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第二章 天明三年 冬 (二)

 

 道場の帰りに京屋で買った饅頭は、この前買った時より一回り小さく見えた。

「これ以上小さくなったら、一個では足りないな……」

 和之助は口をつける前にじっくり饅頭を眺めながら言った。

「米だけでなく小豆もなにもかも値上がりしてましてね。値上げしづらいものだから、そのぉ、大きさをほんの少し……」

 京屋の女将さんは申し訳なさそうに言った。

 京屋の饅頭は餡がしっとりしているところが、康二郎は好きだった。いつもはあっという間に平らげるのだが、この日は和之助に倣い、じっくり饅頭を眺めてから口に入れた。少し前までは五口くらいはかけていたのに、二口で完食した。一口で食べようと思えばできないことはないと思った。


 前年から北の方では不作だった上に、この年は浅間山の大噴火と更なる悪天候に見まわれ、未曾有の大飢饉が全国で起こっていた。

 七月初めに起きた浅間山の大噴火は、上野国に甚大な被害をもたらし、江戸でも地面を揺らし、灰を降らせた。噴火の翌日には、白くて長い毛のようなものまで降ってきた。康二郎は浅間山にいると言われる竜の鬣かなと思ったりしたものだ。それまで竜が本当にいるなど思っていなかったのに、である。

 被害の大きさに世の中には色々な風評が流れた。


 野田家の知行地の一部が上野国にあったのだが、幸い噴火の被害は軽かった。だが影響全く無しとはいかず、又兵衛は噴火の十日後に現地へ見分に出掛けていた。

 その村は野田家よりも古川という二千石の旗本の知行地の方が広いため、見分から戻ってきた又兵衛は、古川家の用人と色々斥候したようだ。

 ところが季節が進むにつれてわかってきたのは、米の生育が悪いのは上野国の知行地だけではないということだった。

 又兵衛は知行地の差配を任せている名主達からの知らせで浅間山を囲む信濃や上野以外でも米の成育が良くないことを早くから知り、悩んでいた。名主達は本途物成(年貢)の軽減を訴えてきたらしい。中にはほぼ例年どおりの石高を収穫できた村もあったが、収穫が例年の半分以下の村もあったという。


 殿様も連日帰宅が遅かった。五つ(午後八時頃)を過ぎることも多いため、家族や奉公人たち揃ってのお出迎えはしなくて良いことになったくらいだった。

 少し前には上野国で放火を伴う荒々しい一揆が起きたと言う話も聞こえてきた。

 世の中に大変なことが起こっているのが、康二郎にも感じられていた。

  そうして世間の不穏な空気に比例して、野田家への訪問客や付け届けは増えていた。付け届けの額や物の質は落ちているが、数が増えている分、多少物成が減ってもなんとか乗り切れるだろうと又兵衛が漏らすのを耳にした。康二郎の目にも用人の仕事は多岐に渡り、且つ細部に気配りが必要で、本当に大変そうだった。


 大して役に立たないとわかっているけれども、手伝えることがあったら手伝うと康二郎は又兵衛に何度も訴え、そんな康二郎の真剣さにほだされたのか、康二郎のためにもなると思ってか、少し前から又兵衛は康二郎に客とのやり取りの口述筆記や書状の清書を時々任せるようになっていた。しかもそんなことは思ってもいなかったのに、手伝うと駄賃をくれた。

 康二郎が小銭をもらうために手伝うと言ったわけではないと渡された銭を返そうとしたら、又兵衛はこう言った。

「塾や道場で友達に町屋に立ち寄ろうと誘われることがあるでしょう。そのような時にこのお金をお使いなさい。それに他所へ頼めば、こんな程度では済まないことを康二郎殿はやってくださったのだ」

 康二郎は又兵衛の心づかいが嬉しかった。いつも銭を両手で押しいただいてから、落としたり無くしたりしないよう、深く懐に入れていた。


 康二郎にとって、又兵衛は父親のような存在だった。父親を知らない康二郎が、この屋敷に来るときから自分と関わってきた又兵衛を父親のように思うのは、ごく自然なことだったろう。

 本当の父親であるらしい殿様は、康二郎には遠すぎた。「お前はわしの子だと」言われたこともない。若様と使用人達の言動で「そうらしい」と思うくらいである。


 康二郎のことを又兵衛をはじめとする野田家の家士と女中が「康二郎殿」、町人髷の奉公人は「康二郎様」と呼ぶことが、自分の微妙な立場を表しているのだが、そのことにも長く気がついていなかった。そんなものなのだろうと思っていた。

 初めて野田屋敷に足を踏み入れたあの日から、幼い康二郎を誰も呼び捨てにしていなかったのが普通のことではないと気づいたのは、道場へ通い始めてからのことだ。

 その後、塾へも通い始め、そこで仲良くなった二百俵*の旗本の三男坊である小尾龍三郎(おびりゅうざぶろう)

