第110話 待ってるからね…
俺が謝罪を口に出さなくなっても、ロベリアは困ったように笑うばかりで反対に俺が慰められるような始末だった。その気持ちも収まらないままに晩餐と入浴を済ませ、また夜には2人きりになる。メーティスがクリスの身体を洗ってやっている間、粗相があった時に都合がいいというので彼女1人に任せることになり、そうなると俺とロベリアは先にバスルームを使い終えておかねばならなかったのだ。備え付けのバスルームから、温い湯がゆっくり肌に掛かって滴る音が響き、それを耳にしながら俺とロベリアは再びベッドに座って無言で過ごしていた。
先程とは違い、どちらかが会話を始める気配すらない。俺が口を切れば謝罪か、わざと気を逸らすような意味の無い発言にしかならないだろう。ロベリアから話題を振られても、俺が下手に対応しようとしてから回るだろう。そこまで考えると無理に会話をする必要が見出だせず、こうして無言でいるのが利口と言えた。そうして何の会話も無いままに時間は過ぎ、とうとうメーティスが脱衣場を経てベッドまで戻ってきた。その後も別に会話は無かった。
着替えさせ易いぶかぶかとしたボタンのパジャマと腰元のシルエットで主張されたおむつ、そしてみすぼらしい頭を隠すために急いで被せられたニットキャップなど、湯上がりとは思えない重装備を強いられたクリスはその暑苦しい格好に文句の一つも無くベッドに横たわられた。それはメーティスが使う予定のベッドで、様子を見るに彼女は今日のところはクリスと添い寝してやり過ごすつもりのようだ。当のメーティスは駆け足で戻っていって念入りの風呂掃除に取り掛かる。忙しなく働く彼女と対称に、やることも動く気も無い俺達は呆然としていた。
「…クリスさん…クリスティーネさん…もし…もし…」
手持ち無沙汰なロベリアは自分のベッドの上を這って近寄り、触れようか迷って宙に手を浮かせながら顔を寄せて話し掛けた。しかしそれでクリスが反応を示す訳も無く、ロベリアはそのままじっとしてクリスの顔を覗いていた。普段は開けたままになっていたクリスの瞼は、入浴に差し当たってメーティスが動かしたのか珍しく瞑られている。それが余計に観察の意欲を削いだようで、ものの数秒でロベリアは此方に向き直ってまた黙り込んでいた。
ロベリアを挟んで反対にある俺のベッドからは多少歩く手間を掛けなければクリスに触れることは出来ない。そのためこうして眺めるだけでいるが、ロベリアが彼女を見つめた気持ちは分かるような気がする。先日にクリスが愚図ったのを目の当たりにして以来、今このように沈黙している彼女にも感情が確かにあることが迷信染みつつも感じられるのだ。しかしそれを確かめようにも彼女は何も言わないし、表情も変わらない。だから今は諦める他に無い。
バスルームから歩いたメーティスはすぐにクリスの背を抱いて横になる。既に歯も磨き終え、磨かせ終えていた彼女は満足し安らいだ顔をしてクリスの肩を撫でた。そうして言葉も無く眠りついたメーティスに続き、ロベリアも『おやすみ』と口を動かして横になる。俺は部屋の灯りを消しに立ち、少しは顔色が良くなったようだとクリスを見た。唯一世話を一括りに受け持ったメーティスだけが、僅かにクリスと通じているように期待した。
翌朝、3人とも朝食より随分と早く目が覚めた。また虫の知らせだろうかと思ったが、この後の予定を思えば憂鬱も納得がいく。あとの2人が何を思っているのかを物言わぬその表情からは窺い知れなかったが、せめて彼女らが会議室で激しく批難されるようなことが無いように俺だけでも上手い言い包め方を探しておくことにした。窓から見えた曇り空に胸騒ぎが煽られる。
