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第二章 天明三年 冬 (四)

 

「おっかさんだ……」

 康二郎はしげしげとりつが抱えている人形を見た。よくみると、なんとも言えない魅力があった。康二郎はいつまでも見ていたくなるような愛らしさを人形に初めて感じた。記憶にある母の顔は痩せてほっそりしているが、十代の頃には、たぶん、こんな……

「『おっかさん』?」

  りつが康二郎を見つめながら言った。

 また涙が滲んできた。康二郎は慌てて涙をぬぐった。ふとおたまを見た。おたまも涙ぐんでいて、康二郎の視線に頷きを返した。

「私の母親だよ。七つのときに死んだ。又兵衛様もご存知だ。たぶん私よりも……」

 康二郎の言葉にりつは目を見開き、黙って人形を差し出してきた。

 康二郎は首を横に振った。

「人形は苦手なんだ。これからもこの人形を大事にしておくれ。ずっと、長く……」

 りつは再び人形をいとおしそうに抱きしめながら、強く頷いた。

 ――なんという巡り合わせだろう。二度と目を覚まさない又兵衛様とおっかさんによく似た人形を同時に目にすることになるなんて。

 そこに意味を見いだすほど康二郎は歌人でも学者肌でもなかったが、一生忘れられない光景なのは間違いなかった。

  庄次郎が現れ、殿様の伝言を又兵衛の家族と和之助に伝えたのは、それから間もなくのことだった。



 殿様の指図を実行するために和之助が浅倉家を去るときになって、ようやく康二郎は又兵衛が昨日言っていた、今日の夕方にやってくる客のことを思い出した。

「兄上……いえ、若様。又兵衛様は今日の夕方近くに大事なお客様がお見えになるとおっしゃっておいででした。私が御用の向きを筆記するはずだったんです。どういたしましょう?」

 泣きはらした顔のまま、康二郎は家士の口調になって言った。

「どうするもこうするも、とにかく俺が会うしかない。挨拶くらいはできるからな。大事な用件なら、後日また改めてお越しください……だ」


 おたまはお通夜の準備や弔問客の対応を手伝うために浅倉家に残り、康二郎は和之助、庄次郎と共に野田屋敷へ戻った。結局、御内儀は康二郎達に会わせなかったが、又兵衛の老いた母親が奥の部屋にいるはずで、おたまはその母親の世話も手伝うために残ったのだった。

 ――自分より先に息子が死んでしまったこともわかっていないのだろうか?

 呆けてしまっているという老母のことを考えてもまたやるせない。あの家で御内儀は娘二人と老母の面倒をみながら、これから暮らすのだろうか?稼ぎはどうなるんだろう?働きながら子供たちと老母の世話をするなんてとても無理だと、康二郎は母、お松の姿を思い出して思った。

 長屋では個々の暮らしが厳しい分、互いに助け合っていたが、あの辺りにあった一軒家の間でも助けあっているのだろうかと、康二郎には気になることばかりだった。気にはなっても、今の自分にはどうすることもできないのがもどかしかった。

 帰り道ではそんなことを考えて悶々としていたが、屋敷に戻ってしまうと、さっきまでのことが夢のような気がし始めた。塾も道場も突然休んだわけだが、屋敷に戻るまで、存在そのものがすっかり頭から飛んでいた。



 又兵衛の急死により、和之助も康二郎もすぐにやらないといけないことがいくつかあった。

 和之助は朝の康二郎の取り乱し方に無理はするなと気遣ったが、康二郎はこういうときには何かしている方が良いことを母親の死で学んでいたから、やると言い張った。例えやらないといけないのが又兵衛のやってきた仕事の状況確認であっても、なにもしないよりはマシなはずだと自分に言い聞かせた。

 最初、その作業は和之助がやると言ったのを、康二郎は自分のほうが又兵衛が仕事部屋をどう使っていたか、最近何をやっていたかよく見聞きしているから適任だと主張したのだ。


