憧れの人
ガイヤ・フォン・レオンハルト。
その名を知らぬ者は、この王都にはいない。類稀なる剣の才能を持ち、若くして近衛騎士団の要職に就いた彼は、冷ややかな白金の髪と、気高く澄んだ紫紺の瞳を持つ、誰もが振り返る美貌の青年だった。
そして何より、冷徹なまでに任務を遂行する姿から「氷の騎士」と囁かれる一方で、身分の低い者にも等しく慈悲深いという、貴族の模範のような人物だった。
エナが彼に恋をしたのは、一年前の建国記念舞踏会でのことだ。
華やかな輪から一歩引いて、立ち尽くしていたエナは、他の傲慢な貴族たちとは一線を画す、彼の凛とした佇まいに一目で心を奪われた。もちろん、子爵令嬢である自分など、公爵家の、しかも王太子の側近たる彼の手が届くはずもない。ただ遠くからその姿を眺め、胸を焦がすだけの、淡い片想い。それがエナの、誰にも言えない秘密だった。
そのガイヤが今、目の前で馬の、手綱を握り、雨に濡れながら自分を見つめている。
エナは混乱した。なぜ彼がここに? まさか、セシルの「婚約内定者」とは、彼のことだったのだろうか。
頭が真っ白になるエナを余所に、ガイヤは長い脚を動かして彼女へと近づいてきた。雨が彼の美しい顔を濡らし、肩を伝って滴り落ちている。
「……申し訳ない。遅くなってしまった」
ガイヤの声は、低く、少し掠れていた。息を切らせているところを見ると、本当に全力で馬を走らせてきたのだろう。
(そんな……!待ち合わせの相手が、ガイヤ様だったなんて!)
彼はエナの前に立つと、深く頭を下げた。公爵家の人間が、格下の(と、彼は思っているはずの)侯爵令嬢に対してこれほど真摯に謝罪するなど、普通ではあり得ない光景だった。
「急な任務が入ってしまい、どうしても抜け出すことができなかった。連絡を入れる間もなく、貴女をこのような雨の中で待たせることになってしまった。どんな罵倒も受ける覚悟だ……セシル嬢」
その名を聞いた瞬間、エナは冷水を浴びせられたような心地がした。
そうだ。彼は、自分をセシルだと思っている。この馬車は侯爵家のものなのだから、当然だ。
エナは深く被ったフードの影から、必死に声を絞り出そうとした。ここで正体を明かさなければならない。私はセシルではありません、と。
しかし、彼女が唇を開くより早く、ガイヤが顔を上げた。その紫紺の瞳に、真摯な、そしてどこか痛々しいほどの光が宿っているのを見て、エナは声を失った。
「貴女がこの縁談を嫌がっていることは、かねがね聞き及んでいた。無理もない。親同士が勝手に決めた話だ。だが、私は……私は、どうしても今日、貴女に直接お会いして、お伝えしたいことがあったのだ」
「え……?」
エナは思わず、小さな声を漏らしてしまった。
ガイヤの言葉は、まるで彼女が想像していた「政略結婚に冷淡な男」のそれとは正反対だった。彼は、セシルに会いたがっていた? いや、それどころか……。
「雨が酷くなってきた。立ち話も何だ、馬車の中へ入らせていただいても?」
ガイヤの問いに、エナは反射的に頷いてしまった。ここで彼を雨の中に放置するわけにはいかない。それに、彼がこれほど必死に伝えようとしている言葉が何なのか、エナの心は、醜い嫉妬と、止められない好奇心でかき乱されていた。
「……どうぞ、お入りください」
エナは声を抑え、できるだけセシルに似せた口調を意識して答えた。フードは深く被ったままだ。
ジャンは手綱を受け取ると、すかさず馬車の扉を開けガイヤを中に促す。ガイヤはエナに傘を返すと、大きな身体を屈めて馬車へと乗り込んできた。