おむつ替えが要るクリス以外は先に着替えを済ませておき、時間丁度まで待って朝食に赴く。テーブルは昨晩と比べても豪勢だった。魚介と木の実をふんだんに使った品々に、遠目に見えた団体客は幸福一杯の有り様だ。俺とロベリアは無味のそれらを作業気分で口に詰める。メーティスは細かく刻んだそれらをクリスの口に運び、自らはほんの少し手を付けたのみだった。俺達のテーブルには幸福や安心などの感情は無く、与えられた仕事をこなすような息苦しさだけが募った。
「…もう私は要らないから、残りは2人で食べておいて。先にクリスを連れて部屋に戻ってるよ。準備に色々してあげなきゃだし」
そう告げて席を立ったメーティスはクリスを抱き上げてスタスタと部屋に戻っていった。取り残された俺達は食事を終えて去っていった団体客の盛況な残響の中黙々と料理に手を付ける。
その末に、ロベリアはクリスが口を付けたスプーンごと皿を俺の前に押し出した。彼女に悪意は無いだろうが、俺にはそれが生理的な拒絶に見えて悲しくなり、何も言えず受け取ってクリスの食べ掛けを口にした。
食事を終えた俺達は部屋に戻る前にその階でトイレを済ませることにした。入口で別れ、便座についた所でふと、頭に奇妙な感覚が走る。音にしてノイズ、視覚にして稲妻か荒波か、そして体感として身震いする程の寒気と胃がむかつくような気持ち悪さが全身に染み渡る。一瞬のことか、それとも暫く意識が無くなっていたのか、まるで気温が変わったようだという錯覚が時間の経過を思わせた。
それらの現象に判断がつかないまま漠然と悪寒を感じて手早く済ませて出る。その間に上階から騒々しく足音が響いてきて予感が更なる暗雲を帯びていた。少し遅れてロベリアも便所を出てくると、別に示し合わせもせず部屋へと走り出した。彼女も眉を寄せて唇を結び、その様相に焦りを匂わせていた。
辿り着いた部屋のドアは開け放たれ、ノブは壊れて廊下に落ちていた。その先に見える部屋の奥では窓が無惨に割れていて、その下の窓縁から壁まで一遍に外向きに破られている。まるで猛獣が窓を突き破ろうとして自重で壁まで倒壊させたかのような惨状に唖然としていると、恐慌した形相のメーティスが廊下を走って俺達の横に迫ってきた。前のめりになって訳を話そうとしてしどろもどろになる彼女に、その慌て様に状況を聞かずともアクシデントを悟った俺は、
「落ち着け、とりあえず深呼吸…――」
そうして言い聞かせたのも束の間、自分で気を取り直したメーティスが間髪入れずに状況を告げる。その半狂乱の叫び声にロベリアは竦み上がり、同時に事態の深刻さを痛感したようだった。
「クリスが宿を抜け出したの!早く見つけてあげないと、このままじゃクリスが、…クリスが…!」
「ああ、ああ!分かってる!…いや、分かった。とにかく探そう。まだそう離れては…」
「ごめんなさい、私のせいで…!勝手に動いたりしないと思ってトイレの外で待たせてたら、そしたら頭に変なのが飛び込んできて、それで!それでこんなことに…!ごめんなさい、ごめんなさい!」
「いや、いいんだ!お前1人に任せてた俺達の責任だ!とにかく探そう!急いで行けば何事も無く終わるはずだ!」
胸にしがみついて必死に謝るメーティスに、両肩を押して剥がして言い聞かせる。やっと少し落ち着いてきたメーティスは、それでもまだ慌てたままコクコクと頷いて俺の先導を待った。俺はロベリアと視線を交わし、直ぐ様窓に走り出した。ロベリアは俺の眼に頷き返した後俺に続き、共にメーティスも駆け出した。