 殿様は長く頼りにしてきた又兵衛様がいなくなったのだから、しばらくは一段と忙しくなるだろうなと、又兵衛の仕事部屋に足を踏み入れながら、康二郎は思った。

 すぐに次の用人がみつかるとは思えない。見つかったとて、いきなり又兵衛のように対処するのは無理な話である。

 (あるじ)を失った部屋は、日当たりのよい南向きにも関わらず、昨日までと違って日射しの明るさよりも影の濃さが目につき、寂しく見えた。


 康二郎は又兵衛がつけていた帳面を一つ一つ確認していった。今日の予定も客の名前以外はきちんと書かれていた。

 すべてが整然と記録され、分類され、保管されていた。

 今日、明日に必要な帳面は分かりやすいところにまとめておいてあったから、作業は楽だった。

 ――これが又兵衛様の素晴しさだな……

 又兵衛が野田家の用人を勤め始めてから十五年ほど経つという。まさか自分が突然この世からいなくなるとは考えていなかったはずだが、いつ何が起こっても困らないように日頃から対処していたとしか、康二郎には思えなかった。

 ――大事な人が死んでも、誰に何が起こっても、時は止まってくれない……


 康二郎は作業が一段落すると、座敷から見える長屋門横にある椎の木をしばし眺めた。

 常緑の葉を持つ大木は、静寂の中に聳えていた。冬には珍しく風が全く吹いていなかった。


 七つ過ぎに現れた客は、なんと百万石の大藩である、加賀松平様の江戸家老の使いだった。

 和之助が又兵衛の急死により、せっかくお越しいただいたのに大したおもてなしもできずに申し訳ない、書面はお預かりいたします、後日改めてご連絡申しあげます……と嫡男らしく、丁寧且つ堂々と対応しているのを、康二郎は襖越しに隣の座敷で、念のため用意した筆と紙を手に聞いた。

 時々「俺は役人に向いていない。人付き合いは苦手だし、家督を継ぐのに相応しくない」と愚痴をこぼす和之助だが、朝の対応と言い、客人への対応といい、康二郎からしたら、いざとなると実に卒なくこなしていて、そんな兄を誇らしく思った。翻って自分は……と浅倉家でのことを思い出すと恥ずかしくなった。


 殿様はお城から又兵衛の家へ直行したこともあり、屋敷に戻ったのは結局この日も五つ過ぎだったが、奥様も同席するということで、和之助が康二郎の作業結果を代理報告したため、康二郎は早めに寝床に入ることができた。

 くたくただった。明日はお寺で又兵衛様の葬儀がある、お寺では泣かないようにしようと康二郎は誓った。その分、この部屋では泣く、泣いて良いんだと、久しぶりに頭から布団を被って丸くなった。



 予想以上に参列者が多かった又兵衛の葬儀に参列した直後に康二郎に課せられた次なる苦行は、又兵衛の急死を知行所の名主達といった、遠隔にいる関わりの深い人々へ知らせる手紙の清書だった。

 和之助は康二郎には辛すぎる、自分がすると抗議したらしいが、和之助には又兵衛がやっていた交渉や対応の一部をさせるのと、今の巷の状況からは、できるだけ早く知らせないといけないこと、康二郎がこれまでに何度も又兵衛の書状を清書していたこと、今では又兵衛によく似たきれいな字を書くことから、ここは康二郎にさせるのが一番だとなったらしい。

 そのお役目については殿様から直接言い渡された。

 久しぶりに一間ほどの距離で見た殿様は、少しやつれて見えた。

「断っていいんだぞ、康二郎」

 和之助は殿様の待つ座敷に向かう前にも、殿様の前でも言ってきたが、康二郎は「大丈夫です。やります」とその度に和之助に返し、殿様には「承知いたしました」と手をついたまま一言答え、その場を辞した。





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