまだ子供だよ。もうすぐ元服だといったって、まだやっと十五だ。佐々師範代も和之助殿も俺たちより長く生きているのだ。当然さ。それが年の功ってものだ」

 龍三郎は大人びた口をきくなと思っていた康二郎だが、自分が幼すぎるだけなのだと、ここのところの出来事を振り返って思い直していた。

「本当に今年いっぱいで塾をやめるのか?」

 龍三郎が話を変えた。

「うん。学問が好きなわけではないし、用人として必要な知識を教えてくれるわけでもないし、次の用人が見つかるまでは俺ができることはやらないといけなくなってしまったし……」


 殿様の奥右筆という役目柄、用人を短期間でも空席にするわけにいかず、表向きには殿様の実家の用人をしている人物の名が臨時に触れられることになった。しかしその人物は野田家のことを全く知らないし、実家と野田家は近所でもない。その人物を相談役として、実務は和之助と康二郎が分担してやるしかないのだ。


「用人として生きていくのか?」

「前に言わなかったっけ?又兵衛様のお手伝いをしたいって。用人になりたいというより、又兵衛様の手伝いができたらと思っていただけだ。けれど、今ではとにかくやらないといけなくなったから、やる。正直なところ、先のことはわからない。本気で用人を生計(たつき)にするのかと聞かれたら、すぐには答えられない……世の中なかなか思うようにいかないもんだね……」

 言いながら、康二郎はまたしても目頭が熱くなってきた。

 ――こらえろ。泣いたらダメだ。こんなところで泣いたら、何を言われることか。


 二人は塾の休憩時におにぎりを食べながら、話していた。食べ盛り延び盛りの少年達に八つ頃(午後2~3時)まで食べるなというのは無理な話だから、塾側もたった一回の休憩を長めに設けていた。側にはもう一人、橋蔵(はしぞう)という大柄な少年もいるのだが、この日は一言も口をきかず、ひたすらおにぎりを咀嚼していた。


 朝一番に康二郎は年内で塾をやめることを塾長に告げた。

 前々から康二郎は元服を機に塾をやめるつもりでいたが、年明けの二月末までと思っていたのが、年内いっぱいと少々早くやめることになったのは、康二郎自身にも残念だった。

 ――塾をやめたら、せっかく仲良くなった龍三郎や橋蔵と会えなくなるのかな……

 実のところ最近の康二郎が塾に通う一番の楽しみは、二人と会うことだった。


 和之助はこの塾を二年前に辞め、その後もほぼ毎日、康二郎と一緒に出掛けているが、行き先は塾で仲良くなった友人主催の謎の勉強会だ。

 勉強会がないときには絵を描きに何処かへ出掛け、三日に一度くらいの頻度で馬場へ行っている。そして、康二郎の塾が終わる頃に道場に顔を出し、康二郎と一緒に帰ってくるという生活になっていた。早い話が、あまり野田屋敷にはいない。

 道場では自分が練習するより、人の練習を眺めていることの方が多く、康二郎の守護、見張り役として来ている感がどんどん強くなっている。


 塾に通い始めた四年前の康二郎は、一人も同い年の友達ができないのではないかと不安だった。周りは旗本の子弟ばかりで、御家人もいなければ、陪臣もいなかったからだ。つまり、康二郎も旗本の子弟なのでその塾に入れたということなのだが、そのことが実感できていない康二郎は、周りの身分の高さにずいぶん気後れした。

 ――こんな棟割長屋育ちが紛れ込んでいるとバレたら、どうなるんだろう?無礼者と罵られるかもしれない……

 康二郎がそんな引け目を感じた理由のひとつは、着ている物の違いだった。袴は木綿も多かったが、康二郎以外は皆紬(絹)の小袖だった。康二郎はただ一人、丈夫が取り柄の手頃な木綿の上下で学舎の隅に座っていたのだ。


 そんな康二郎を気にして、隣の年長部屋で学んでいた和之助はちょくちょく様子を見に来た。また康二郎のいるところだけでなく、いないところでも、康二郎は自分の弟だと宣伝していた。

 康二郎はそんなことをしていいのかとヒヤヒヤしたものだが、実のところ庶子の届け出が行われていなかったり、着ている物が嫡男と庶子で違うのは、和之助と康二郎程の差ではなくとも、武家ではそれなりにあることで、周りの少年達はそれほど気にしていなかったのである。それを教えてくれたのが龍三郎だった。






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