…実際メーティスが悪かったなどとは全く思わない。話を聞くにメーティスも俺達と同様に謎の現象に見舞われていた。原因というならそれが原因だ。そしてまたそうだとすると、あの謎の感覚は、おそらくクリスが俺達を振り切るために送ったものだと言える。リーベルの件を思えばクリスの仕業と考えて何もおかしくない。彼女が厳重にクリスを見張っていても同じことだったに違いなかった。…しかし問題は、もしそれが事実だとして、クリスがそうまでして俺達を離れる理由が分からないことだった。不思議なことに俺達は、『クリスが誰かに拐われた』のではなく、『クリスが自ら逃げ出した』と疑いもせず考えたのだった。
そう広くないこの港で、住民達の騒ぎはすぐ耳に届いた。耳に障る嘲笑の響きや暴言、鈍い打撃音の数々…。街並みの中心で広場のように大きく空いた空間に民衆が群がっていた。傍の住宅の屋根に上がれば、そのドーナツ型の群衆の中央に1人の女性が倒れているのが見える。それは全身を砂埃で塗して今まさに投石の雨を浴びているクリスだった。人々に指差されて嗤われる彼女は、ニットキャップも服も剥ぎ取られ、乳幼児さながらの情けない格好で芋虫のように丸まってじっとしていた。
単なる怒りでは感情の整理がつかなかった。その光景に目を見開いて固まった。人々の無情に理由を問わずにいられなかった。
尊厳も無く晒された彼女の乳房に投石が弾んだ。投げた男は楽しそうに笑っていた。彼女の着ていたパジャマとブラは原型を留めず執拗に引き千切られていた。それを踏みつけて女達が嬉しそうに笑っていた。連れられた子供達が道端の草を彼女の頭に放った。子供達は面白そうに笑っていた。
笑っていた。笑っていた。笑っていた。皆して笑っている。涙を誘うような悲惨な彼女に、同情など誰もしない。屈託も無く笑っていた。
俺は無言でその中に飛び込んでいった。間も無く2人も続いてくる。群衆は手を止めて俺達を凝視した。遊びの最中に玩具を取り上げられた彼らは困惑と稚拙な怒りをその顔に湛えて、すぐに投石を再開した。
「あんたら、どうしてこんなことをするんだ!?この子がお前達に何をした!?1度でもお前達を苦しめたか!?傷付けたか!?恨んだり蔑んだりしたか!?彼女は何もしなかった!それがどうしてこんな目に遭わされるんだ!」
俺の叫びに彼らは聞く耳を持たず、笑いながら石を投げた。投げる物が無くなった者が気まぐれに返答した言葉も、心の無いものばかりだった。
「何故かって決まってる!そいつの目が光りやがったからだ!そいつは魔人だ!お前らもそうだ!人間様には魔人を裁く権利ってのがあるんだよ!悔しかったら役に立ってみろ!俺達を守ってみろ!命を散らして魔物から俺達を守るのがお前ら愚図共の役目だろうが!さっさと魔王倒して死んでこい薄鈍共!」
「おまけにそいつも蓋を開けてみりゃいい歳しておむつなんか付けた変態じゃねぇか!俺達人間はこんな気色悪い奴に守られてたってのか!?冗談じゃねぇ!俺達はお前らみたいなキチガイにお守りをされる程低能じゃねぇんだ!馬鹿にしてんじゃねぇ!」
「お前らもそこを動くなよ!少しでも動きやがったら民兵を呼びつけて締め上げてやる!これは正義の鉄槌だ!人間を守れない役立たず共は全員死ね!魔人なんか魔物と同じだ!俺達人間を滅亡に追いやろうとする敵だ!1人残らず辱しめて血祭りに上げてやる!」
人間達はそうして次々に物を投げつけてくる。俺達はクリスを囲んで庇い、逃げ出す準備を整えた。
「…ぅー…うぅ…」
背後でクリスが呻いた。その声の弱々しさに、その物悲しさに、彼らは気付けない。それが剰りにも悲しかった。
彼らは俺達の言葉など意に介さない。自分達の行為も、彼女の身の上も理解しようとしない。そもそも彼らはクリスのことを知っていて行動したのではない。『そこに魔人がいたから』という理由にもならないことで団結して加害者に回っていた。彼らは俺達の言葉を人のものとは思わない。善悪の真相にも興味は無い。もはや人間の理解など得られるはずが無かったのだ。
