売り切れていた幸運のチケット
「ハァッ、ハァッ......! なんだこれは......! いったいどうなってる......!」
苦悶の表情を浮かべた男が、息を切らしながらも必死に廊下を走り抜けていく。前へ進めど廊下は終わらず、かといって引き返しても風景は変わらず。その光景は猿飛と呼ばれる人魔大戦対策課の構成員が遭遇した魔法に、非常に酷似していた。
だが、猿飛の時には、もう少し風景に個性があった。神祈派の構成員が寝泊まりするための個室が存在し、儀式を執り行うための祭殿が存在し、時折目に入る調理場では食物にありつく事さえ出来た。
しかし、男の進む道に存在するのは、果てしないまでの廊下だけ。時折十字路が表れて三方向の道筋を選択出来たりするが、代わり映えなどただそれだけ。
男はひたすら殺風景な道から、どうにか脱出しようと足掻いている真っ最中だったのだ。
「悪魔に捕えられたんだ......! 碌でも無い末路になるのは分かっていた......!」
夢の魔王陣営が陣取った神祈派本拠地の外では、つい数時間前まで人間と悪魔の激戦が繰り広げられていた。
人間側の被害数は言うに及ばず、しかし、悪魔陣営の被害も人間側が快挙と呼べるほどに大きい。両者は痛み分けに近い形となり、悪魔陣営の撤退を以て事実上の停戦期間へと突入していた。
けれど停戦とはいえ、そこに人間同士の戦争で適用されるルールは存在しない。逃げ遅れた悪魔は容赦なく討伐され、連れ去られた人間には筆舌に尽くし難い凄惨な末路が待っていた。
男もそんな連れ去られた人間の一人。彼を連れ去った悪魔は、追駆と呼ばれる悪魔の配下。なぜか手応えの薄い悪魔達の中では突出した戦闘力を有しており、男も一撃で昏倒させられ気が付けば連れ去られていたのだ。
その後に男が目にした光景は、常軌を逸していた。追駆と呼ばれるリーダーらしき悪魔は、捕えた十数人を使ってすぐさま命をもろともしない拷問を開始したのである。
周囲に存在している悪魔殺しの数は。その悪魔殺しが使う魔法は。自分たちの所属する魔法組織の能力規模は。こちらの意にそぐわない悪魔が存在する可能性は。
誰もが危機的状況なのは分かっていた。命を守るためならば、誰だって秘密を明かしてしまいたかった。けれど、前線に送り出される歩兵扱いの魔法使いに、そんな重要な情報が回って来る筈がない。誰もが望まずして口を噤むか、知らないと首を横に振るしかなった。
「だが......! あれは......!」
けれど追駆は、沈黙も無知も許さなかった。あの悪魔の前に引っ立てられた者は皆、次の瞬間には四肢のいずれかが千切り飛ばされる事となった。
追駆が許した猶予は四回。だが、いずれの魔法使いも、その四回を待たずしてショック死なり失血死なりしてしまった。そんな軟弱さに心底見下げ果てた追駆は、今度はどす黒い赤に染まった部屋のあらゆる刃物をランダムに突き刺すようになった。
悲鳴はいつまでも終わらず、追駆の苛烈さは増すばかり。男はショック死できた前半に選ばれた人間を呪った。そして、地獄の苦しみを味わうであろう自分の運命を呪った。
しかし、何の幸運か。男を縄で縛り付けた悪魔は、見るからに大柄で細かい作業を苦手としていそうな悪魔だった。彼を縛り付けていた縄は、ガチガチでこそあったが所々に隙間が出来る結び方だった。
男はゆっくりと自分の縄を緩めていき、監視の目が弱まる生贄の呼び出しタイミングを狙って逃げ出したのだ。
後ろから響き渡るのは、悪魔達の怒号と見捨てないでくれという人間達の懇願。だが、男は迷わず逃げ出した。彼のような何の取柄も無い魔法使いにとっては、貧弱な魔獣一体だけでも手に余ったのだから。
そして、幸運は重なった。男は大きな失態を犯して半ば参戦を強制された神祈派の構成員であり、雑用係として神祈派本拠地の内部を目にした事もあったのだ。
遥か昔の記憶なれど、真っすぐ逃げ出す分には問題の無い間取りの筈だった。男の逃亡が突発的だった事もあって、組織的な追手や妨害がかかるのももっと先の筈だった。
「なんでどこにもいけない......! どうしてどこに行っても廊下しか無いんだ......!」
だが、男の幸運は最後まで続かなかった。彼が手にするかもしれなかった幸運は、すでに猿飛と呼ばれる男によって消費されてしまっていたのだ。
神祈派本拠地には、すでに亡羊と呼ばれる夢の魔王陣営幹部の魔法が根を張っていた。彼女の魔法は脱出不能な巨大結界を生み出すものであり、その恐ろしさは脱出に成功した猿飛も文字通り肉を切らせる必要があった程だった。
そんな亡羊は、つい最近に叱責を貰った。言葉では反発したものの、その失敗は彼女のプライドに容赦なく傷を付けていた。
結果として亡羊は結界から遊びを失くした。脱出を妨げる事だけにリソースを注ぎ、憐れな犠牲者を思いやる気持ちなど欠片も存在しない結界に作り替えた。
