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第二章 天明三年 冬 (三)

 

 和之助は青ざめた顔色になって信吉を見ていた。

「信吉、一体何があったのだ?昨日は元気だったではないか。いつ、どうして又兵衛が……」

「あ、朝、起きてこないので、御内儀が起こそうとされたら、い、息をしてらっしゃらなかったと……」

 ――おっかさんと同じだ……

 康二郎は辺りが急に暗くなったと思った。

「康二郎!」

 誰かが、いや和之助に違いないのだが、康二郎を抱き止めた。足ががくがくしていた。物がよく見えない。頭がくらくらする。

 ――嘘だ……嘘だ……

「とにかく又兵衛の家へ行こう」

 和之助の声は聞こえた。頷いたつもりだったが、ちゃんと頷けたかどうかわからなかった。


 和之助が康二郎を支えたまま、茂吉に奥様へ又兵衛の急死と、自分と康二郎は又兵衛の家へ向かうことを知らせてこいと指図した。茂吉が勝手口に走って間もなくおたまが出てきた。

「康二郎殿、しっかりなさいませ」

 おたまが康二郎の頬を両手で包んだのはわかった。

「わたくしも一緒に参ります。人手が必要でしょう」

「よし、では庄次郎は父上に知らせてくれ。今から走れば登城前に追い付くはずだ。知らせたら、又兵衛の家へ来てくれ」

 そこへ茂吉が戻ってきた。

「庄次郎は父上に知らせに走らせた。お前は門番を続けてくれ。私と康二郎、おたまで又兵衛の家へ行く。庄次郎には父上に知らせたら又兵衛の家へ来るよう言い付けてある。しばらく屋敷に男はお前と俊三だけになるが、頼んだぞ」

「はい、若様」


 康二郎は和之助とおたまに両脇を支えられ、又兵衛の家までの道のりをなんとか歩いた。しっかり歩こうとするのだが、足をどう動かしているのかわからない。夢の中にいるようだった。

 小さな一軒家の前で前を歩いていた信吉が立ち止まった。門はなく、通りから戸が開け放たれた土間玄関が見え、その奥には衝立と座敷が見えた。

 信吉が「野田の若様がお見えです」と玄関から奥へ告げると、少し間をおいて、疲労の影の濃い、やつれた顔つきの四十くらいの女が左手から現れた。又兵衛の御内儀と思われた。

「わざわざこのようなところにお越しいただき恐れ入ります」

 御内儀は手をついて挨拶した。

「御内儀、さぞ驚いたことであろう。我々も信じられぬ……とるものもとりあえず来てしまったが、又兵衛に会わせてくれぬか」

「もったいのうございます。変わり果てた姿でございますが、お構い無ければ、どうぞ見てやってくださいまし」

 そう答えた御内儀も、康二郎と同じ様に、どこか夢を見ているような、心ここにあらずの感じがした。

 康二郎は足をちゃんと上げたつもりが框で蹴躓きそうになった。和之助に前からぐいと引き上げられ、後ろからはおたまが身体を掴んでくれたおかげで倒れるのを免れた。


 玄関脇の座敷を覗いた康二郎の目に真っ先に飛び込んできたのは、布団の中で横になっている又兵衛だった。それ以外は目に入らなかったというのが正しい。見えた瞬間は、眠っているとしか思えなかった。だが近づくにつれ、それが生気のない、紛れもない死に顔だということが嫌というほど感じられていった。康二郎が母の死に顔を見つめてよく知っていることだ。

 又兵衛の枕元に力が抜けるようにぺたりと座りこんだ。しばらく何も考えられず、何も浮かばず、又兵衛の死に顔を見つめていた。

 ふと手が伸びた。

 微かに触れた又兵衛の頬は冷たかった。

 涙がポロポロこぼれていると気がついたとき、一気に康二郎に記憶と感情が押し寄せてきた。

 ――あの後ろ姿が最後だったなんて……まさかあれが最後になるなんて……おっかさんも又兵衛様も、俺が大好きな人が、二人ともこんな風にあっけなく逝ってしまうなんて……

「どうして……なんでだよ……おっかさんも又兵衛様も、なんで……」

 思わず漏れた言葉はそれだけだった。又兵衛が寝かされている布団に突っ伏した。

 乗り越えたはずの、母の死に受けた衝撃も蘇っていた。呆然と動かなくなった母の側に座っていた時間とそのあとに訪れた、泣いても泣いても涙が枯れなかった日々を思い出していた。


 嗚咽で震える康二郎の背中を優しくさする手があった。振り向くと、そこには静かに涙を流している和之助がいた。

「あんまりだ……」

 康二郎はこんな運命をおっかさんと又兵衛のふたりに用意した何かに対する怒り、そんな運命が待ち構えていたことに気づけなかった悔しさと、大好きな人をまたしても突然失った悲しみが混ざりあい、濁流のように湧き上がってくるのに耐えきれず、和之助にすがりついて幼児のように声をあげて泣いた。

 しばらくして感情が少し落ちつきかけたときには、今度はこの兄が突然逝ってしまうのではないかという恐怖に襲われた。人は馬鹿げていると思うかもしれないが、

 ――二度あることは三度あるというではないか!