人間に見切りをつけ、飛び立とうとしていた俺達に、「待て!」と一言掛かる。それは群衆が発したのではなく、更に遠くから投げ掛けられたものだった。人間達は手を止めて振り向いた。そして声の源が歩いてくるとその道を開けるようにして群衆が散らばり、人々は勝手に悲鳴を上げて逃げ惑った。現れたのは会議室の面々で、彼らは厳重な装備を身に纏って俺達の前に並んだ。辺り一面の道の陰、家の窓から人間達が覗き、討伐軍の一同は鬱陶しそうにそれを見渡す。それを威圧と捉えた小物達は「殺される!」と騒いで立ち処に去っていき、それを追う者は誰もいない。
『助かった』、そう思った。しかし彼らの眼に同情など微塵も宿らず、先頭の男はその武器の切っ先を俺に向けている。メーティスはゆっくりと俺の横に立ち上がって彼らを睨み、ロベリアは怯えてそれを見回しながらクリスを抱き寄せる。俺は戸惑って1歩身を引き、先頭の彼と眼を合わせた。
「…何ですか、それは……。…何のつもりで…」
「今の騒ぎは見た。…やっぱり、その女のために我々が命を掛けるのなんて馬鹿らしいよ。クリスティーネはアカデミーに引き渡させてもらう。君達のことはよく伝えて、何とかクリスティーネの傍にいられるように掛け合ってみよう。それでどうかな?」
彼は躊躇も無くそう告げた。突然で何を言っているのか分からず、数度口を開閉して言葉に迷っていた。そして彼が1歩踏み出して足下の砂を鳴らすと、その拍子に俺も怒りが突発した。
「な…、何をふざけたことを!一体何を見てたんだ!こんなにも悲惨な姿を見てまだそんなことを言うのか!?あんたらには人の心ってのが無いのかよ!?…大体、ユーリ先生とのことはどうなる。あんたらユーリ先生と約束してここにいたんだろ?あんたらはそれを裏切ってクリスを突き返そうってのか!?ユーリ先生や他の皆も命懸けで救い出した彼女を、その犠牲もッ、全部台無しにして元の地獄に叩き込もうってのか!?」
しかし彼は歩調を速めた。そして怒鳴るような勢いで捲し立てる。メーティスはクリスを庇うように構えを取り、俺は彼に向かって歩き出した。…もう戦いは避けられない。それが分かっていながらも、俺は疑問を投げ掛けなければ気が済まなかった。人の善意や正しさが、こんなにも簡単に打ち砕かれることを、出来るなら認めずにいたかったのだ。
「その女はもう救いようが無いだろう!?一目で分かるじゃないか、それはもう人なんかじゃない!肉体が動くだけの物体だ!もう生きてなんかいないんだ!それを人間扱いしてどうなると言うんだ!今思えばユーリさんも馬鹿なこと言ってたと思うよ!」
「そうかい、利己主義のクソ野郎!てめぇ自分の言葉に耳を澄ませてみろ、『俺が無事なら女1人くらい死ねばいい』って聞こえるぜ!とんだ畜生だよあんた!次に自分の女が出来たらベッドで囁いてやりゃあどうだ、惚れ惚れするぜ!」
「これ以上死に急ぎに付き合っていられないんだ!大人しくそれを渡せ!無駄な抵抗なんかするな!」
「てめぇ、これ以上クリスを『それ』と呼ぶなよ…!命の保証はしねぇぞ!!」
叫び合う内に走り合う。互いの距離が急激に迫る。彼が繰り出す横薙ぎを容易に避けて身を屈め、掴んだ脚に『コールド』を掛けて放すこと無くすり抜ける。そのまま地面を滑り込み、地を蹴って宙を返り、その勢いで彼の後頭部を蹴り抜く。彼は顔から倒れ込み、此方は反動を活かした前宙着地。そして透かさず彼の隙を突いて『フリーズ』を掛けると、それまで手を出さずにいた彼の仲間達が一斉に駆け出した。それを一睨みし、凍り付けの彼の処理を優先する。