そして、外部からの無能な働きが無ければ、亡羊の結界は弱者には決して脱出出来ない監獄と化す。加えて、中の様子は逐一確認が可能であり、望めばいくらでも配下を投入する事が可能である。
「よぉ......探したぜぇ......!」
「ひっ......!」
自らの結界に獲物がかかった事を知った亡羊は、一体の悪魔を結界内に送り込んだ。全身から返り血を滴り落とした、怒り心頭の追駆という悪魔を。
「よくもまぁ、逃げ出せたもんだ。クズの仕出かしが原因なのは分かっちゃいるが、お前もどうしてニンゲンにしては機転が利くじゃねぇか」
「ハァッ......! ハァッ......!」
「どうせお前も情報の一つとて、持ち合わせてねぇんだろ? だから選ばせてやる。今すぐ綺麗に殺されるか。足掻いた上で惨たらしく殺されるか。あぁちなみに、テメェを逃がしたクズは前者を選んだぜ」
「あっ......」
そう言って投げ渡されたのは、辛うじて輪郭が残った肉塊。平時なら正体へ辿り着くのに少しの時間を要しただろうが、会話の内容と微かな記憶が告げていた。この肉塊は、自分を縛り付けるのに失敗した悪魔の死体であると。
「さぁ、選べ」
「うわあぁぁぁああ!?」
男は即座に後ろへ振り向くと、一目散に逃げ出した。
すでに息も絶え絶えで、心身共に疲労が重なっていた筈だった。だというのに、死の恐怖が間近に迫っているためか。驚く程に足は一歩一歩を踏みしめ、男が想像していたよりもずっと早い逃げ足を実現していた。
けれど、そんな事に喜ぶ余裕など無い。男は今まさに、いつ終えるとも知れない死の追いかけっこを始めたばかりなのだから。
ここで追駆を撒いた所で、男が結界内から脱出するのは不可能に近いだろう。けれど、地獄の苦しみを味わった後の死と、朦朧とした意識のままに終われる衰弱死。どちらが良いかと問われれば、誰だって後者を選択する。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ.......ウッ!? ゴホッ、ゲホッゲホッ!」
逃げて、逃げて、逃げて。遂に身体が限界を迎え、足がもつれて廊下に倒れ込む。しかし、咄嗟に後ろを振り返ってみれば、そこからは死の恐怖をまき散らす気配は感じられなかった。
一時的とはいえ、どうにか逃げ出す事に成功した。けれど、この幸運が永遠に続くとは思えない。男が身の振り方について、考え始めた時だった。
「貧弱なニンゲンにしては、それなりの逃げっぷりだったじゃねぇか」
バキリと廊下の壁に亀裂が走ったかと思うと、そのままベリベリベリと壁板が無造作に剥がされていく。そうして人間大の大穴が空けられた先から姿を現したのは、先ほど撒いた筈の追駆だった。
「な......なんで......」
「なんで......? なんでって、そりゃあ......俺は追駆の真名を持つ、夢の悪魔だぞ? テメェが悪夢で追われた時、完全に逃げ出せた事があったか。襲撃者を返り討ちにした事があったか?」
「あっ......あぁ......!」
「ねぇだろ? ある訳がねぇ。いつだってテメェ等に許されているのは、夢からの脱却だけ。そして、それは逃げ切った証明なんかじゃ断じてねぇし、この場はどこまで行っても現実だ。都合よく脱却出来る夢なんてクッションは存在しねぇ!」
「......」
追駆とはその真名が示す通り、追われる悪夢を根源とした悪魔である。その魔法は単純でありながら強力。標的を絶対に逃さないし、標的が離れる事すら許さない。
男は自分が詰んでいる事を悟った。このままでは、待っているのは地獄のような末路だと察した。故に、その行動に移るまでは、恐ろしいほど早かった。
男の手の平に、残った魔力が収束していく。最後の抵抗かと、流石の追駆も身構える。
「あ?」
だが、男が放った魔力弾は、追駆を狙ってはいなかった。限界をも超越した破格の魔力弾が直撃したのは、自らの頭部であったのだから。
パンッという乾いた音と共に、追駆の足元を赤い液体が染め上げていく。
「......ハァ、ある意味で勝ち逃げされたか。この追駆ともあろう者が情けねぇ」
男の生死を確かめる必要など無かった。肉体を見ずとも、魂は過剰な魔力消費で粉々に砕け散っている。これでは配下に治療させた所で、出来上がるのは人形だ。
「まぁ、決戦までの暇潰しにはなったか。高みの見物を決め込む魔法使い共に、雑魚を消費してチャンスを伺う悪魔殺し共。どちらが相手だろうと、前に立つなら滅ぼすだけだ」
そう言うと、追駆は男を引きずったまま、今しがた生み出した廊下の穴へと引き返していく。普通であれば、亡羊の許可が無ければ脱出不能な結界内。
されど追駆の魔力は一瞬で消失し、後には沈黙の廊下だけが残るのみであった。
次回更新は7/6の予定です。