「兄上は大丈夫ですよね?」

 今まで着物に顔を埋めておいおい泣いていたのが、急に顔をあげて真剣な目をしてそんなことを言ったものだから、和之助は一瞬きょとんとした。しかし、そこは康二郎をよくわかっている和之助である。すぐにピンときたらしく、

「俺は若いし、何より二人のように朝早くから夜遅くまで働くような無理はしていない。昔はよく寝込んでいたけども、この三年くらいは全然そんなこともないだろう?大丈夫だよ」

 にっこり笑ってみせた。


 康二郎は少しほっとした。和之助にしがみついているのに気がついたのはそのあとだった。我に返ると、人前で恥ずかしい。

 ――あ!又兵衛様のご家族……

 感情の波が小さくなり、ようやく周りが見えてきた。

 周りを見回すと、泣きはらした目で、康二郎にほっとした表情を見せているおたまが和之助の斜め後ろにいた。

 さらにその斜め後ろには、先ほど出迎えてくれた御内儀がいた。ぼんやりと又兵衛を見ていた。康二郎には今の御内儀の気持ちがわかるような気がした。

 その御内儀の横には、じっと康二郎を見つめる二対の目があった。少女が二人、くっつくようにして座っていた。一人はおそらく康二郎と同じくらいの年で、もう一人は七歳くらいだった。

 又兵衛によく似た目をしている七歳くらいの少女が不思議そうに康二郎を見ている。


 康二郎は慌てて立ち上がると、少しよろめきながら御内儀の側へ行った。

「も、申し訳ありません。私なぞが取り乱してしまい……ご家族の方々が一番辛いのに……」

 康二郎は御内儀の前で手をついた。

 御内儀は驚いていた。

「お手をおあげくださいませ、康二郎様。又兵衛のためにあのように泣いてくださるなんて、感謝の気持ちしかございません。あなた様のことは、又兵衛からよく伺っておりました。初めてお会いした気がいたしません」

 顔をあげると、御内儀は康二郎に微笑みかけていた。

「又兵衛様が私のことを?」

「はい。まるでお天道様のような子だと申しておりました。わたくしども夫婦にはご覧の通り、娘二人で男の子がおりませんから、康二郎様のような男の子が欲しいねと話したこともございます。」

 ――「お天道様のような子」とは、どういう意味だろう?頭の中がいつも晴れている?……能天気ということだろうか?軽率なところがあるのは自分でもわかっているけども……

 康二郎は「お天道様のような子」評をどう解釈すればいいのかわからなかった。

「やっぱりお人形さんだ」

 幼い女の子の声がした。

 康二郎はムッとして声の主を見た。

 ――まさかとは思うが、「お人形さん」って俺のことじゃないよな?この年になって言われたりしないよな?

 又兵衛の下の娘が満面の笑みで明らかに康二郎を見ていた。

「ほら、お姉さま、お人形さんでしょ?」


 康二郎は目鼻立ちがはっきりしているため、小さい頃には人形みたいだと近所のおかみさんや子供たちから、通りすがりの知らない女達にまで、何度も言われたことがある。言った人たちに悪気はなかったろうが、人形を不気味に思ったことはあっても綺麗とか可愛いと思ったことのない康二郎は嫌でたまらなかった。言われる度にムッとして相手を睨み返していた。しかし幼児の睨みつけなど却って相手の気持ちを煽るだけである。

「おや、怒ったのかい?睨み付けてもかわいいねぇ」

 最悪の場合には「こんなお人形が欲しいわ」となる。やぶへびだった。

 しかしそれも長屋にいた頃の話で、野田屋敷で暮らすようになってからは、少なくとも康二郎の耳に「人形」の例えは届いていなかった。


 ――すっかり忘れていたのに、よりによってこんなときに……

 嬉しそうに康二郎を見つめる女の子に、父親の死を悲しむどころか、弔問客を人形呼ばわりするなんて……と、一瞬思ったりもしたが、すぐに父親の死をまだ受け入れられないのだと思いやることはできた。しかし言わずにいられなかった。

「私は人形じゃないよ」

「だってよく似てるもの」

 ――うっ。そんなあっさりと……

「これ、りつ。康二郎様が嫌がっておいでですよ。余計なことを言うものではありません」

 御内儀が妹娘を嗜めた。

 このままでは康二郎を怒らせたままになると思ったらしい姉が引き取って言った。

「お父様がりつに、この子に買ってくださったお人形が康二郎様によく似ているのです。りつが一目で気に入っておねだりしたお人形なので、悪気はないのです。大好きなお人形に似た人がこの世にいて、目の前に現れたのがただ嬉しいのです。お気に障ったらごめんなさい。若様には失礼なことですよね……」

 姉が頭を下げた。

「いや、私は若様じゃないよ」

「若様だよ。俺達は兄弟なのだから」

 まぜっ返すように和之助の声がした。

「康二郎に似ているという人形、見てみたいな」

「お見せします。すぐ持ってきます」

 りつは和之助の言葉に我が意を得たりと、勢いよく立ち上がり、隣の部屋へ消えた。

「兄上……」

 康二郎が和之助を睨み、和之助はぷっと吹き出した。

「なんでそんなに嫌がるんだ?又兵衛が買ってあげた人形か……あの子にとってはこれからは今まで以上に大事な人形になるだろうな……」

 和之助の言ったことは康二郎も姉の話を聞いて一番に思ったことだった。しかしそれと自分が人形呼ばわりされることは別である。


 りつが大事そうに人形を抱えて戻ってきた。

 康二郎の嫌な予感どおり、赤い振袖を着た一尺近くも大きさのある姫人形だった。

 ――どこが俺に似てるんだ?

 と康二郎は思ったが、人形を見た和之助は「本当だ。康二郎に似てるね」と言ってのけた。

「その顔は……」

 おたまが言いかけて口をつぐんだ。

「お父様は、このお人形は知ってる人に似ていると申されていたのですが、康二郎様のことだったんですね」

 姉が言った。

 ――『知ってる人に似ている』?だとしたら、又兵衛様が思ったのは俺ではないんじゃ……それは……


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