彼の手から離れていた魔鋼のロングソードを拾い上げ、即座に鎧ごと斬りつける。3度斬り、起き上がろうとした彼を蹴り倒してもう1斬り。そうして彼の肌が灰色に染まると素早く残りに向き直り、雄叫びを上げて突撃を掛ける。残りは総勢28人…。纏まって掛かる彼らを前に、恐怖どころかやり易く思った。
『フリーズ』で1/3を一斉に凍らせ、その無力化の間に残りを斬る。行動不能にした1人を盾にして1人、また1人と倒していく。取り逃がした数人がクリスを直に狙うも、瞬間的に召喚されたペリュトンの『ウィンド』を受けて飛ばされ、此方がそれを空中に上がって斬る。召喚後にあるはずの10秒のインターバルを狙ってまた数人がメーティスを襲うが、インターバルなど関係無しに召喚を果たして再び『ウィンド』で押し返す。…リードとの戦闘の際にも発見した違和感だったが、此処でそれを追及してはいられない。すぐに戦闘に戻る。
その後もメーティスらはその場を逃げようとはしなかった。その場でクリスを守って苦境を共にする。それが俺には大いに励みになり、戦いそのものにも貢献した。この状況では彼女らを逃がすより、眼の届く場所に待機してもらっている方が都合がいい。その方が不要な心配もせずに済む。そんな俺の思考を彼女らは分かっていて、敢えてこの場に残ってくれたのだ。…しかし、
「ぅうーッ!うぁあぁあ…!ひゅっ…ひゅぅ……えひ…ぁは!」
…クリスが奇声を上げ始めた。いつかのように外界に呼応しているのだろうが、その様子は更に危機迫っていた。その感情の正体を知りたがった俺は、背後から迫る一撃に反応が遅れた。
間に合わず咄嗟に肉体を硬化して防御し、その相手を抱き寄せて腹を突き刺す。それでトドメは差せたものの、突き飛ばして刃が身体から抜けるまでの間はどうしても次の行動には移れなかった。その確実な隙を狙って忍び寄っていた最後の1人が俺を背中から刺してきた。その刃は真っ直ぐ左胸を貫いて先端を覗かせ、俺は血泡を吐いてその刃を掴み一息に振り向く。思わぬ対応に相手は手を払われ、そうして体勢が崩れた所を容赦無く蹴り飛ばした。全身に噴き出た汗も拭わず倒れた彼に歩み寄る。
悲鳴を上げ、許しを請う彼を逆手持ちの剣で突き刺し続ける。怯えて暴れる彼を踏み押さえ、その肌が灰色に染まるまで何度も顔を刺突する。遂に彼の身体が動かなくなると、俺は自らの背に刺さった剣を押し出して息を切らしたまま辺りを見渡す。自分を中心に血の海が生まれ、そこに踞る魔人達は物言わず畏怖の眼を俺に向けていた。
…ポツリ、ポツリと大玉の雨粒が降り注ぐ。走り気味に勢いを増したその雨は返り血と汗を濯ぎ落とし、額の雫が不意に目に伝う。それを急いで袖で拭うと、未だ奇声を上げているクリスへと眼を移す。メーティスが此方を不安げに見つめて駆け寄ろうか悩む後ろで、一心に憂いた顔を向けてロベリアがクリスを抱いている。クリスの目はあの時と同様にぐわっと見開かれ、口から垂れた唾液は胸の谷間に落ちている。そしてそれまで殆ど動かなかった両手足は、力無く地面を押すように蠢き続ける。…まるで、何かを目指して踠くように…。
…不意に、スタッ…と柔らかい音が響く。同時にメーティスが、ロベリアが、俺の向こうに現れたそれに恐ろしく目を剥いて息を殺した。まだ見ぬ内に殺気を覚え、絶壁の縁に身を置くような恐怖が俺を貫く。
「…まるで獣だな」
その深く低い声は微笑の下に発せられたような篭り方をしていた。凝り固まった身体を捻るようにしてゆっくりと振り向く。血の海の切れ目に足先を揃え、その重々しい立ち姿に勝るとも劣らない冷徹で鋭利な眼を向けている。
鷹のような眼としか言い様の無い鋭い視線。その主は魔鋼の鎧兜と盾を身に纏い、血の色のロングソードをゆったりと提げた光の守護者の頭領――ヨヒラ・シロムラだった。