「それは康二郎が殿様のお子だからだよ。でなければ、女中はともかく、用人は間違いなく呼び捨てにする」

 とはっきり言われたときは、康二郎は自分の鈍感さに愕然としたものだ。


「俺なんか三男だから、お上に届け出ていたって、長兄の扱いとは大違いだ。こちらは母親も同じだっていうのに。もっとも次兄からは三男のお前はまだマシだと言われている。養子先が見つかれば、さっさと家を出ていけるからな。次男は本当に『厄介』なんだぜ。長男に何かあったら跡継ぎになる立場だから、長男が嫁を迎え子供ができるまで、部屋住みのままだ。そのくせ長男に子供がうまれたら、今度はさっさと家を出ていけになる。出ていくことができなければ、屋敷の片隅に追いやられて一生冷や飯食いだ」


 龍三郎の話に康二郎はこれまでを振り返ってみた。

 相変わらず奥様には蛇蝎(だかつ)の如く嫌われていて、油断するとおみつから思わぬ嫌がらせを受けたりするが、他の人達は皆、康二郎に優しい。殿様はよくわからないが、何も言われないし屋敷から追い出されないのだから、康二郎を悪く思ってはいないのだろう。

 そうして次男としての扱いではない部分がかえって康二郎には良いのかもしれない。

 康二郎としては屋敷に引き取られて食べさせてもらっているのだから何もしないわけにはいかないと、おたまや茂吉の手伝いをしてきたのだが、おたまや茂吉は違う考えから康二郎に手伝わせてきたのではないかと、今では思うようになっていた。

 又兵衛が康二郎に手伝わせている書状の清書や口述筆記も、これならば微妙な立場の康二郎のためになるという考えあってのことだと思われた。

 これまでも母親を早くに亡くしたこと以外は自分を不幸と思っていなかった康二郎だが、他の旗本や御家人の家の実情を知るにつれ、最近では自分は幸せ者かもしれないと思い始めていた。



 屋敷に帰ると、康二郎はすぐに又兵衛の仕事場である式台近くの座敷を濡れ縁から覗く。帰宅した挨拶と何か手伝うことがあるかの確認だ。

 今でも康二郎は又兵衛を「又兵衛様」と呼ぶ。又兵衛は「様を付けるのはおやめなさい」というが、一度ついた癖は直らない。康二郎の又兵衛を慕う気持ちからも「又兵衛様」が一番相応しいのだ。

「今日はありませぬが、明日は手伝っていただきたいことがござる。それには今日より早めに帰っていただく必要がありますが、よろしいですかな」

「わかりました。明日はいつまでに戻ればよいのでしょう」

「今日より半刻(約一時間)早くお戻りいただければと思います。大事なお客様がお見えになるので、そのお方とのお話を書き留めていただきたい」

「承知いたしました」

 康二郎は大事なお客様の口述筆記というのにわくわくした。


 手伝うと言い出した時には、実のところ又兵衛と少しでも一緒にいたいという気持ちが強かった康二郎だった。和之助に次いで、又兵衛とおたま、茂吉が好きなのだ。又兵衛が賄い費用のことから殿様を訪ねてくる旗本や大名の使者対応まで、色々なことを手際よく片付けていく様子に、あんな大人になりたいと思うようにもなっていた。


 この日も殿様の帰宅は遅く、又兵衛は帰宅後の殿様への報告と打ち合わせのため、さらに遅い、真夜中近くになってから、ようやく歩いて四半刻近くかかる麻布の御箪笥町近くにある家へと帰っていった。

 康二郎は長屋の二階からそんな又兵衛をひそかに見送った。野田屋敷に泊まれば良いのにと思っていた。



 翌朝、いつものように殿様の登城を見送り、和之助と一緒に塾へ出掛けようとした時、いつもならもう屋敷に現れている又兵衛の姿が見えないのに康二郎は驚いた。

 ――どうしたんだろう?昨日も遅かったから、今日は少し遅めにくるのかな。

 そう思い込もうとしながら、なんともいえない胸騒ぎがした。

 まさに和之助と康二郎が潜り戸から外へ出ようとしたときだった。走ってくる足音がピタリと止まり、潜り戸を激しく叩く音がした。

「浅倉又兵衛様にお仕えしている信吉でございます。大変なことが……」

 門番をしていた茂吉が潜り戸を開けると、信吉が門内に倒れ込んできた。

 荒い息の中、次に信吉が言った言葉は、すぐには康二郎の頭に入ってこなかった。

「又兵衛様がお亡くなりになりました……」

 そのまま信吉はほろほろと泣き出した。

「今、なんて言ったんですか?」

 康二郎は思わず助けを求めるように和之助を見上げた。









* 知行地から年貢として米(やその換金)を受け取っているのではなく、幕府の米蔵から二百の米俵を受け取っている。録高そのものは四公六民の計算で二百石と同じ。




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